十八話 魔王と罪と欲望と



「……ねえさまは愕然として入口のところで見ておった」

「シグザールは……ほれ、ちょうどお前が座っておるベッドじゃ、そこで私の中へ放ちながら血の涙を流しておった」


「己が最も愛するねえさまを裏切るために、その妹を目の前で犯したのじゃ、誰が許そうとも己が己を許せぬ、女神の愛を受け、民衆より愛され、賢王と讃えられた男よ、その魂が光を向いておればおるほど、祝福されておればおるほど、魔に堕ち反転したとき、そのぶん魂の位置は闇へ、暗黒へどこまでも深くなる……」


「人間の魂の変質は結びつきの強い肉体へも影響を及ぼす、肌は黒く染まり、目は赤光を燃やし、額には魔素の結晶化した角が突き出てきおった」

「シグザール! と、何度も呼び続けて泣き叫ぶねえさまの額に手を当てて眠らせたとき、私は彼の人としての最後の言葉を聞いたのじゃ……『サラバダ、アリーシア』と言って……ねえさまを私に預け、いとも簡単に次元の扉を開いて消えおった」


「その力は凄まじいものじゃった……」

「魔に堕ちたシグザールはまず回廊を捻じ切った、回廊の中の侵略者ども十万人ほどが、次元の渦に引き裂かれてバラバラになりおった、実に壮観であったことよ」


「次に、こちらの世界に入り込んできておった者どもを引き裂いていったぞ、二十万人ほどもいたかのう、まあこやつらはまだ幸運じゃ、こちら側にいた者はアウルラへ還ることができるのじゃからな」


「全ての侵略者どもを屠った後、シグザールは己の居城を丸ごと次元の扉で沈め、回廊の入口へ置いた、回廊を捻じ切ったあと、念入りに城で精神界への扉を塞いだということじゃの、これで誰もこちらへは入ってこれん」


 しばしの静寂、オレは言葉が出なかった。

 イルビスはこの話で当時の記憶が鮮やかに蘇ったせいか、軽く肩で息をして顔も少し紅潮しているように見える、なんとなく虚ろな目をしていた。


 悲しすぎる……

 これじゃ誰も救われないじゃないか……

 二千年も……苦しみ続けたのか……

「……イルビス」

 イルビスが虚ろな目をこちらへむける。

「イルビスは……シグザールのことを……」


「言うな」

 オレの言葉を途中でピシャリと遮る。

「他人に指摘されるくらいなら自ら話すわ、みくびるでない」

 スッとハイスツールから立ち上がり、カツ、カツとオレのほうへ歩みながら言う。


「そうよ、そのとおりだ、私はシグザールを愛した!」

「ねえさまを愛し、ねえさまから愛される男を私は愛したのじゃ」

 イルビスの目に赤い小さな光が灯り始めた。


「シグザールがねえさまを見つめる、あの優しいまなざしを私は欲した」

 オレの前に影のように立つ姿は、目だけが赤く浮かび上がる。

「ねえさまを抱きしめる、あの腕に抱かれたいと欲した」

「ねえさまのように愛されたいと欲した」

「ねえさまのように愛したいと欲したのだ!」

 真紅に光り始めた目がオレを見下ろす。


「ねえさまへむけられる愛を!」

「あさましく、貪欲に!」

「羨み、妬み、欲する!」

「これが私の罪だっ‼」


「悪いわけがあってたまるかっ‼」

 オレの叫びにさすがに意表を突かれてイルビスは止まる。

「人を好きになって悪いことがあってたまるか」

 オレはゆっくり立ち上がり、イルビスと面と向かう。


「人を好きになれば相手にも好かれたいと思う」

「想いが届かなければ悲しいし、苦しい」

「好きな人が自分以外の誰かを好きなら、悔しいし、妬ましい」

「イルビス……」

「そんなの当たり前のことだろ……」

 オレの目に浮かぶ涙が見えたのか、イルビスの目の赤光がスッと消えていく。


「お前は……」

 少しの間絶句してたが、毒気を抜かれたように首を振る。

「なんなんじゃお前は、馬鹿なのか?」

 ひどい言われようだ。

「まあ、この話はもうよい」

「お前にはまだ、聞きたいことがあるのではないか?」


「ああ、ある」

 くるりと踵を返してイルビスは、コツ、コツと入口の方向へ歩き始めた。

 途中で止まり横の壁へもたれて腕を組み言う。

「話してみよ」


「……一年半ほど前の話だ」

「アリーシアは魔王にさらわれたと言っていた、封印されて物質界へ放り投げられたと……」

 イルビスは無表情で聞いている、感情を読み取ることはできなかった。

「つづけよ」

 硬い声で言う。


「今日の話を聞くと、オレ、魔王がそれをやるとは思えない」

「イルビス……全てお前がやったことなんじゃないのか?」

「……だとしたらどうなんじゃ?」

 硬い声が続く。


「そうだとしたら、二つ聞きたい、まず、なぜそんなことをしたのか、目的が知りたい」

「それから?」

「それから、二つ目は……」

「魔王、いや、シグザールは……今も生きているのか?」

 しばしの沈黙、そしてイルビスはなにかを決めたような表情になる。

「ついてこい」

 もたれていた壁から離れ、入口へ歩き出す、オレは慌てて後を追った。


 廊下を進む、歩く後ろ姿も妖艶だ、真っ白な背中とその背を踊る黒髪、細くくびれた腰から、歩を進めるたびにくねる尻への曲線、目が吸い寄せられてしまう。

 いくつか角を折れて、狭い螺旋状の階段を上り始めた。

 上りきって出るとそこは城の屋上大テラスであった。


「う、う、うわああああぁ‼」

 悲鳴が出る、恐怖が湧き上がる、足がガクガク震える。

 空は空ではなかった。

 黒と、赤と、どす黒い赤の入り混じった渦であった。


 不気味な黒色の天空に巨大な渦の中心があり、全てを飲み込むためだけに存在しているような、異様な光景が視界を埋め尽くす。

「あれが捻じ切られた回廊の跡じゃ」

 オレが竦んで動かないので、イルビスは少し戻ってきて言った。

「あ、あれが回廊……あれを一人で? やったのか?」

「そうじゃ、凄まじいであろ、侵略者への怒りがそれほどのものであるという証拠じゃ」

 オレの足の震えが止まったのを見て。

「動けるか? ならゆくぞ」

 テラスの奥へ向かう。


 テラスの一番奥の壁、そこからはテラス全体と空中の巨大な渦が一望できるであろう、特等席のような場所だ。

 そこに大きな石の椅子が見える、近づくにつれて誰かが座っているのが見てとれる。

 あれがシグザールなのか?

 あれは、そんな……


 この城の主の前へ着く、石でできた巨大な玉座には、鎧を身にまとったミイラと化した骸が座していた。

 骸の身長は二メートル近くあろうか、顔は牙が生え、額と側頭部からは捩じれた角が突きだしている、手の指には長く鋭く尖った爪が黒く光っていた。


「アリーシア聖導王国、初代国王にして魔王、シグザールじゃ」

 イルビスは厳かに告げる。

 オレは片膝を突き王への礼をとった。

 そんなオレをじーっと見ながら。


「死んでいると思うじゃろ」

 イルビスの意外すぎる言葉。

「え? ……まさか?」

「肉体は死んでおるよ、見ればわかるじゃろう」

 面白くもなさそうにイルビスは続ける。

「精神が……心が留まっておる……」


「シグザールはこの場所に城を据えて、翌日に死んだ」

「そ……んな……」

「人の身でこのような行いをしたのじゃぞ、永らえるわけがなかろう」

 天空の巨大な渦を指して言う。


「じゃが、いかに魔にその身を堕としたとはいえ生を終えればアウルラへと還る、還れるはずじゃ」

「なのに留まり続けておるっ! 二千年じゃぞ? これがどういうことじゃと思う?」

「悔恨と怨嗟じゃ、我らをこのような状況へ追い込み、なによりねえさまを裏切らなければならないところまで追い詰めた、三十万殺しただけでは物足りぬ、物質界への怒りと恨みよっ! そしてねえさまへの罪に対する慚愧じゃっ!」


「イルビス……」

「やかましい! じゃから私は決めた! シグザールを縛る全てを消滅させてやると!」

「私は決めたのじゃっ! 物質界を消滅させると! ねえさまを消滅させると!」

「ア、アリーシアを⁉ そ……そうか、だからアリーシアを封印して物質界へ……?」

「そうよ、回廊が通じておらぬ今、精霊や女神が今の物質界へ肉体も持たずに飛ばされれば、さほど時を待たずしてその精神は喰われて消滅する」

「喰われるだと⁉」

「精霊や女神はいわばアウルラの純粋な分身じゃ、アウルラを求めあがいている今の澱んで腐れた物質界の生命どもは、喜んで貪ろうぞ!」


 ここでイルビスは感情を抑えるようにスッと引き。

「どうじゃ、これでお前の質問に二つとも答えたぞ」

「イルビス、じゃあ物質界はどうやって消滅させる気だ?」

「また質問か、まあよい、簡単なことじゃ」

「ねえさまを落としたのと同じ方法で、あれがねえさまではなく遥かに巨大な岩石ならどうなる?」

「い……隕石爆弾……」


「さすがにそれには、ごく小規模な回廊を作らねばならんがの、なに、時間さえかければ訳はない」

「頼むイルビス、頼むからそんなことやめてくれ……」

「ならシグザールの心は誰が救う?」


 凄みのある言葉だった、オレはそれ以上何も言えなかった……





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