二十八話 忘却と炎の心と王の涙と
「タクヤ殿! 聞こえるか⁉ どこだっ⁉ タクヤ殿っ‼」
遠くで男の声が聞こえる、ずいぶん必死に呼んでいるな……タクヤ? 誰だったろうか……懐かしい感じがするが……
ぬるま湯の中に沈み、ゆっくりと運ばれていくような感覚を意識の奥底で感じながら、浅い眠りのような状態で揺蕩っている。
何処へ向かっているのかはよく知らないが、ただ大きな存在のもとへ還っていくんだということだけはなぜか解っていた、アウルラ……そんな言葉が心の中に浮かんですぐ消える。
何処から来たのか……自分は誰なのか……何か大事なことがあった気がする……だが想い出せない、自分の中にあったものが周りの水の中に滲みだしていくような……心の中が真っ白になっていくような……
やがて少し気になっていたそんなことも、思い出そうとすること自体どうでもよくなってきた、悲しみや喜び、そのほかいろいろな感情が徐々に薄れていき、かわりに大きなものに包まれていく安心感が強くなっていく。
流れはゆっくりと、しかし確実に進んでいる、必死にタクヤ殿! と呼ぶ男の声も少しづつ小さくなっていく、心の中に最後に一つだけ『約束』という言葉が小さな棘のように刺さっていた、約束……約束……心の中で繰り返す、その言葉から手を離せばもう帰ることはできないと心が告げていた、約束……でも考えが……もう……
最後の棘が心から抜け落ちてしまいそうになったそのとき。
不意に腕を掴まれた、上から水の中に伸びてきた手がオレの腕をしっかりと掴んだのだ。
そのままゆっくり引き上げられていく、水の中から見上げる光る水面がだんだんと近付いてくる、そして顔が水面を割り浮かび上がった。
水から出た目が映したのは光の世界であった。
光の粒子が全てを形作っている、空は光の紗幕が何重にも垂れ下がるようなグラデーションに覆われ、大地は柔らかい光が雲海のように広がる、水面に浮かびながら視界に映るその不思議な光景に心を奪われていると、急に目の前に炎が現れた。
鮮烈な紅の炎だ、人の形をとった炎だ、光の粒子で成る世界の中で、その炎だけが唯一熱い温度をもつ存在のように思えた、どこか懐かしい感じのするその姿に目も、心も奪われたように見つめるだけしかできない、しかし薄い膜に覆われたようなぼんやりとした状態からは、かなり醒めることができた。
「タクヤ、お前、そのまま逝っちまうつもりなのか?」
炎の顔がオレにむけて尋ねる、タクヤ……? 逝く……? なかなか思考がつながらない、オレのことなのか? その疑問が心に焦りを生じ始める、何か忘れているような気が再び強くする、考える糸口を探すように自分の身体を見ようとした、視線を下げて水面に浮かんだその姿を目にしたとき。
「⁉」
驚きとも恐怖ともつかない衝撃が走る、身体は光の粒子の塊であった、かろうじて人の形はしている、だが細かい部分は失くなり大雑把な人の形をした人形のようであった。
「オレの……からだ……」
茫然と言うオレに炎が答える。
「お前は死んで精神体になってるんだよ」
「し……死んだ……?」
「ここは忘却の川だ、全ての生命はアウルラに還る途中で、記憶や感情を全て洗い流していくんだ」
「アウルラ……に……還る?」
「まったく、無抵抗に流れていきやがって、このままだとお前は全てを忘れ去ってアウルラに還っていくぞ? それでいいのか?」
「忘れる……オレは……忘れているのか……?」
忘れているもの……そのことに思いを巡らせると、実体のない光の身体なのに胸のあたりが少しずつ熱くなってくる、何かが心の奥で呼んでいる気がする、そこには絶対に忘れてはならないものがある……理由もわからぬまま確信だけが強くなっていく。
「そうだ、タクヤ、お前は大事な人たちと約束をしてきたはずだ、恰好つけてただけじゃなく本当に大事に思ってるなら、その人たちを思い出してみろ、思い出せないなら生き返ってもしょうがないだろうから、そのまま逝っちまえ」
炎の姿は苛烈な物言いで煽り立てる、しかし一見乱暴ではあるがその言葉には、切羽詰まった現状でなんとかオレを鼓舞しようとしてる必死さがあった。
そして、大事な人たちとの約束と言った……心の奥のどこかで小さな歯車が噛み合い回りだす。
黄金色の穂先が頭を垂れる畑が広がる、その中に建つ暖かな家の中、夕映えと夜の闇が一緒になる頃に流れてくる甘いシチューの匂い、いつも優しいじーちゃんとばあちゃんと元気な赤い髪の女の子。
出発の日、泣いて離れようとしないその子とオレは約束した……確かに。
「リイサ……」
頭に浮かんだ名前を呼ぶ、炎の顔がピクッと反応する。
それからは記憶の欠片が、泉の底から湧き上がる水のようにあふれてきた。
オレを受け入れてくれた村の人たち、力を合わせて製品を作りあげた三人の職人。
「キャメルさん……ウッディさん……ジュリアさん……」
そうだ……ジュリアさんは早く帰ってこいと泣きながら言ってくれた……
あふれた記憶の欠片が一つ一つ、つなぎ合わされて大きな絵になるように、忘却の水で洗い流されて殺風景な心の中に色が付き始める。
精霊、女神、王都、アカデミー、魔王、様々な単語が思い浮かび、そして記憶の欠片と結びつき、結びついた糸は織り上げられていく。
その中で明るい栗色の髪がサラッと揺れた。
夢中になって記憶を織り上げるオレの思考が止まる、いや、その記憶を凝視する。
「オレは……大馬鹿だ……」
どうして忘れていたんだ……と、自分にあきれる思いが震える声でそう言わせる。
胸の中の熱が焦げるほどになり広がり始めた。
泣いた顔、怒った顔、ふくれたり、落ち込んだり……くるくると目まぐるしく変わる表情、疑う顔、誤魔化す顔、いじける顔、そしてオレが心の中で、花が咲いたようだなと感じていた、素直な笑顔。
「うん、約束、信じて待ってる」
オレを信じる一途な言葉が蘇った瞬間、言葉は力に変わり、力はオレの中で生きるすべとなる。
「ファイ……」
名を呼ばれたファイが身を乗りだす。
「オレは、ローサのもとへ……帰りたい……たのむっ」
身を乗りだしてオレの言葉を聞いたファイは数瞬の沈黙の後、心から安堵したようにがっくりと力が抜ける、首も前へうなだれる。
さらに数瞬後、こんどは内側から沸々と何かが湧き上がってきたような様子になり。
「お・ま・え・は~っ! 散々自分勝手やって心配かけたあげくに死んじまいやがったくせに~!」
ワナワナ震えながら文字通りメラメラと燃え上がってきた、気のせいか一回り大きく膨らんだように見える、炎の色も明るさを増し温度が急上昇しているようだ。
光の粒子でできている世界の中で、光より眩しい炎は右腕を天に向けて突き上げた。
「ハアーッハッハッハッハァーッ!」
高らかに笑い声を響かせて突き上げた腕からゴオッと炎が渦を巻き、紅蓮の渦流は天へと立ち昇る柱となる。
オレはそれからすぐに、炎の柱を見つけて飛んできたシグザールに助け出されることとなったのである。
小さな空間だった、アリーシアたちと共に運ばれた霧の空間ではない、柔らかい光に包まれた白い部屋のようだった。
オレはまだ精神体のままで、これはイメージで作られたのであろう、部屋の中央に据えられたロッキングチェアーにゆったりと座り、部屋の中に満ちる柔らかな光に癒されている。
この光は子供の頃のアリーシアと出会った、あの花の咲く広場に射す光と同じようだ、アウルラの光に由来するものだろう、オレの人形のようにデフォルメされた身体も徐々に細部がはっきりと回復してきた。
白い壁に影が映り、濃さを増してやがて姿が現れる。
「タクヤ殿、加減はいかがだ? どこか不調はないか?」
王の装束姿のシグザールが沈痛な表情で訊ねてきた。
「ここに来てからは快調だよ、それよりシグザール、ほんと助かったよ、救いにきてくれてありがとな……」
オレのこの言葉のせいだろうか、シグザールは呆気にとられた顔になる。
「な、なにを言っているのだタクヤ殿! 私は罵倒されこそすれ礼を言われるなどと……」
「罵倒⁉ オレが? シグザールを? なんで?」
こんどはオレが驚き訊ねる。
「当然ではないか! 我らのために命を賭して戦い酷い傷まで負った大恩人を、こともあろうに放っておいて絶命するまで気付かなかったのだぞ⁉ この恩知らずの恥知らずな身をタクヤ殿の眼前へ晒すことすらはばかられるというのに……」
シグザールはそう激白すると、オレの前で片膝を地に着け、さらに片手も地に突いて頭を深く下げようとする。
当然オレは大慌てになる。
「わ~っ! シグザールちょっとまった! まって! ダメだって、違うんだって!」
伝説の王に膝を地に着かせて謝罪させるなどとんでもないことである、オレはロッキングチェアーの上から目いっぱい手を伸ばしシグザールを制止する。
「オレだって死んじゃうなんて思ってなかったんだよぉ! ちょっと休むつもりで座っただけだったんだ、自覚すらなかったんだからしょうがないって!」
まだあまり動けないオレが必死で制止しようとするので、シグザールは頭を下げるのは途中でやめてオレを心配そうに見る。
「し、しかし重傷のタクヤ殿を放置してしまったのは事実……」
終始沈痛な表情をしながら、己の非をつくろうことなく認めて貫く、二千年もの間二人の女神を心配し続けて砕けることのなかった天下一品の石頭だ、オレの顔は意識せずとも微笑んでしまう。
「そりゃそうさシグザール、オレ自分で隠れるように離れたんだもの、だってオレ……嬉しかったんだよ……シグザールたち三人でさ、泣きながら笑って……アリーシアもイルビスもあんなに幸せそうな顔してさ、オレが頑張ったからシグザールたちがあんなに嬉しそうな顔をしてるんだって思ったら、邪魔しようなんて気になるわけないだろ……オレだって嬉しいんだもの」
オレの言葉が終わったときにはシグザールの暗い表情は消えていた、かわりに泣くとも笑うともつかぬ複雑な顔をしてしばし絶句し、やがて立ち上がり腰に手を当て、参った……というように首を振る。
「タクヤ殿……君という人は……」
百万の賛辞よりも遥かに感謝の心が伝わるその言葉を、オレは大いに気に入った。
ニッと笑顔で返す。
その後シグザールはオレの身体のことを教えてくれた。
「タクヤ殿の身体は今、カムイの中に即席の治療泉を造り、アリーシアが全力で治療をしている最中なのだが」
シグザールはそこで話を切ったあと、深いため息をついて。
「体中ボロボロだったと、容体を診たアリーシアが泣きながら言っていた……骨折、裂傷、打撲痕の内出血……それに魔素と瘴気の重度の汚染……特にタクヤ殿、イルビスの角をつかんだ右腕は……肘から先がほとんど壊死してしまっていると……」
さすがに少しショックではあったが、動かなくなった時点でそんな気はしていた。
「そうか、まあしょうがないさ、命があるだけでも喜ばなきゃ」
「……やはり、君ならそう言うのではと思ったが……だが私も魔王とまで呼ばれた者、大恩ある方のそのような状況を黙って肯ずるわけにはいかない、アリーシアの一部をもって修復している左腕のように、右腕は私が責任をもたせていただく」
「壊死してるものを……そんなことまでできるのか……?」
「全て元通りとはいかんかもしれん、だが全霊をかけてあたらせてもらおう、せめてもの感謝の印として、私の最後の置きみやげとして」
「最後って……シグザール、まさか⁉」
無理やりロッキングチェアーから身を乗りだそうとするオレを手で制し。
「いやいや違う、違うぞタクヤ殿、治療をするから最後になるという訳ではない」
「しかしシグザール、やっと三人で一緒に……」
「ああ、ありがとう、本当にありがとう……だがさすがに二千年だ、もう自我が保てなくなってきている、力の有る無しではなく人という存在としての限界なのだよ、君が救ってくれなければ私はやがて、無念さだけを抱えた植物のようなものになってしまっていただろう」
優しい目をして微笑む、しかしオレに否応を言わせない説得力があった。
「仲間が増えたと思って……喜んでたんだぜ……」
「仲間……私を仲間と呼んでくれるか……」
しばし沈黙し、天を仰ぐシグザール、白く柔らかい光だけのそこにオレは、シグザールが生きた二千年前の青空が見えた。
「ならば思い残すことはない、後を託せる仲間を得た、これ以上は……ない」
シグザールは光の姿になっていく、頬に金色の一筋を流し、その光は部屋を包み、やがて浮遊感とともにオレの視界も黄金になっていく。
もう姿は見えないシグザールの声がする。
「さらばだ、タクヤ殿、アリーシアとイルビスを頼んだ」
「ああ……わかった、まかせてくれ」
「だが何故だろうな、タクヤ殿はさらばと言わない気がするぞ」
「ああ、アウルラがある限り……また会える……きっと、だからオレの言葉は決まってる」
「是非聞かせていただこう」
「またな、シグザール……また会おう!」
「……ハッハッハハハ、そうだ、本当にそうだ、ありがとう……タクヤ殿、ありがとう……では……」
「またな! タクヤ殿、また会おう!」
光の奔流に運ばれながら眠るような感覚で意識が沈んでいく。
ああ、シグザール、またな……
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