三十五話 薬師と漁師と一目惚れと



「あ、ありがとうございます……では……」


 浅黒い手の中へ恐る恐る数枚のコインを渡して代金の支払いを済ませると、祖母の持病の薬の瓶を胸に大事に抱えた少女は、礼を言って少し怯えた様子で踵を返し、逃げるようにドアを開けて出ていった。


 その後ろ姿を寂しそうに見ながら、他に聞く者などおらぬが、そっとつくのがクセになった小さなため息が、薄紫の煙と一緒に小さな小屋の中を漂っていく。


 『ペインキラー あります』


 外から見ると、もうだいぶ字が掠れて薄くなった木製の小さな看板が小屋のドアに掛かっている、ペインキラーとは痛み止めのことである、薬屋かと予想はつくのだが、しかしその小さな看板以外に何かを記したものは見当たらない。


 店名や店主の名すら記すものがないので、どこの地に行ってもしばらくすると、この店と店主は両方ともペインキラーと呼ばれるようになる、いつしか店主もあまりこだわらない性格なのか、自らペインキラーを名乗るようになっていた。


「そろそろこの辺も潮時かしら……」

 キセルの先がジジッと赤熱し、紫煙を気だるげに長く吐き出してから店主は独りごちる。

 壁に数種類の乾燥した薬草と思しき束が掛けられており、テーブルの上には薬研や乳鉢など調合用の簡単な道具が置かれている、先程少女が持って行った薬が入っていたのだろう、蓋の開いた小さな鉄瓶の中は空であり、薬草特有のほろ苦い匂いが立ち昇っていた。


 椅子の背もたれに体重を預け、組んだ脚をテーブルの上に投げ出して、店主は物思いに耽る。

 背中にやっと届くほどの濃い褐色の髪は素直なストレートで、主の思索の邪魔をせぬようにサラリと後ろへ流れている。

 切れ長の目はキツイと感じる人もいるかもしれない、しかし深い藍色の瞳と相まって店主の物静かな雰囲気のせいで、どちらかというと悲し気に見られることが多いという。

 実際に少々疲れたような表情である、見た感じまだ三十路にも届かぬ若さであろうに、着ているものもカーキベージュの七分丈パンツと、洗いざらしのネイビーのシャツ、中は明るめの灰色のタンクトップと、趣味がいいのか大雑把なだけなのか判断に困る様相である。


 そして彼女が他人から見られるときに一番注目されるのが、百七十センチを超す長身とスラリとした格好の良いプロポーション……であればよいのだが、実際のところはその肌の浅黒い色であった。

 物質界の者が見れば、ラテン系ほどの浅黒さの肌など見慣れたものであり、情熱的なイメージでむしろ好意的な視線を集めることが多いのだが、精神界ではめったに見ることがないらしく、目にした人々が囁くのは「不吉」や「恐ろしい」といった根拠のない無責任な単語が入る会話が圧倒的に多い。


 だからという訳ではないが、店主は一か所に平均三年ほどしか留まらず、気の向くままに様々な土地を転々としているようである。

 そう、逆に考えると全くいわれのない不当な評価ではあるが、見た目での印象が悪いのに、何故一か所に三年ほども居着けることができるのか、それはひとえに彼女の薬師としての腕の良さゆえであった。

 どこの村や街でも最初は厄介者が来たというような目で見られる、しかしどこの村や街にもいる自治体の有力者や地主などの持病を、彼女の調合する薬が快癒させると、迷惑そうな白い目が一転して都合のよい畏敬の目に変わるのも毎度のことだ。


 そしてそんな彼女が短い間ではあるが、根を下ろした土地を去る理由は単純明快である、薬が売れなくなってしまうのだ、そう、良質で高い効能をもつ彼女の薬の供給は、近隣に住む住人の中に薬師を必要とする者をいなくしてしまう、病の癒えた嬉しそうな笑顔に複雑な心境ではあるが、商売あがったりなのであった。


 根がサバサバした思い切りの良い性格のようで、翌日まだ日も昇りきらない早朝に、大きなバッグを肩から掛けた姿が小屋の中から現れる、ドアを閉じて少しの間感慨深げに住み慣れた小屋を眺めると、掛かっていた小さな看板をヒョイとはずした。

 それをバッグの中に突っ込んで、クルッと振り返った彼女は朝日の射し始めた南への道を歩き始める、くわえたキセルから流れる紫煙が消えると彼女の居た痕跡は、小屋のテーブルに置かれた昨日来た少女の祖母への最後の薬瓶と、簡単な別れの挨拶の書かれたメモだけであった。


「う~ん、やっぱり太陽は苦手ねえ~」

 腕を真上に上げ伸びをしながら歩く、言葉とは裏腹に気持ちはよさそうである。

 すると、スッと一瞬彼女に射す陽の光が翳った。

 バサッパタパタッと羽音と一緒に彼女の肩へ舞い降りたのは翼のある影、いや、黒い鳥であった。


「おはよ、BB」

 馴染みの友人へ言うようである、BBも尾羽をピッピッと動かして答える。

「今度はどこまで行こうか~? 思い切って国境目指しちゃう?」

 どこか楽しげに言う彼女へ、またそんな思い付きで……知らねーぞ、と言わんばかりにBBはプイッとそっぽを向いた。

「なによ、また馬鹿にして~、今度は本当に行っちゃうんだから、見てなさいっ」

 パタッと羽を打つ音と共に空へ舞い上がる黒い影を追うように、意地になって脚に力を込め、少し速度を上げた彼女は南への道をズンズン歩いていく。


 ザザーン

「あれぇ~……おっかしいなぁ~……」

 ザザーン

「国境気付かずに通り過ぎちゃったのかなあ……」

 ザザーン

「しばらく誰ともすれ違わないし、おかしいな~とは思ったのよねぇ……」

 出発から七日後、彼女は崖壁の上に立っていた、遥か遠くまで見渡せるがしかし、彼女の前に広がるのは見渡す限りの大海原であった。


 下の海面までは数十メートルはあろう、波は激しく岩肌にぶつかり、垂直に切り立った崖面はとても上り下りなどは無理な険しさである。

 いつ崩れるかもしれぬ崖の縁に、近寄ることすら相当の胆力が必要なのだが、彼女は文字通りの崖っぷちに腰に手を当てて立ち、あろうことか目もくらむような崖下の海面を、うわ~っすご~いという顔をして平気でのぞき込んでいる。


 左右を見渡してみるが、見える範囲では海岸線は、全てこのような切り立った崖になっているようだ。

「困ったわねえ~、この辺ももうあの子の国に入ってるのかしら、にしても人がいないと商売にならないし……う~ん、戻るべきか進むべきか……」

 言葉とは裏腹にあまり困った様子ではないが、腕を組んで考えるポーズをとっている。


 ふと、空を見上げると目を細めてジーッと一か所を見つめ始める、海岸線沿いのしばらく先の空を、小さな黒い点が円を描いて飛んでいるのが見えた。

「さっすがBB先生」

 フフンと笑って肩に掛けたバッグのベルトを掛けなおし、BBの示す方へと歩き出す、日はだいぶ傾きかかってきておりもうすぐ空も海も茜色に染まるであろう、今夜野宿になるかどうかの瀬戸際であった。


 途切れそうなほど細くなってきた道を辿り、少し小高くなっている丘の頂上へ、よっこらせとバッグのベルトを何度も担ぎ直しながらようやく登り詰めた。

「わぁ~……」

 丘の頂上から向こう側が見えると、自然に感嘆の声が出る。

 小さな湾が一望できた、崖で囲まれた湾の中は、さほど広くはないが砂浜が続いており、崖の下にぐるっと民家が並んでいる、どうやら漁村のようであった。


「今夜は野宿しなくて済むかしら」

 半分嬉しそうに、しかし半分憂鬱そうにひとりごちる彼女の言葉は、やはり己の肌の色で宿泊を拒絶されるのではないかとの不安の色が濃く含まれていた。


 今まで幾度となく聞いてきた心無い言葉に、諦めの境地には至っても決して慣れることはない、どうしても嫌な方へ向きがちな思考を首を振って振り払い、おそらくはそれ一本だけしかなさそうに見える崖下への坂道を、地平が赤みを帯びてきた空を見ながらゆっくりと下っていく。


 浜へ下りると家々からはもう炊煙が立ち上っていた、外に人影は見えず浜辺には漁を終えた小舟が繋がれて並んでいる、おそらく早朝に漁へ出るため早くに就寝する習慣なのであろう、早めに宿の交渉をせねばと逸る気持ちになりながら、村人の姿を探して彼女は砂浜を歩き進む。

 しばらく行くと網の山があった、そしてその中から立ち上がる姿が見えた、助かったと思いながら歩み寄っていった彼女は、何を感じたのか少し間を空けて立ち止まった。


 立ち上がった姿も近付く彼女に気付いてこちらを向く、サーフパンツのような膝までの半ズボンで、上半身は裸の精悍な青年であった、年の頃は二十代中盤ほどか、赤茶色の短髪と赤銅色に焼けた肌が、それだけでも海の男の逞しさを伝えてくる。

 いい男……とも思ったのであろう、少し赤くなった彼女はしかし、それとは別のことで驚いていた。


 この人……私の目を真っ直ぐ見てる……私の……目しか見てない……

 翡翠色の澄んだ瞳が彼女の藍色の瞳を見つめていた。

 上から下までを値踏みするような、不信感のこもった視線しか知らぬ彼女にとって、真っ直ぐに目を見つめてくる彼の視線は衝撃としか言えぬものであった、まるで心の中に飛び込まれたような感覚が鼓動を早めていく。


「やあ、この辺じゃ見かけない顔だな、道に迷ったのか?」

 話しかけたのは彼のほうからであった、日に焼けた精悍な顔に人懐こい笑顔が浮かんでいる。

「あ、あの……私……あの……」

 その笑顔が彼女の早まる鼓動に追い討ちをかけた、みるみる顔に朱が差し目まで潤んでくる、しどろもどろになってなかなか言葉の出ない姿は、彼女を知る者ならば目の当たりにしてさえ信じられないのではないだろうか、その証拠に少し離れた木に止まり様子を見ていたBBの口は、大きく開きっぱなしになっている。


 青年はこの漁村の村長の一人息子であった、宿を探している旨を伝えると眩暈がしそうなほど眩しい笑顔で快諾してくれた。

「私、薬師をやってまして、ペインキラーという通り名で呼ばれてます、聞いたことあるかしら……?」

 薬の噂を聞いてそこそこ遠方からの来客もあったりしたので、もしかしたらと思って聞いてみたが。

「いや、全く聞いたことがないな」

 はっはっはっと楽しそうに笑われると、悔しいと思うより嬉しいと思ってしまう女心であった。


「ペイン……キラーさん? 長いな、じゃあペインさんと呼ぼう」

 なんだか痛い子みたいな呼び方だけど……もうどうでもいい、好きにしてっという感じである。

「俺はタオだ、薬師なんてこの村に来るのは初めてだろうな、オヤジや皆も喜びそうだ、もうすぐ晩飯だ、一緒に食いながらいろいろ話を聞かせてくれ」


 母屋に案内するぞ、こっちだ、と手を握られた。

 体が小さくビクッと跳ねる、しかしタオは気付かずそのまま手を引いていく。

 私の……手を……全く気にしないで……握ってくれた……

 彼女の浅黒い手は、しっかりとタオの赤銅色の手に握られている。

 母屋に着くまでの短い時間、彼女は目の端に浮かぶ涙を乾かすのに必死だった。


「オヤジ、お袋、客だ!」

 母屋に入るなりタオは土間から大声で言う。

 囲炉裏の前に座っていた村長であろうオヤジさんと、囲炉裏に据え置いてある金輪に大鍋を置いていたお袋さんが、同時にこちらを見る。


 まだタオが手を握ったままの彼女を認めると、二人とも急激に目が見開かれる、それにつれて表情も驚愕のそれに変わっていく、息を飲む音まで聞こえてきそうだ。

 見慣れた反応に瞬時に現実へ引き戻される、そう、そうよね……これが普通……タオが特別なだけで、私はどこへ行っても……

 キュッと唇を噛みしめて、胸の奥の絞られるような痛みを我慢しようとしたそのとき。

 オヤジさんとお袋さんが凄い勢いでタオへ向き。


「嫁かっ⁉」「お嫁さんっ⁉」

 二人同時に叫ぶ。

「ちがうわっ!」

 即突っ込むタオ。

 力が抜けて土間にズルズルとへたり込むペインさんであった。


 刻を置かず、やっと夕闇が忍び寄ってきたときには、すでに囲炉裏端は弾む会話と笑い声で賑わっていた。

 新鮮な海の幸を振舞われながら、村のことを教えてもらう。

 ハナサキ村という村名であった。

 二十戸ほどの小村で村民は五十人に満たない、主な収入源は、漁で獲れた魚を干したり塩漬けにした加工品の販売だそうだ、一番近い隣村でも歩きで半日程かかる距離なので、鮮魚の販売はほとんどしないという。


 小さな村の割には生活レベルが結構高いと感じたが、実は海岸線はかなりの範囲に亘って断崖絶壁が続き、この村のように船を出せる場所が極端に少ないということであった。

 つまりこの近辺地域では、この村が漁業にかけてはほぼ独占状態だという、ならもっと人口も増えそうなものであるが、やはりかなりの僻地であるということと、砂浜を含めた居住スペースの狭さから、現在の人数が最も良い状態だという話である。

 最近北の方から領土を広げてきている王国が、もう少し内陸の方までをその版図とし、そちらの商人が魚を買い付けに来始めているので、景気が更に良くなったそうである。


「あ~ときにペインさんや」

 夜もだいぶ更けてきて、自家製の発酵酒で真っ赤になったオヤジさんが、酔うと必ずするという人喰いマンボウを仕留めたときの話を終えると、彼女を呼んだ。

「はい、なんでしょう?」

 彼女も発酵酒をもらい、コップからチビチビ飲んでいた、少し上気した顔はアルコールのせいだけではなく、今夜喋った言葉の量が過去半年分より多いせいもあるであろう。


「少々言い辛いんじゃが……」

 心臓がドキリと小さく跳ねた、私、何かやらかしちゃったかしら……

「この母屋はワシと母さんの愛の巣でな……」

「は……は?」

 意外な言葉過ぎて理解が追いつかない。

「夜も更けると、ワシと母さんの二人以外は立ち入り禁止になるんじゃ」

 あら、いやだお父さんったら……とお袋さんが恥じらう。

「じじーいい加減にしろ」

 とタオが突っ込むが、当人は意にも介さない。

「じゃでな、離れに床を用意するんで……」

 あ、なんだそういうことか、もう……驚いちゃったわよ。

「そっちでタオと一緒に寝てもらうことになるでな、よろしく」

 って……えええええええっ‼ と、更に数十倍驚かされた。


「まったく、明日も早くから漁だからもう寝るって、どうして普通に言えないかねえ……」

 先程のオヤジさんの話は、そういうことだったらしい……

 案内された離れの部屋の床に、客用の寝具を敷いてくれたタオは大きな欠伸をした。

「あ……じゃあ、私のせいで夜更かししちゃったの……よね……」

 少しシュンとなる。

「いや、そんなことは……」

 と、途中で言葉を切ったタオは少し考えて。

「いや……うん、やっぱりペインさんのせいだな」

「え……」

「ペインさんと一緒に飯を食って、ペインさんと一緒に酒を飲んだ時間がすごく楽しくて、ついつい夜更ししちまったんだよ」

 みるみる赤くなる彼女を優しそうな笑顔で見ながら、タオは部屋の入口まで歩く。


「だからさ……もし、急ぐ旅じゃないなら……夜更ししなくてもいいように、しばらくここにいないか?」

 部屋と廊下の狭間に立つ横顔は、心なしか少し赤くなって見えた。

 こちらはもう本格的に真っ赤になって、クランクラン揺れている彼女は声すら出ない。

 その様子を見たタオはクスッと笑い。


「俺とオヤジは早くから漁に出るけど、ペインさんは旅の疲れもあるんだから、自然と目が覚めるまでゆっくり寝てるんだぞ」

 そしてまた翡翠色の瞳で彼女を見つめて。

「昼過ぎには戻る、できれば……待っていてくれ……おやすみっ」

 ポーッと魂の抜けたような彼女を後に、母屋に通じる渡り廊下へ姿を消した。


 部屋に独りになると、はぅ~と溜息をつく、一緒に寝てもらうっていう話は冗談だったのね……などと考えているのは内緒であった。

 彼女はスッと立ち上がり縁側へ出る、月は背後の崖に隠れて見えない、しかし月からの蒼い光は崖の影を村に落とし、さらに向こうの海原を黒と灰色のコントラストで浮かび上がらせる。


「BB……私、どうしよう……」

 憧れて止まない想いが叶いそうになったとき、今度は失う不安と恐怖に襲われる、今まで何も手にすることのできなかった彼女が、自分の知らなかった弱さを初めて痛感して震えている姿を、梢の上のBBは静かに見つめていた。


 翌日は晴天であった、街であればまだ人々が起き出すには早いほどの早朝である。

 まだ薄暗いうちから出漁していったタオやオヤジさんたちはもちろん居ない。

 そして村の中はもう、街で言うところの昼過ぎくらいの活気である、男衆は海に出ているため少ないが、子供と女性が浜辺や家の前で動き回っている。


「う~やっぱり太陽は苦手……」

 手をかざして陽の光を遮りながら、縁側から見える海辺の風景に、なんだかとんでもなく寝坊をしてしまったような感覚になっていた彼女を、お袋さんが見つけてくれて風呂を勧めてくれた。


 お言葉に甘えることにした、着替えをバッグから出して浴室へ向かい湯を使う、体を洗っているときも、湯船に浸かっている間も、昨日のタオとの出会いの場面から夜更けの離れでの会話までを、とめどなく繰り返して思い浮かべてしまう。

 しばらくここにいないか……って言ってくれた……

 帰りを待っててくれって……言ってた……

 きっと……今夜も泊まっていけって……言ってくれるわよね……言ってくれるかな……?

 はぁ……

 湯船の縁の腕に頬を乗せて、切なそうにため息をつく、BBが見たら卒倒しかねない光景であろう。


 突然ハッ! と顔が上がった、視線は宙を泳いでいる、頬が赤くなっているところから見ると何か妄想しているらしい、するといきなりザバッと湯船から立ち上がった。

「も……もう少し、念入りに洗っておこうかしら……」


 ホカホカになって上がってくると、お袋さんが呼んでいる。

「あーペインさん、ちょうどよかった、今仕上がったのよ、これちょっと着てみてちょうだい」

「え、これは……」

 訊ねた瞬間お袋さん、ここぞとばかりに話し出す。


「村で一番背の高いお婆ちゃんがね、若い頃に仕立てた昔の民族衣装なんですって、前に見せてもらったのを思い出してね、古いけど生地は上等だし、誰か貰ってくれないかねーって言われてたんだけど、でもおばあちゃん背が高いでしょ、昔はすっごくスタイルが良かったみたいだし、誰もサイズが合わなかったみたいなのよ~、そこでペインさんなら着れるかもって、貰ってきて少し手直ししてみたの~、ね? どうかしら?」

 タジタジとなる彼女にそう一気に話しきると、お袋さんは楽しそうに笑いながらホレホレと着替えを急かす。


「そう、まずズボンをね……あらピッタリ! よかったわあ~」

「そして上着ね、そうそう、そこを留めて……すごい……似合うわあ~ステキよ~」

 薄い青色の柔らかい布で作られた美しい服だった。

 物質界でのアオザイにとてもよく似ていて、ズボンは足首が締まってスラリと見える七分丈、ロングのチャイナ服のような造りの上着は、両側の腰の上から大胆なスリットが入っている、ウエストを絞るような型になっているので、細身の彼女がよりスマートに見えていた。


「きれい……勿忘草ですね……」

「そう、さすが薬師さんね、その胸の刺繍の花も、その服の色も勿忘草よ」

 話好きのお袋さんは続ける。


「大昔にあった風習でね、好きな人に勿忘草を送るんですって、でもその意味が好きですなんて甘いものじゃなくて、あなたのこと忘れてあげないんだからっていう感じだったんですって、可笑しいわよね~、でも素敵……」

「まあ、そんな話があったんですか、初めて聞いたわ」

 うふふ、と顔を見合わせて笑う。

「でも、こんな素敵な服、私になんて……」

「服ってね、似合う人に着てもらえるのが一番幸せなのよ? 私たちだって居たい所に居るのが一番幸せでしょ? それと一緒よ」


 優しく微笑むお袋さんの言葉に。

「居たい所に居るのが……」

 自問自答するまでもない、私はここに居たいと思っている……でも……それは許されることなの……?

 訊ねたい衝動が抑えられなかった、言葉が勝手に滑り出たようであった。


「あの……私の……この肌の色……気にならないんですか……?」


 言った瞬間口元を手で押さえる、身体が震えた、涙が湧き上がる、言わなければよかったと後悔が押し寄せる、逃げたいっ! と思い走り出そうとしたそのとき。

「私はね……」

 お袋さんの静かな声が聞こえた。


「私は、この村のことしか知らなくて、外の世界のことは全く知らないのだけれど……」

「もし外の世界が、あなたをそんなに悲しい顔にさせているのだったら……」

「こんな素敵な女性をこんなに悲しませる世界なんて、私はきっと嫌いになるでしょうね」


 その言葉で彼女は理解した、タオもオヤジさんもお袋さんも、最初から彼女の全てを受け入れようとしてくれていた……疑っていたのは自分だけだったのだと。

 ポロポロと大粒の涙のこぼれる、自分より背の高い彼女を、お袋さんはそっと抱き寄せて頭を撫でてくれた。


「もうすぐお昼ね、お父さんたちが漁から戻ってくるわよ」

 彼女の涙がようやく止まった頃、お袋さんが何か思いついたように言う。

「そうだっ! ねえペインさん、この服を差し上げるかわりに、一つお願いをきいてもらっちゃおうかしら」

 楽しげなその声に、目元の赤くなった目をキョトンとさせて。

「お願い……ですか?」

「そう、お願いよ」

 ウフフと笑うお袋さんであった。


 浜辺から沸き立つ活気が伝わってくる、漁に出ていた船が戻ってきたようだ。

 水揚げされた魚は、今度は村の女衆に渡されて加工の作業を進めるという、漁に出ていた男衆は、漁具の後片付けを済ませて間もなく家に帰ってくる。


「帰ったぞー!」

 タオとタオに続いてオヤジさんが帰宅した。

 はーっやれやれドッコイと、中へ進もうとしたオヤジさんは、目の前のタオにぶつかりそうになり慌てて止まる。

 土間の中程でタオは固まっていた。


「お……おかえりなさい……」

 勿忘草の美しい服で居間の上り口に立ち、二人の帰宅を迎える彼女は、タオの目にはどう映ったであろう。

 その褐色の髪は、後ろで束ねて捩じり上げられ、櫛を差し込んで固定する、いわゆる夜会巻きの髪型にされており、普段は大きく肌を見せるのを極力避けている彼女の、細いうなじを見せつけていた。

 これがお袋さんのお願いであった。

 紅を差してもらった唇が少し震えている、染まった頬も紅く、恥ずかしそうに伏せた目はしかし、チラッと何度もタオを見る。


 タオはといえば、目は大きく、口は半分ほど開いたままで固まっている、肩に掛けていた荷物がドサッと土間に滑り落ちたが、気にする様子もない。

 ん~? とタオの後ろから覗き込んだオヤジさんが、彼女を見てホッホ~ゥという顔になる、続いて棒立ちになっているタオを横から見上げて、その彼女に魅了された表情を見ると、途端にニィ~ッと嫌らしい笑みを浮かべる。


「おい母さんや、ワシャ先に風呂に入るぞっ」

「あら、そうですか? じゃあ釜に火を入れなおしますね」

 トコトコと示し合わせたように奥へ引っ込んでいく、途中で。

「タオちょろいな」「シッ!」

 という小声が聞こえてきた……


「こ、この服……いただいちゃったの……どう……かな……?」

 二人きりになり、沈黙に耐え切れず彼女が訊く。

「あ、ああ……よく似合ってる……きれいだ……」

 ハッと我に返ったタオが応えた、喉がゴクリと鳴る。

 タオの言葉を嬉しそうにかみしめながら、彼女は意を決して話し出した。


「タオ……私ね、しばらくこの村に……居させてもらっても……いい?」

 聞いた瞬間タオは、放心したような顔になる。

 あれ? 意味が通じなかったかな? そう思い彼女は言葉を続ける。

「ほ、ほら、海藻も材料にして薬を作ってみた……」


 彼女の言葉は、タオのみるみる嬉しそうに変わる表情で遮られる、自分のここに居たいという言葉だけでこんな顔をしてくれる……彼女の必死の決心は彼女の望む以上の想いとなって返ってきた。

 突然ガシッと手を握られる。

 えっ? えっ? ええっ⁉

 そ……そんな急に? わ……私、どうしよう⁉

 真っ赤になり頭もグルングルンになるが、チャンスを逃したくもない、すぐに心を決めて、乾いた唇をそっと舌先で湿らせて準備するのだけは怠らない。

「来てくれっ!」

「え?」

「一緒に……来てくれっ、早く!」

 手は引っ張るために握ったようであった、煩悩の決心は大きく的を外したようである。


 外へ出てどんどん進んで行く、人が一番多くいる方へ向かっているようだ、進む先は広場のようになっている、真ん中には大きな焚火の跡も見えた。

 椅子代わりに何本も置かれた丸太に座って、ナイフで貝の身を取り出す作業をする人や、のんびりお喋りするお婆ちゃん、漁具の手入れをしたり、走り回って遊んだり、いろんなことをする人達がワイワイガヤガヤとやっている所へ、彼女の手を引いたタオが飛び込んできた。


 タオに手を握られたまま、たたらを踏んで立ち止まった彼女に、全員の視線が集中する。

 賑やかだった広場がシンッと静まり返った、老若男女問わず皆驚愕の表情だ。

 この流れは……ま……まさか……


「嫁かっ⁉」

 練習したんじゃないか? というくらい揃った声であった。

 こ、この村ってみんなこんな風なのね……

「ま……まだだ……」

 するとタオが返答する。

 え……? まだ……って……どういうこと? それって……それって……いつかは……って意味……よね……?

 タオが彼女を紹介する声が遥か遠くの潮騒のように聞こえる、ボゥッとした頭の中にヨメの二文字がフワフワと漂い、キラキラと光を放っている。

「――さん、ペインさん?」

 タオの呼ぶ声でハッと我に返る、危ないっ! あまりの幸福感で本当に痛い子になるところだった……


「皆さんよろしくお願いします、材料が揃う物ならどんな薬でも作らせていただきますので、遠慮なく申し付けてくださいね」

 深々と頭を下げると。

「あー……腰の痛みの薬もあるのかのう……?」

「肩こりも薬で治るのかしら?」

「膝がねー痛いんだよー」

「ね~ね~、惚れ薬ってないのかな?」

「それは昔の民族衣装じゃのう~、なつかしいのう~」

 ワーッと彼女の周りに人が集まる、つないでた手が離れ、人の輪からはじき出されたタオはポリポリと頭を掻きながら。

「こりゃ……店が必要かもな……」

 人の波の中から、タオに助けを求める彼女の右腕だけがニュッと出ていた。


 それからは毎日が目まぐるしく過ぎて行く、日々新しい発見があり、日々何かが培われて育っていくのを感じていた、タオがどこへ行くにも彼女を連れ歩いたため、彼女はすぐに村へ溶けこみ、事実上のタオの嫁扱いを受けるようになった。


 半月が経過した頃には、村長宅の離れのすぐ横に、立派な彼女のアトリエが完成する、無医村のこの村に来た薬師である、賓客扱いは彼女が固辞したためされなくなったが、やはり長く留まって欲しい願望は村人の間では強い、したがってほぼ村ぐるみで寄ってたかって建てたため、記録的な早さで完成したアトリエであった。


 設備が充実すれば供給も安定する、幸い裏の崖の上には大きな森が広がり材料には事欠かない、もともと営利目的でやろうとしていないので、必要な時に必要な分だけ作るというのんびりしたものである。


 だが質の良い薬はやはり噂になるもので、北の王国領から魚の買い付けに来る行商人が、彼女の作成する薬にも目を付けるには、さほど時間はかからなかった。

 無理な商売の申し入れは断ればよかった、現に大量生産の話は薬の質の低下と、材料を供給してくれる森が荒れるとの理由で断っている、しかしそれではということで少量のオーダー受注の話を持ち掛けられた。


 最初は渋っていた彼女であるが、商人はさすがである、来る前に村人からリサーチ済みであったらしく、彼女に一言。

「結婚って、意外にお金がかかるものですしねえ……」

 そう言った後、なかなか良い仕入れ額を提示してきた、当然その言葉に抗うすべを彼女が持つわけもなく、かくしてペインキラーブランドのネットワークが、行商人によって形成されていくこととなる。


 アトリエに紫煙が漂う。

 十数種類に及ぶ乾燥させた薬草の匂いを嗅いで確かめながら、調合の作業を進めている最中であった。

 この村に来てからは彼女は普段の喫煙はやめていた、しかし調合作業だけは愛用のキセルをくわえながら行う。

 薬草は類似したものが非常に多い、視覚や触覚だけにとどまらず、味覚や嗅覚もフルに活用して確認作業をしなければならない、彼女のキセルは薬草の匂いを嗅ぎ続けて感覚が麻痺した嗅覚を、リセットするためのものであった。


 オーダー表を眺める、ここへ来る前からもそうであったが、年々痛風の治療薬の需要が増えてきている、北の王国の生活レベルがどんどん上がってきている証拠だ、二百年ほど前に侵略戦争で滅亡寸前に追い込まれたが、見事に復興して現在は以前より繁栄してきているようだ。

「あの子もがんばってるようね……」

 フーッと煙を吐き出して作業を再開する。


「あ~またベリーをたくさん獲ってこなきゃ~……メンドクサイのよね小っちゃいから……」

 痛風治療薬の材料であるらしい、もう幾度となく納品してきたが評判は非常に良く、行商人は来るたびに納入数を増やしてほしいと懇願してくる、しかし彼女がなかなか首を縦に振らないのは、彼女は絶対言わないが実はベリーの収穫が面倒だという理由からであった。


 そのとき窓から射す陽の光が、流れる影で一瞬遮られる。

 バサバサッ!

 間髪入れず激しい羽音と共に窓の外にBBが舞い降りる、カツンッ! と嘴で窓を突き、その様子は警戒心が溢れていてただ事ではない雰囲気だ。


「何事?」

 彼女が外に出て行くとBBはすでに空へ舞い上がっていた、彼女もその方向へと走り出す、喧騒が聞こえ始めたのは、向かっている村の入口の方であった。


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