三十四話 故郷とデートと小悪魔と



「うっ……」

 頭がグラグラする……オレは一体……


 ここは……オレの部屋か……ベッドから落ちて、床で寝ちまったのか……?

 記憶に霞がかかったようにあやふやだ、ポッカリと穴が開いたように大事なことが抜け落ちている気がする……


 身体もダルい、上体を起こすのも面倒で寝たまま視線を移すと、大きな窓が目に入る、遠くに海が見えるお気に入りの窓だ、なんだかとても懐かしい感じがする。

 そうだ……この窓から強烈な光が差し込んできて……真っ白になって……

 ボーッとした頭の中で何かがつながり始めていく。

 そして、記憶の閉じ込められた保管庫の扉が音を立てて開け放たれる感覚、溢れ出る記憶の洪水の中からバシッ! と次元の裂け目に落ちていく場面がフラッシュバックのように脳裏に浮かんだ。


「イルビスッ!」

 起き上がる間も惜しく、そのまま這いつくばって部屋の床の上を見回す、いないっ⁉

 まずい……手を離してしまったのか? どうしよう……探せるか……?

 イルビスの安否がわからず、確かめる術もわからない、かなりの窮状に頭から血の気が引いていくのがわかる、本当にどうしよう……途方に暮れながら身を起こそうとしたそのとき。


「う……う~ん」

 横のベッドの上から声が聞こえてきて。

 ぷらん、と白い脚が目の前に下がってきた。


「イ……イルビスッ! ……うっ⁉」

 ベッドの上にいたのかっ! と喜んで上体を起こして見た瞬間オレの動きは固まった。

 仰向けに、あまりにも無防備に気を失っている……


 長い黒髪がシーツの上に広がっている、閉じた目は睫毛の長さを際立たせていて、小さく柔らかそうな唇は少し開き、呼吸をする度に厚みのあまりない胸が上下している。

 中身はともかく見た目は絶世の美少女だ、ただ寝ているだけの姿にこれほどの破壊力があろうとは……しかし、今はそれよりなによりも……だ。


「パンツ丸見えじゃねーか……」

 ボソッと言うオレの声は若干震えていた……

 そう、めくれ上がっている、もちろんスカートが、しかも半端じゃない見え方だ。

 ベロッとめくれ上がって真っ白いお腹と、可愛いおへそまで見えている、ここまで全開だとこちらとしては喜ぶというより困ってしまう、やはりパンツはチラッと見えるところに価値があるんだなあ……としみじみ思った。


 ともあれこのままでは非常にまずい、ここはやはりスカートを戻さなければ……

 端をつまんでゆっくりと下げていく、おへそが隠れて黒いレース付きのパンツも徐々に隠れていくのを見ていると、少し名残惜しい気もする……いやいや、いかんいかん。

 ふっと、なんとなく気配を感じて上を見る。

 目が合った。

 イルビスはキョトンと不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

 固まったオレはまだスカートの端をつまみ上げていて、パンツも完全に隠れてはいない……


 彼女も状況が把握できてきたのだろう、小刻みに震え始めてジワッと目が潤む、そ、そうだ、こいつオレがもう本能で動いてる変態じゃないってのを知らないんだった!

「ちがっ……」

 言い訳は、側頭部にめり込む勢いで放たれた蹴りでかき消された。


「――で? 目が覚めたときには薬の効果は切れておったと?」

 ベッドの端で脚を組んで座るイルビス、その前の床で正座をしたオレが頷く。

「正気に戻った上で、気を失っている私にイタズラをしようとしたのじゃな……」

「ちがうよっ! めくれてたのを戻してたんだってばっ!」

 ジトーッとしばしオレを見ていたイルビスは、アウアウと弁明するオレの言葉を一応信用する気になったのだろうか、フイッと目を逸らして話を変える。


「まったく……訳の分からない妙なことばかりじゃ、そもそもここは何処なのじゃ?タクヤよ、お前の知っている場所であろう? 説明せいっ」

「あ、ああ……ここは……物質界のオレの家のオレの部屋だ……」

 驚くかなと思ったが、イルビスは眉間に皺を寄せて難しい顔になっただけであった。


「……驚いてないみたいだな?」

 聞くとジロッとこちらを睨み。

「これでも女神の端くれじゃ、アウルラとつながっているかいないかくらいわかるわっ」

 なるほど、物質界だろうというのはわかっていたのか……

「でも、どうしてオレの知ってるところだと?」

 イルビスは思索を巡らせているのだろう、少しの沈黙の後に話し始める。


「比較的短距離を移動する簡単な次元の裂け目は、入口と出口二か所を同時に作る、そしてその間の空間を曲げて二か所を一時的にくっつけてしまうのじゃ」

 なるほど、わかりやすい。

「だが、それゆえに出発点となる地点はともかく、離れた場所にある出口の場所や様子も事前に知っておく必要があるのじゃ、少なくとも頭の中で正確にイメージできるくらいにはのう」

「なるほど……イルビスの知らない所に出たということは、当然出口はオレの知ってる場所になるということか……」

「そうじゃ、まったく! 物分かりだけは良いというのがまた腹立たしい……」

 褒められてるのかけなされてるのか……


「じゃがのう、タクヤよ……」

 イルビスの真剣な表情には緊張感が漂っている。

「私はシグザール城につなげようとしておったのじゃぞ……」

「……そ、そうかっ……そもそもオレが何かしなきゃ、オレの部屋になんて来るはずないんだよな……」

「私が不本意にもこの少女の身体に入ってから……」

 イルビスは自分の膨らみのない胸をギュッと手で押さえる、ドキッとしたオレはたぶん少し赤くなっているだろう。

「能力の出力は以前の半分以下じゃ……やはり器が小さいとそれなりの力しか出んのじゃ……」

「そうなのか……まあ、なんとなく解るような気もするな」

「以前ならシグザール城につなぐなぞ、ものの二、三秒で済んでおる、じゃが覚えておるか? 先程のトロくさいザマを……我ながら情けないっ」

 まあまあ、となだめようとしたオレを固まらせたのは、イルビスの真剣で鋭い目であった。


「分からぬか? 回廊はつながっておらぬのじゃぞ? 精神界と物質界をつなぐという、以前の私でさえ疑似的な小さな通路を作るだけでも数日かかるようなことをじゃ、今の非力な私があの瞬間だけでどうやって成す?」

 その言葉でオレの脳裏には、イルビスを掴んだときに蒼く光った右腕が浮かんだ。

 無言で右腕を前に出し観察する、イルビスも無言で見つめている。

「葉っぱが一枚……消えてる……」

 右手の甲に浮かぶ、扇形に並ぶ三枚の葉の痣のうち、右側の葉が薄くなってほぼ見えなくなっていた。


 オレの右腕は以前シグザール城でイルビスとの戦闘の際に、強烈な魔気で肘から先が壊死してしまった、それをシグザールが治療してくれたのだが、どうやらそのときに力が入り過ぎて、なんらかの能力が付与されてしまったと言われている。


 その能力を突き止めるために、あれからいろんなことを試してみた、気合いを込めたり祈ってみたり、熱したり冷やしたり、枯れかけた花を持ったりスプーンをつまんだり、水の入ったコップを握って念じたり、天に掌をかざして世界から力を分けてもらおうともした。

 だが、ウンともスンともいわなかったのだ、それがこんなことでヒントを掴むことになろうとは……


「決まったようなものじゃな、シグザールに施された治療で付与された力であろう……葉の痣は力の残量といったところかの」

「なるほど……にしても、まだまだ分からないことだらけだな……イルビスの能力を強化したっぽいのはいいんだけど、イルビス限定なのか、アリーシアや、例えばファイたち精霊の能力も強化できるのか? とかね」

「それは追々試していくしかないじゃろうな、じゃ……じゃが私限定など……あるわけなかろうがっ……タワケめ……」

 なんだか赤くなって照れているようだな……


 オレがシグザール城に拉致されて初めて会った頃のイルビスと、現在のイルビスとでは印象が全然違う。

 もちろん妖艶な大人と美少女という身体の違いや、以前はシグザールのことで必死だったという状況の違いもあるではあろう、が、イルビスの本質は今の少し子供っぽい彼女のほうだとオレは思っている。


 一緒に暮らしてるのを見ていると、やはり女神として完璧であり、万人から愛され信奉されるほどの魅力を持つ姉アリーシアへ対しての崇拝度はかなり高く、アリーシアの役に立ちたい、認められたいという思いが根底に強くあるようであった。

 だが、同時にそのアリーシアは恋敵でもあった……大人に見られたい、そして女性としての魅力を認められたいという激烈な背伸び的欲求は、やはりシグザールへの想いからくるものであったのだろう……それ故に今のイルビスは本来の自然体の彼女へ戻りつつある、そんな気がするのであった。


「まあ、とりあえずは帰ろうぜ、自信はないけど来た時と同じようなやり方でいいんだろ?」

 あっさりと言うオレに、イルビスは少し慌てたように訊ねる。

「お……おい、よいのか? お前の故郷であろうが? もう二度と来られぬかも知れぬのじゃぞ?」

「いや、いいんだ……ここにはもう、オレのいる場所は無いんだよ……」

 イルビスに蹴っ飛ばされたとき、派手に音を出してひっくり返ってしまったので、階下の様子などを探って把握していた。


「どういう……ことじゃ? ここはお前の家なのであろう? 人の住む気配が全くしないことと関係があるのか?」

 さすがに鋭い……それにオレのことを心配してくれてるのが伝わってくる、その心を無下にできない気持ちがオレの口を開かせる。

「オレさ、この部屋にアリーシアが飛び込んでくるまで、一年以上引きこもって生活してたんだ……」

「引きこもる……とはなんじゃ?」

「ん~……なるべく外の世界との関わりを断って、ほとんど部屋の中に閉じこもってしまう状態かな」

「籠城ということか、なるほどのう……誰ぞに攻められでもしたか?」

「はは……情けない話だけど、ちょっとひどい振られ方をしちゃってさ、それからすぐに親の離婚とか……なんかもう人と関わるのがイヤになっちゃってね、こっちの世界じゃよくある話さ」

「ほう……そんなことがのう……じゃがその、引きこもったとかいう状態であったとしても居場所が全く無くなるわけではなかろうに?」

「いや……父さんも母さんも、離婚する前から別の相手がいたみたいでさ……オレは母さんに付いてこの家に残ったけど、母さんはもう住んでいないみたいなんだ、さっき下の階を見たら家具に全部布が掛かっていたから……たぶん相手の男のところへ行ったんだろうな、この家はもう無人だよ」


 あと、これはイルビスが責任を感じるであろうから言わずにおくと決めた、おそらくオレは失踪扱いで捜索願いが出されている、パソコンのハードディスクが抜き取られており、机や棚も調べられた跡がある、事件性の有無やオレの行方を調べたんだろうな……

 まあ、突然いなくなればそうなるだろう、おっと、イルビスがオレの暗い話にショボンとなっちゃってる。


「イルビス、オレは何も気にしちゃいないんだぞ?」

 本当かな……? と、申し訳なさそうにこちらを上目で窺っている、非常に可愛い……

「さっきオレは帰ろうと言ったはずだぞ? 帰る場所っていうのは戻りたい場所のことだ、今のおれにとってその場所はここじゃないんだ」

 オレは立ち上がって右手を差し出す。

「だからほら、帰ろうぜ、みんな心配して待ってる」

 オレの表情を見て少し安心したようだ、差し出す手を取り立ち上がるイルビス、しかしなんか様子が変だな……


 少し頬が赤くなってる、うつむき加減でモジモジし始めたが……何か言いたそうにこちらをチラッチラッと見ている……

「ど、どうした……? なにか問題でもあるのか?」

「いや……問題ではないんじゃが……」

 さらに赤くなってモジモジも加速した。

「なんだよ? 言ってみろよ?」

「あのな……そんなに急いで帰らずともな……ちょっとでいいから……こちらの世界を、その……見てみたい……のじゃ……」

「え、それって……」

 予想される状況が頭に浮かんだとき、おそらくオレの顔もボウッと赤くなったであろう。

 な……なんだ、この感覚は……あっちの世界じゃ誰と二人で歩いたって、そんなに気にならなかったのに……こっちの世界だと妙に意識してしまうぞ……だってこれって、女子……しかもものすごい美少女と……デ、デートするってことだよな……


「あ、あー……わかった、じゃあちょっと待っててくれな……」

 なるべく平静を装うが、出来損ないのロボットダンスのようにギクシャクしているな今のオレ……イルビスは小さく頷いて再びポフンとベッドの端に座った。


 まずは、と、本棚に置いて飾ってあるモデルガンを手に取った、ガバメントの懐かしい感触を楽しみながら、ドライバーでグリップのネジを回してグリップカバーをはずす。

 すると中から折りたたまれたお札が数枚出てきた、新作ゲームのパッケージを買うために貯めていたものであった、もちろんこんな所に隠す意味はない……いわゆる中二的な感覚の自己満足の世界だ、しかしそのおかげで無事に残っていたとも言えるので複雑な心境である。


 無くなっていても分からないであろうジーンズとシャツを、クローゼットから出して着替える、着ていたあっちの世界の部屋着はバックパックに入れて背負った。

 机の中に家の鍵が残っていたのは僥倖だった、シーツを直し辺りを元通りにし終えると、イルビスを促して部屋を出る、ドアを閉める前に中を見渡した、この世界のオレの居場所とのお別れであった。


 下駄箱から古いスニーカーを引っ張り出して履く、これも無くなっていても気付かれはしないだろう、イルビスには昔庭用に使っていたサンダルでとりあえず我慢してもらう。

 施錠して家を後にすると少し早足で歩き出した、近所の目は怖い、たぶん行方不明扱いになってるであろうオレが、見とがめられて騒ぎになるとマズイことになる。

 なるべく目立たないように……というのはしかし無理な話であった、いや、オレは目立ってはいない、というより認識すらされていないフシがある、注目を一身に集めているのはもちろんイルビスであった。


 楽しげである、まだ住宅地の見るものなど何もない道ではあるが、イルビスにとっては初めて直接目の当たりにするものばかりである、電柱や道路標識すら楽しそうに眺めている様子であった。

 どうして楽しそうな美少女っていうのは、こう……こちらも楽しく幸せな気持ちにさせるのか……注目されるのも可愛いって理由だけじゃないようだ、その証拠に見る人は皆ため息の後に微笑んでいる。

 にしても本当に老若男女を問わずに皆、ため息混じりに見ていくものである……まあこう見えて大神官様であるから、注目されるのは日常のこととして慣れてらっしゃるようではあるが……


 ようやく大きな通りに出ると、タイミング良く市街行の循環バスが来たので乗り込んだ、最後部のシートに座ると大興奮状態のイルビスが小声で。

「タクヤッ、知っておるぞ、ネコバスであろ? そうであろ?」

 ネコではないが……バスだな……頬を紅潮させて目を輝かせる彼女は、中身も見た目相応の年齢にしか見えず、思わずこちらもデレっと微笑んでしまう。


 そして、そんなイルビスの知識欲はそれはもう半端ではない、オレも以前から、広いジャンルを深く知る彼女との会話には驚かされることが多いのだ、難しそうなことがビッシリ書かれている文献を読んでいる姿も何度も目にしている。

 なので商業施設などのビル群が立ち並ぶ市街中心部の駅前に降りて、街の光景を目の当たりにしたとき、半分放心したような顔でオレの腕にギュッとしがみついた理由は、その知識欲や好奇心から夢中になってしまったがためであろう……いや、そうでなければオレがヤバイ。


 歩き出すとイルビスも腕に絡んだままついてくる、これは……なんというか……最高である……一人で歩いている男はもちろん、彼女連れの男でさえイルビスを見てため息をついた後、オレを見てチッという感じになる。

 絶世の美少女を腕に街を歩くのは、想像を絶するほど男としての充足感を味わえるものだということを知った、それもこっちの世界だからなんだろうな……そうか、何故かこっちでいろいろ意識しちゃうのは、見栄ってやつがオレの中にあるからなんだな……


 でもそう考えると、無意識のうちに構えて緊張していたのであろう身体がフッと楽になる、イルビスの方を見て彼女のためのことを考える余裕が生まれてきた、そう、まず靴屋じゃないか、イルビスにサンダル履かせたままなにやってんだオレ……


 大型ショッピングモールの建物に入り靴屋へと向かう、黒のミニワンピースのイルビスである、靴の色も黒系統が無難かな……しかし赤もいいかもしれない……やはりローファーかなあ、しかしハイカットのスニーカーも……

 あれこれ考えているうちに店舗に到着するが、入るや否やディスプレイされた棚のひとつの前で釘付けになり、目をキラキラさせている彼女を見ると、その考えも徒労に終わったことを悟った。


 やっぱり女の子なんだなあ……齢二千歳を超える女神なのは置いといて、どんなのを気に入ったのかなと横から覗き込むと……おおっ!

 黒のロリータパンプス……イ、イルビス……わかってるじゃないか……

 あまりゴテゴテとしていない、白い縁取りの黒いリボンだけが付いたシンプルで細身のものであった。


「イルビスはそれが気に入ったのか?」

 夢中になって見ていた彼女が、オレの声でハッと顔を上げて首を振る。

 そんな彼女の頭にポンと手を乗せて撫でながら。

「いいから」

 オレがそう言うと少し迷った風ではあるが、ちょっと恥ずかしそうにコクリと頷いた。


 店員に声をかけてイルビスのサイズのものを出してもらうよう頼み、試着コーナーの椅子に座らせて、履いていたサンダルをバックパックに入れると、オレは先に会計を済ませるべくレジへと向かう。

 支払いの途中でレジのお姉さんが。

「すっごく可愛い彼女さんですね~、海外の方ですか?」

 と、興味津々の様子で訊ねてきた、やはりどこでも目を惹くなあ……

「えーと……北欧系になるのかな……?」

 本当のことなんか説明しようがないので、ものすごく適当なことを言ってしまった、しかしお姉さんはなるほど~という感じで納得してしまったようだ。


 釣り銭を受け取り振り返ると、ちょうどイルビスが歩いてきてオレの少し前で立ち止まり、ほんの少し上目でこちらを見る。

 言葉はない、がしかし、目が、表情が問いかけている、どうじゃ? 似合う……かの? と。


「うん、よく……すごく似合ってるぞ」

 四センチ背が高くなったイルビスは、嬉しそうで恥ずかしそうな笑みを俯いた顔に浮かべてオレの横に立ち、今度はそっとオレの腕に自分の腕を絡める。

 こ……これがっ⁉ この世界のリア充なのかっ! ……知らないままあっちに戻ってしまうところだった……イルビスよ、本当にありがとう……

 感動のあまり変な感謝の気持ちが湧いてきたが、とりあえず靴屋を後にしてモールの中を見て回ることにする。


 本屋では、こちらの文字は読めないので写真の多い図鑑を見せると、イルビスは夢中になってページをめくり始める。

 図鑑コーナーの本を全部立ち読みしそうな勢いなので、こりゃ図書館のほうが良かったかな……と後悔しながら店を出ようと促すが、見ている図鑑をしっかり握りしめつつ目を潤ませてイヤイヤされると、どうしても強く言えない……

 やむを得ず、今一番売れてるという元素図鑑を買ってやると、ようやくご機嫌で店を出ることとなる、結構大きくて重たい、バックパックはずっしりと重くなった。


 スイーツ店では、運ばれてきて目の前に置かれたベリーベリーパフェに、目を輝かせて喜んだ、最初のひと口のスプーンをくわえたままぷるぷると感動に震える顔は、可愛過ぎてこちらもぷるぷるしてしまった。

 ひと口食べてはニコニコし、またひと口食べてはふわあ~ぁと、とろけるような表情になる、オレはさすがにコーヒーは頼めなかったので、アイスティーを飲みながら、猫の目のようにころころ変わる彼女の表情を楽しんでいた。


 ゲーセンはすごかった。

 最初こそ派手な光と音に圧倒されていたイルビスであるが、なんといってもその知識に裏打ちされた優れた理解力と、持ち前の好奇心を原動力とする高い学習能力と記憶力である、しばらく黙って見ているだけなのでまさか……と思ったが、他人のプレイしているのを一度見ただけでダンスゲームの曲を丸ごと覚えてしまうとは……


 スカートを翻しながらクルクル踊るイルビスの姿に、ギャラリーが集まらないわけがなかった、しかも非常に上手い、ダンスなんてやったことないだろうに……即席のファン集団みたいなのもできてるし……しかしあいつら掛け声そろってるなぁ……

 意外な一面だった、いや、こっちが本当のイルビスなんだろうな……活発で好奇心旺盛で、よく笑って……何よりも自分が楽しむその姿が周りを楽しい気持ちにさせるなんて、きっとアリーシアにだってない能力だぞまったく……


 大盛り上がりの歓声が沸き即アンコールの声も続いて沸く、結局彼女は三曲を踊りきった、オレは1回分しかコインを渡してないのに、ファンが勝手にクレジットしたらしい、本当にたいしたもんである、名残惜しそうなギャラリーに笑顔で手を振るイルビスであった。


 市街に到着したのが昼過ぎ頃、そして今はもう日は暮れかけて、青空と星空のちょうど真ん中らへんである不思議な色の空を見れる時間帯であった。

 ダンスで汗ばんだ肌を、夜気の混じる心地よい風で冷ましているのであろう、長い黒髪がなびく度に気持ちよさそうに目を細めながら歩いている。

 駅の裏手を流れる河はすぐに海へと変わる、その河口とさらに先に広がる海を臨める公園へと、オレと彼女はのんびりと歩を進めてきた。


 オレの部屋から見るよりも、海が近いだけあって夕陽が大きく見える、何もかも嫌いになった時があった、でもこの夕陽だけはずっと好きだったな……

 オレの後ろに伸びる長い影を踏んで、イルビスがこちらを見ている。

「楽しかったか?」

 振り返って訊ねると、そんな分かりきったことを……と意外そうな顔をしたが、ふっと何か思いついたように悪戯っぽく口元に笑みを浮かべ。


「さあのうー、教えてやらんっ」

 イ~ッと意地悪く答え、クスクスと笑いながらクルクルと回り遠ざかっていく。

 女神から小悪魔に転職なされたようだ。


 夕陽が地に映す楽しそうな影は、やがてまたオレの側へと寄り添う。

「時間の流れの速さが同じなら、向こうは朝方か……」

「……朝帰り……じゃの」

「そ……そうね」

 なんかちょっと意味が違う気がするが妙に照れる。


「タクヤよ……」

「ん?」

「こちらの世界では……誰に聞かれることもないから言うがの……その……一緒に来いと言ってくれたとき……とても嬉しかった……」

 恥ずかしそうに伏し目がちで言うイルビスの頬は夕陽の色に染まっていた……カムイから帰還したときの話であろうと気付く。

「一緒に住まわせてくれて……嬉しかった……」

「じゃからな、あ、あ……ありがとう」


 最後は消え入りそうな小声が潮風に流されていく。

 いろんな想いで胸が一杯になったオレは、すぐには言葉が出なかった。

 シグザール、これでいいんだよな……


 応えを待つ顔のイルビスに。

「オレのほうだって、ありがとうだよ」

「イルビスやみんながいるから、オレは世界が好きになれたんだ」

 ちょっと意味がよく分らなかったのだろう、小首を傾げるイルビスにフフッと笑い。

「これからもよろしくってことさっ」

 言ってニッと親指を立てる。

 合点がいったらしく、表情が明るくなったイルビスも真似をしてニッと親指を立てる、もちろんこっちの方が断然可愛い。


 海に溶けていく夕陽を臨む公園に、これから訪れるであろう夜の闇が、一足早く現れたような漆黒の裂け目が生まれる。

 裂け目を創りだしている美しい黒い影の腕に、側らの男の蒼い腕が重なると、闇は突然さらに強くなりその深さも増していく。


 やがて公園は何事もなかったかのように静けさを取り戻し、誰もいなくなったその地を、そこにいた男が唯一好きだった夕陽が、名残惜しそうに朱く染めていた。


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