二十六話 狂気と殺意と涙の粒と



「やあ、こんにちは、こんな所でなにやってるんだい?」


「あ……」

「ああ、驚かせちゃったかな? ごめんよ」


「私はこの辺の土地を見回っていてね、馬に水を飲ませてやりたくて水場を探してたんだ」

「近くの街道は何度も通ってるけど、ここにこんなに美しい泉があるなんて知らなかったよ、おや? その子……水の精霊だね」


「あ……はい……トレーネっていうの……」

「トレーネ……たしか、涙っていう意味の古い言葉だったね」

「ええ、この子いつも土の精霊に意地悪されて泣いているから……」

「そうなんだ、それはかわいそうに……」


「きょうも意地悪されて汚れてしまったから、この泉で洗ってあげようと思って」

「そうかあ、この泉ならきっとその子もきれいになるね」

「ええ、私この泉がとても好きなの、静かで澄んでいて……」


「いつも一人でここへ来てるのかい?」

「ええ、でもまだ数えるほどしか」

「なるほど、お姉さんには内緒ってことなのかな?」

「ええ、そうな……の……え? どうして? ねえさまのこと知ってるの?」


「はははは、やっぱりそうか、そりゃあお姉さんはいつも君のことを話すからねえ、初めて会った気がしないくらいだよ」

「あ、もしかして、あなたがねえさまの言ってた騎士様……なの?」


「それじゃあ改めてご挨拶を……はじめまして、イルビス、お会いできて嬉しいよ」

「私の名は――」


 シグザールから引き抜いた黒い角は、その付け根から根を伸ばすがごとく、イルビスの額に癒着した。


 パキパキと音をたて、負の感情を吸い取って脈動しているようにも見える。 

 イルビス自身の意識が途切れがちになっているのだろう、強烈な魔気の放出は止んでいる、だがそれも時間の問題だろう。


 後ろのアリーシアを振り返る、魔気に凍えたのはオレと同じらしい、腕で自分の身体を抱きしめてうずくまっている、しかしオレが振り向いているのに気付くと、気丈に頷いて自分は大丈夫と知らせてきた。


 イルビスに向き直る、宙を仰いで突っ立っている、角の力を制御し始める前になんとかしなければ、手がつけられなくなってしまう。

 後ろから羽交い絞めにして角を何とかできないか……イルビスの背後へ回り込もうと、移動し始めたとたんに。


「ヴヴううウヴぁあああっ! アアあアァァッ! あっアアァッ!」

 ガクガクと身体を震わせ恐ろしい絶叫をあげて、上を向いていた首がガクンッと真っ直ぐに向き直る。

しまった! 意識を取り戻したかっ!


 後ろに飛び跳ねて距離をとる、十メートルほど離れて回り込みながら様子を見るが……なんて姿だ……

 額からこめかみ、首筋を通っておそらくドレスの中もそうであろう、太い血管に沿った場所に、鱗のような薄い魔素の結晶が生え始めている。

 パキキッパキッと結晶が擦れあう硬質な音も聞こえてきた。


 これは……角の魔素が体中を汚染してるのか? このままじゃイルビス自身が危ないんじゃないのか⁉

「イルビスッ! 聞こえるかっ⁉」

 大声で呼ぶと、ガクガク震えながら首をこっちへ捩じ曲げてくる、紅蓮の瞳が浮かぶ黒眼はどこを見てるかわからないほど虚ろだが、声に反応したのは間違いない、内容を理解できるかどうかは分からないが、やるだけやってみよう。


「イルビス! そのままじっとしていろっ! 今その角を抜いてやるからなっ」

 最後まで言い終わらないうちから前へ飛び出そうとする、しかしそのとき、イルビスの左腕がこちらへ突き出されているのに気が付いた、鋭利に尖った爪をもつ指が五本、花のように開いている、掌はオレを狙っていた。


 影? と一瞬思った、オレに向いた掌に黒く丸い塊ができていく、途端に背筋がゾワッとした、マズイ! この感覚、覚えがある! 考えるより先に本能で体が動いてくれた、前に行こうとしていた勢いをそのまま横方向へ転換する。

 横っ飛びの跳躍に入った瞬間、黒い塊が凄い勢いで弾けたように見えた。


 予想以上に広い範囲で飛んでくる! 横っ飛びしたくらいじゃ避けきれないっ!

 イルビスの掌から放たれたのは漆黒の雷とでも言うべきものだったろうか、黒雷は空を切り地を裂いて、オレのいた場所も狙い違わず地面ごと貫いた、爆発したように塵煙が巻き上がる。


「タクヤさんっ!」

 オレの場所からイルビスを挟んでほぼ反対側のアリーシアが、悲鳴のように叫ぶ。

 その声に反応したか、ギリギリッと結晶の擦れる音をたてて、そちらを向きかけるイルビスに。


「残念、ハズレだ」

 その声にギギッとオレのほうへ向きなおる、確実に命中させた自信があったようだ、驚く雰囲気が見てとれた。


 黒雷が地をえぐった塵煙の中から、短剣を持ったオレの腕が現れる、剣身は薄く光に包まれ、刃は青く清浄な輝きを放つ。

 片膝でも立てて決まっていればよかったのだが、現実は尻餅をついて短剣を前にかざしているだけの姿勢だ。


 当然オレ自身の能力で回避したわけじゃない、短剣に付与されたアリーシアの祝福のおかげだ、とっさに腰から引き抜き剣身を横に向けて突き出すと、オレを貫こうとする黒雷は、短剣から広がる防護膜のような祝福の光に沿って流れていった。

 

 いつまでもへたり込んではいられない、着地したときに地面に打ち付けた腰に手を当てながら立ち上がる。

「イルビス……お前……」

 見るとイルビスがオレめがけて黒雷を放った左掌からは、白煙が朦々と吹き出ていた、少なからず自身にもダメージがあるようだ。


「やっぱり瘴気だったのか……」

 黒雷の正体である、幼いアリーシアを助けたときに戦った黒雲獣と同じ感じがした、イルビスは掌にその瘴気を集め凝縮して放ったのだろう、まともにくらえば人間のオレなんかきっと即死だ、だが放つイルビスだってただでは済むまい、ならばやりようはあるかもしれなかった。


「どうしたイルビス! オレはまだピンピンしてるぞ⁉」

 いいだろう、付き合ってやる……どんなに狂気に逃げ込もうとしても……オレはシグザールと約束したんだ!

「しっかり狙ってこい!」

 親指の先で心臓の上を指す。

 普段のイルビスなら、このオレの言葉に噴き出すだろう。

「なにを安い挑発をしておるのじゃ、馬鹿なのか?」

 と、笑って言うに決まっている。


 でも今のお前は怒り狂ってるな。

 らしくない……本当にらしくないぞイルビス。

 今、助けてやるから、早く戻ってこいっ!


「うヴヴぅヴぁ! アアあアあアああっ!」

 両掌にそれぞれ黒い塊が膨れ上がる、自身をも蝕む瘴気の凝縮された塊だ。

 イルビス自身が瘴気の苦痛に絶叫を迸らせながら、逃げ回るオレめがけて黒雷を何度も放つ。


 こけつまろびつしながら逃げては避け、避けてはまた逃げる、もちろん握りしめた短剣が唯一の命綱だ、これで直撃の黒雷を弾けていなかったら、この数分でおれは十回以上死んでいるだろう。

 アリーシアのほうへ流れ弾が行かないように、移動範囲に気を配りながら、瓦礫や抉られて出来たばかりの窪みすら利用して逃げ回り続ける。


 その攻防がどのくらい続いたであろうか。

 オレはぜいぜいと肩で息をしている、気管は呼吸の度にヒューヒューと鳴っていた、対するイルビスの腕はすでに肘まで白煙に包まれており、瘴気で腐った肉の吐き気をもよおす匂いが周囲に立ち込めている。


 そして、オレがたった一点の希望として賭けた予測が、だんだん現実味を帯びてきていた。

 イルビスの掌にできる瘴気の塊が、目に見えて小さくなってきているのだ。

 角のほうなのか、イルビスの身体のほうなのかはわからないが、限界が近づいているに違いない、無力化させることができれば、角を額から引き抜くことができるかもしれなかった。


 が、希望が見えてきて、わずかに気が緩んでしまったのだろうか。

 次の瞬間、足元の地面に黒雷が突き刺さる。

 めくれ上がる地表に足を取られてうつ伏せに倒れ込むと、同時に右腕の肘を地面に打ち付けて、握っていた短剣が手から離れ一メートルほど先へ飛んでしまう。


「しまった!」

 イルビスを見るとまだ片方の掌に瘴気の塊があり、それは今にも撃ち出されんとオレを狙っている! いや、もう黒雷へと姿を変えた!

 だめだっ! そのまま地に伏せるが、回避してない以上直撃しかない!


 が、放たれた黒雷はオレの上を掠めて彼方へと消え去っていった。

 一瞬信じられない現象に呆けるが、すぐに短剣に飛びつき手に取り戻す。

「何が……? あっ⁉」


 イルビスを見ると、オレへ伸ばした腕と両脚に蔦が巻きついている、アリーシアが木の精霊を呼んで助けてくれたのか! このタイミングはさすがである、間接的なものも入れたら何度命を救われてることやら……


「ありがとう! すぐに戻って!」

 アリーシアの声に呼び出した木の精霊がシュルッと消える、そこへ間髪入れずイルビスが。

「ジャまヲ……すルナアァッ‼」

 今消えた木の精霊が再びシュッと現れた、イルビスに絡みついていた蔦がみるみる解けて、今度はアリーシアに伸びて行き絡みつく、あの一瞬でアリーシアから木の精霊の指揮を奪ったのか⁉


「きゃああぁっ!」

 容赦なく蔦は巻きついて食い込み、アリーシアは手足の自由を封じられて地面に転がされてしまった。

「アリーシアァ!」

 オレの声にイルビスはこちらを向く、邪魔が入ったことに怒りが増幅されたようであった、憎悪に狂った凄まじい眼光に射竦められそうになってしまう。


 アリーシアからは興味が失せたようにオレめがけて歩き出す、その歩みに躊躇いなどは一切ない、強烈な敵意と殺意からくる圧倒的な威圧感に、物理的な打撃をくらった錯覚すら覚えた、先ほどの小さな希望など心の中から消し飛ばされてしまう。


 もう以前の妖艶で高飛車で、しかし憎めない姿は跡形もなく消え去っていた。

 オレへ向かってくるその顔からは狂気以外のものは感じられず、どんなに言葉を尽くそうともその狂気を突き破り、イルビスの本当の心に触れるのは不可能なように思えた、オレの心が折れかけてきているのがわかる、無理なのか……いや、だめだ、諦めたら……しかし足が動こうとしない、狂気で燃える眼に竦んでしまっている。


 イルビスはすぐ近くまで来ていた、両腕はグズグズになっていて見る影もない、手の形がなんとなくわかるくらいにしか原型が保たれていない。

 その右手の先が黒い影で覆われる。

 再び白煙が噴き出した、手の先に瘴気を纏ったようだ……直接その手をオレに突き刺すつもりなのか……


「よせ……イルビス、そんなことをしなくてもお前は……」

 もう声にも反応せず、オレが持つ短剣も気にならないようだ、目にすら入ってないのかもしれない、オレの中にもそれを振るえる気力がなくなっている、あるいはそれを見透かされているのかもしれなかった。


 のろのろと後ろへ下がるがすぐに瓦礫が背中に当たり、そのままズルズルとへたり込んでしまう、イルビスはオレの前に立ち真上から見下ろした、表情は翳っていてよく見えない、しかし両の眼だけが紅く光っている。

 死への恐怖で心臓が早鐘を打つ、呼吸も浅く早くなり、身じろぎすらできなくなってしまった。


 振り上がる瘴気を纏った右腕、白煙を曳きながらオレの頭を狙って突き出されるのが、スローモーションのようにゆっくりと見える、これまでなのか……


 シュオッ

 突然オレの視界を遮る何かが出現した。

 真っ直ぐ突き出されてきたイルビスの腕が、わずかに軌道を変える。


 チュン!

 眼前のものを掠めたイルビスの腕は、オレの頭のスレスレ横を抜けて瓦礫に突き刺さった。

 オレの顔に水滴がピッと降りかかる、金縛りが解けたように身体が動いた、慌ててイルビスの腕を避け、身体を横にずらして距離をとると、目の前に現れたものがはっきり見えるようになった。


「……水の……精霊?」

 水が集まって形作ったような姿、まさに水の精霊であろう、しかし掠っただけとはいえ、それは瘴気を纏ったイルビスの手だ、水の精霊の身体の半分ほどは千切れ飛び、千切れた断面は瘴気に犯されて白煙を上げている。

「お、おい……大丈夫か?」

 しかし水の精霊は、オレのほうには見向きもしない……そうか、そういうことなのか……


「トれーネ……」

 イルビスの茫然とした声が、水の精霊の名前だろうか……を呼んだ。

 トレーネと呼ばれた精霊は、残った半身より白煙を上げながら、ふらふらとそちらへ動き出す。


 瓦礫から抜き出して差し出す、これも白煙を上げるイルビスの右手に、すがるように辿り着いた。

 トレーネはイルビスの顔を優しく見上げ、残った一本の手でグズグズの手を愛おしそうに撫でる、つながっているのが嬉しくてたまらぬようにその手は添えられ続けていた。


「トれーネ……」

 繰り返し名を呼ぶイルビスに、トレーネは何かを告げたように見えた。

 そして最後はニコッと笑ったのだろう。


 パチュン


 はじけるように飛沫となって宙に散る。

 飛沫が一滴イルビスの顔に飛び、目元から頬を伝い流れた。

 トレーネの名前の意味を知っていたら、オレはその名通りの最後だったと思ったであろう。


「トれーネ……おマエまデ……コいツヲ……タすケルのカ」

 聞いた瞬間オレは跳ね起きて、イルビスの胸倉を掴んでいた。

「今の水の精霊が誰を助けたがっていたか、そんなことも分からなくなるくらい狂っちまったのか⁉ 本当は分かってるんだろ? 言ってみろ! あいつは誰を助けたがってた⁉」

「ア……あアアああア……」

「イルビス‼ お前を助けたくて、あの小さい体でオレをかばったんだろ? そのことから目をそらすな! あいつは最後になんて言ってた? なんて言って笑ったんだ⁉」


「あ……ア……あ……アリ……が……」

「そうだ、がんばれ、言ってみろ!」

「あリ……ガ……ガが……」

「…………」

 急にイルビスが静かになる。

「イルビス? どうした?」


 ピシッ

 すぐ近くで何か裂けるような鋭い音が響いた、音の出所は……


「角が!」

 オレの目の前、イルビスの額に突き出る角に亀裂が走っていた。

 イルビスの身体から力が抜ける、胸倉を掴んでいた手に急に重みが加わり、突然のことなので支えきれずに、イルビスは地面にへたり込む姿勢になった。


「お、おいっ、イルビスどうしたんだ?」

 やはり返事はない、しかし額の角からは、不可視の力がどんどん膨らんでくるようなプレッシャーを感じ始める、何が起きるかは知らないが、とんでもないことであるのは確かだ、なんとかできないものか……


 地面に転がる短剣をホルダーへ戻し、へたり込んでいるイルビスの頭を左手で支え、意を決して右手で思いきり角を掴む。

「ギャッ!」

 口から勝手に悲鳴が出て天と地が逆転した、いや、吹き飛ばされたのか⁉


 角を握った瞬間バチッ! と高圧電線にでも触れたかのようなショックと爆発のように襲ってくる力の奔流、車にはねられたような吹っ飛びかたで、五メートル以上飛んでゴロゴロ転がり、べちゃっとうつ伏せになって止まる。


 意識はかろうじてあった、だが身体は全く動かない、さっきの爆発のようなものは、ほとんど物理ダメージではなかった、身体が感覚で理解している、動けないのは外傷じゃなくて、強烈な魔気にあてられて麻痺状態になっているせいだ、神経がパニックを起こしている。


 勝手に涙がドバドバ出てくる、手と足の指が操られているようにビクビク動く、浅くではあるが呼吸が普通にできるのが不幸中の幸いだ。

 一刻も早く動けるようにならなければならない、このままずっと動けなかったら……と、悪い考えも頭をよぎるが、まず試せることを全て試してからだ。


 唯一自由になる呼吸から始める、少しづつ深く、ゆっくりと……吸って……吐いて……吸って……

 あ、顎が動くようになってきた! いいぞ! 途端に不安の影が薄くなっていく。

 そのまま深呼吸を続けると、顎から喉、首回りから肩、背中から腰へと、ゆっくりと麻痺が解けていく、安堵するのもそこそこに首を巡らせてイルビスの姿を探す。


 イルビスはそのままへたり込んでいた、さっきとあまり様子は変わらないようだ、いいのか悪いのかは判からないが、とりあえず最悪ではないだけよかったと思っておこう。

 アリーシアは……まだ縛られたまま転がってるのか?


 生まれたての小鹿みたいにブルブルふるえながら、四つん這いの状態から立ち上がろうと努力する、さすがに角を直接つかんだ右手は肘のあたりまで感覚が無かった、動かすこともしばらくは無理だと感じる。


 なんとか立ち上がり、アリーシアの姿を探すと、いた! だいぶ離れたところにやはりそのまま転がっている、自分の今出せる最高速度でのたのたと向かう、もう少しそのままでいてくれよ……とイルビスの姿を横目で見ながら祈りつつ急ぐ。


「アリーシア! 大丈夫か?」

 傍までやっと辿り着き、声をかけながら様子を見る。

「あっ!」

 間近でよく見ると、アリーシアの身体に巻きつく太い蔦は薄く黒い影に覆われていた、アリーシアの身体に触れている部分からは、絶えずうっすらと煙が出ている。


「蔦に瘴気が⁉ アリーシア! すぐとってやるっ!」

 右手が使い物にならないので慣れない左手で短剣を抜く、黄金の髪で隠れていたアリーシアの表情は眼を閉じて苦しそうであった、慎重に蔦を切り払う、苦労して全て取り去ると、苦しんでいるアリーシアがうっすらと目を開けた。


「タクヤ……さん、イルビスは……?」

 熱に浮かされてるような声で、しかしイルビスを案じている。

「今は静まっている、でも角にヒビが入って暴走しそうだ、抜こうとして握ったら跳ね飛ばされた、でももう一回やってみる」


 アリーシアはオレの言葉を聞き、ダラーンとぶら下がっているだけの、オレの右腕に気が付いた、息を飲み目が大きく見開かれる。

「ダメ……です、あの角は……女神の手……でなければ、抜けません……今、私が……」

 無理やり起きようとするが、ほとんど身体は動いていない。


「無理するな、アリーシアはまず自分の瘴気を浄化するんだ、早く動けるようにならないとまずい、イルビスはオレにまかせておけ……」

「で、ですが……」

「忘れたのか? 女神はまだいる」


 立ち上がりイルビスへ向かおうとするオレに。

「ダメ……です! イルビスは……自分では抜けません!」

「まかせろと、言ったぞ」

 背後のアリーシアにそう言って、オレはイルビスのもとへ向かう。


 側に立つとへたり込んだまま顔は宙を見上げていた、意識がかろうじて戻ってきているように見える、しかし今のイルビスからは鬼気も狂気も感じられなかった、ただ哀しさだけが伝わってくる、魔に深く堕ち、変貌した恐ろしい姿のままだが、オレにはそこに泣いている少女がいるように見えた。


 イルビスの猛り狂った心を鎮め、堕ちていく魂を最後の最後でつなぎとめたのは、トレーネと呼ばれた水の精霊の心だ、イルビスだけじゃない、オレの折れた心も救ってくれた、その想いにはなんとしても報いなければならない。


「イルビス」

 正面に膝立ちになり、頬を優しく撫でて言う。

「トレーネが見ていてくれる、だから戻ろう、アリーシアとオレも手伝うから、イルビスも頑張るんだ」

 虚ろだが哀し気な目が微かにオレのほうを見る、肯定と受け取った。


 角に目を移すと、ヒビが少し広がり、内側にとんでもない力を感じる、まるで胎動しているようだ、これは本当に時間がない。

 オレは自分の左掌を広げて溶接したような傷跡を見る、ここに女神がいる。


「アリーシア、力を貸してくれ」

 そう言い念じると、手首と掌の傷跡が金色にボゥッと光る。

「イルビス、いくぞ」

 光る掌で角をつかむ、バチバチはじける感覚はあるが、先程のように吹っ飛ばされることはない、そのまま握る手に力を込めて、ゆっくりと引き抜いていく。


 最初はなかなか動かなかったが、動き始めると徐々に抵抗は減っていく。

「あアアあァ……ぐゥッ……ウあアぁー!」

 イルビスも必死に苦痛を耐えている、叫び声は自然と口から溢れるのであろう、身体はガクガクと痙攣していた。


 やがてズズッと根の太い部分が抜けきり、触手のような長く細い根も全てきれいに抜けた、全部抜けた瞬間オレは遠くへ角を放り投げる、カランカシャーンと硬質な音をたてて、大テラスの端の城外を眺める防壁近くまで飛んでいった。


 フラーッと横へ倒れかけるイルビスを、左腕で抱えるように引き戻して抱きしめる。

「辛かったな……よくがんばった……」

 抱いたまま頭を撫でると、パリン、シャリンと音がする、イルビスの身体から魔素の鱗が剥がれ落ちる音だ、落ちて砕けた結晶は空中へ溶けるように消えていく。


 オレの左掌はぽっかり穴が開いて向こう側が見えていた、手首の牙痕の穴も姿を現している、傷跡を塞いでいたアリーシアの一部は力を使い果たして消えてしまったようだ。

「あとでまた治してもらわないとな……」

 左手も治療する前に戻ってしまい、両手の中で動くのはかろうじて左手の親指一本だけという、惨憺たる有様になっている、だが……


「さあ、行こう」

 ずいぶん遠回りしたが、オレの目的はこれからだ。

 イルビスを肩に担ぎあげる、本当はお姫様抱っこでもしてやりたいんだが、右腕が使えない以上運ぶにはこうするしかない。


 アリーシアの方へ向かうと、こちらに気づきフラフラと立ち上がる、幾分かは回復したようだ。

「アリーシア、瘴気は抜けたか?」

「はい、ほとんど……でも私なんかよりタクヤさんとイルビスが……」

「オレもイルビスも覚悟の上だ、こうならないと伝わらなかったし、聞こえないこともあったんだ……」


「とにかく行こう、今までの努力を無駄にするわけにはいかない」

「はいっ」

 合流したオレたちは王座へ向かって歩き出す、みんな満身創痍であった、しかし想いが一点に収束し始めている。


 石の王座が近付く、そこでシグザールが待っている、アリーシアたちの二千年の隔たりを踏み越えるように、オレは脚に力を込めて進む。



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