二十九話 治療と蜜と秘め事と




 精神体が身体へとゆっくり重なっていく。


 生まれてきたときもこんな感覚だったのだろうか、オレは精神が身体の中へ入っていくときには、五感が次々につながっていくような感覚がすることを知った。


 最初に耳元で水の音がしはじめる、聴覚がつながりはじめたようだ。

 真っ暗な深淵の中で聞こえる水の音は、色と形を伴ってオレの中で跳ねまわる、きっと脳が創りだすイメージを見ているのだろう、幻想的であり楽しくもある、それはオレが水の音を心地良いと思っているからに違いない。


 そこに甘い匂いが入ってきた、嗅覚の回復はイメージの世界に霧のような色を付ける、嗅いだ覚えのあるお香と女の匂いの入り混じった甘い霧は、薄紅色の紗膜のように脳内を霞ませていった。


 そして精神と身体が合一を完了する、二重にぶれていたものがピタリと一致した感覚、身体に触れているものの情報が一気に流れ込んでくる、それは脳内の繊細なイメージを瞬時に吹き飛ばし、大容量の情報を処理させるべく微睡んでいたような脳細胞を現実に引き戻す激しさをもっていた。


 その触覚の回復は劇的にオレの覚醒を促していく、身体は体温とさほど変わらない温度のぬるま湯の中に浸っているようだ、胸元から上だけが外気を感じる、触覚が戻ったことで自分が今どんな状態なのかがようやくわかってきた。


 簡単に言うと寝湯の体勢にあった、足先に向けて緩やかに水深が増していってるようなので身体は完全に湯の中である、そして胸の上に暖かく柔らかい感触、見えなくてもアリーシアだとわかる、オレの胸に頬を当てて寄り添い寝ているようだ、もちろんオレの身体を治療するためであろう。


 やはり意識を向けるとアリーシアの身体から絶えず暖かい波動が伝わってくるのがわかる、波動は水にも伝わりオレの全身をくまなく包み込み浄化しているようだ、しかしいったいどのくらいの間この治療を続けているのか、むしろアリーシアの身のほうが心配になってくる。


 ふと、瞼の裏が白くなる、視覚が戻ってきたようだ、ゆっくりと目を開けていく、眩しさが薄れていくと真っ先に胸の上にある黄金の髪が映った、やはり淡く光っていた、アリーシアやオレの身体のみならず周囲がボウッと発光している、この状態を長時間続けてはいかにアリーシアといえども持つわけはない。


「ァ……」

 アリーシアと呼ぼうとしたが掠れた小さな呻き声しか出なかった、舌の感覚が無い、味覚もまだ戻ってないようだ……が、アリーシアは反応した。


 オレの胸から頬が離れて黄金の髪がサラッと流れる、水に濡れた数本の髪が顔にまとわりつくのも構わずに顔を上げてオレを見上げた、目を見開いて眉間に皺をよせた恐怖に近い表情である、開いた口がしかし言葉が出てこずにワナワナ震えているだけであった。


 アリーシアは身を起こしてオレの両頬にこれも震える両掌をそっと添えてきた、本当に目を開いたのか何度も確認しているようだった、オレが間違いなくアリーシアを見つめているとわかると、正面から真っ直ぐ見下ろすその目に涙がみるみる溢れだす。


 大粒の涙がぼろぼろとこぼれる、こぼれてオレの顔に暖かい雨となって降る、が、開いた口は震えたまままだ言葉が出てこない、心の中の溢れんばかりの感情が自責の壁のせいで封じられているのがはっきりとわかる、オレの死を放置してしまったことをそれだけ罪悪と感じているのだ、今のアリーシアの心を救えるのがオレしかいないのもはっきりとわかる。


 動けっ!

 強く念じながら渾身の力を込めると、震えながらもゆっくりと左腕は持ち上がってくれた、幾分ほっとしながらも気を抜かず、そのまま必死に動かして掌をアリーシアの頭まで運ぶ。


 一撫でするので精一杯だった、しかし十分であった、頭を優しく撫でられたアリーシアの表情は険しさをみるみる氷解させていく、自責の壁を打ち壊したオレの掌はそのまま下がって彼女の背に置かれる。


 それからしばらくの間、感情が溢れだしたアリーシアはオレの胸に顔を押し当てて、堰を切ったように大声をあげて泣いた、そして泣きながらごめんなさいと何度もか細い声で繰り返していた。


 ひとしきり泣いたあと、顔を上げたアリーシアは再びオレの頬に両掌を添えて正面から向き合うかたちになる、やはり見抜かれているか……先ほどの左腕を動かすために全霊を込めたことで完全にガス欠である、指一本動かせないし声すら出せなくなっている。


 そのオレの様子を確かめたアリーシアの眉がキリキリと吊り上がった、オレはこういうときアリーシアがどういう思考をするかをもう知っている、半死半生のオレに気を使わせた不甲斐ない自分自身に怒りを覚えているのだろう、そしてこういうときのアリーシアには注意しなければならないのも学習済みだ、強い責任感の反動でときに強引で強硬な行動をとりがちになるのである。


 まずいな……と思ってると途端にオレの両頬に添えられた掌に力が加わる、もう添えられているのではなく手で挟まれている感じだ、こうなると予測不能である、いったい何をどうするつもりなのか次の行動が全く読めない、しかも声すら出すことのできない現状なので回避行動もとることができない、無言のまま目の前にあるアリーシアの顔に若干の恐怖を覚えながら行動を見守る。


 アリーシアの目がスウッと細まった、先程大泣きしたので目元が赤くなっている、そこへ目を伏せて長いまつ毛が強調されるとドキリとする美しさがあった。

 ハァ……と微かな吐息が形のよい唇から洩れる、その唇がオレのだらしのない半開きの唇にゆっくりと近づいてくる、近づくにつれアリーシアの甘い匂いが強くなってくる、意識をしはじめるともうダメだ、治療泉での治療のため二人とも一糸纏わぬ裸であった。


 アリーシアは一体何を考えているのか、まさかオレが動けないのをいいことに既成事実を作ろうとしているわけでもあるまいに……アリーシアのことだから何か考えがあっての行動だろうと思いたいのは山々であるが今、目の前の出来事を見ると理屈などは吹き飛んでしまう。


 豊かな柔らかい双丘がオレの胸に当たりひしゃげている、触れている肌の表面からは冷たい感触が伝わってくるのに、その双丘の奥には熱く火照った部分があるのが何故かわかってしまう。


 アリーシアの唇はさらに焦らすようにゆっくりと近づく、猫が伸びをするような格好をしてるせいで反った背中が見える、白い背中がウエストの部分でキュッとくびれ、くびれを過ぎて美しく張り出す尻が突き出している様まで眺めることができる。


 すると、そんな余所見をしているのを咎めるように、両頬を挟んだ手がグイッと目前のアリーシアの顔へとオレの視線を矯正する、オレの視界が全てアリーシアの顔になったのを確かめて満足したのだろうか、数センチの長い距離を一気に飛び越えて二つの唇は重なり合った。

 アリーシア、一体どうしちゃったんだ? 自分の激情を相手の都合を考えもせずにぶつけるような真似はするわけないと信じてたのに……


 唇が合わさるだけではなかった、唇の間からアリーシアのとろけるような舌が侵入してくる、オレの唇を舐め上げてからゆっくりと舌を求めて蠢きながら入ってくる、その淫靡な動きに抗う術はなかった、絶えず求めてくるその舌先におずおずと舌を差し出すと、途端に激しく絡めとられる、脳に薄い膜がかかったように茫となる、しかしこんなのはアリーシアではないと、心が否定をはじめようとしたその時。


 甘い……舌先に、そして舌全体に、口の中いっぱいに広がる蜜の甘さ。

 味覚が戻ってきた、その味覚が感じるのは単なる甘味だけではなかった。

 生命が生を続けるために必要な力が凝縮されている、その力が織り込まれたハチミツのような甘露をオレの身体は貪るように求めた。


 自ら進んで舌を絡める、アリーシアの舌先から与えられる蜜を吸いつき飲み干す、飲み干す度に身体に力が巡る、まだ足りない、もっと、さらにもっと……

 当然攻守は逆転し、オレがアリーシアの舌を絡めとり、吸い、また絡める、オレの動きはどんどん傍若無人になり、しかしアリーシアは逃げることなくオレに口と舌を差し出している。


 いつのまにかアリーシアは目を閉じ、目元と頬が赤らみ上気した表情になっている、休みなく吸われ続けているために鼻にかかった小さな喘ぎ声も漏れるようになった、身体もピクッピクッと反応をしている、しかしそれはオレに口内を好き勝手に犯されているようなものなのだ、責められるものではない。


 しばらくして絡み合う舌が別れ唇も離れたとき、オレは信じられないくらい回復していた、自分の力で上体を起こして座ることができた、ついさっきまで声すら出せなかったオレと同一人物とは思えない。


 身体の隅々までアリーシアにもらった力が行きとどいている、感謝を伝えようとアリーシアを見ると、床にへたり込んでいる、オレが力を吸い取りすぎたか? と一瞬ヒヤッとしたがどうやらそうではないようだ……


 茫とした、そして上気した表情、目は涙が浮かんだように見えるほど潤み、切なそうに肩で息をしている、そらそうとしてもその顔から、その身体から目を離すことができない、喉がゴクリと鳴る、なけなしの克己心を総動員して話しかけた。


「あ、アリーシア……おかげでかなり回復したよ……ありがとな……」

 しかしアリーシアはオレの言葉には答えず。

「タクヤさん……アリーシアは……悪い女です」

 半分喘ぎながら告げる。


 床にへたり込んだまま前を隠そうともしない、むしろオレの視線に晒すように胸を前に突き出す、豊かすぎるほどの双丘が鴇色の突起と合わせてブルンと揺れた、脚の合わせ目には申し訳程度に生える黄金の柔毛が隠れ見えている。


「わ、悪いって……何が?」

 目を離せず頭の中がグルングルンになりかけている。

「タクヤさんに……ひどいことをしました……そして今も……ひどいことをしようとしています……」

 ひどいことをした、というのは死んだことに気付けなかったことなんだろうけど、しようとしているっていうのは……まさか。


 感極まった状態なのか、アリーシアの潤んだ目から溢れた涙が落ちる、切なそうな顔と声でオレに向けて逃れることのできない言葉を紡いだ。


「わたしを……タクヤさんの……好きなようにしてください……」

 

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