十四話 愛と堕と伝説と



「シグザール、まだ起きてるの?」


 ランプの灯りが揺れる、大きなベッドのある寝室だ。

 ベッドを背にして壁際のデスクに向かい、書面に目を通していた精悍な顔が声の方を向く。

「イルビスか、少し待ってくれ、こいつが済めばひと段落つく」


「そお? じゃあ、ハーブティーでも淹れましょうね、よく眠れるように」

「いや、酒がいい、なるべく強い……火酒がいいな」

「まあ! 最近量が増えてるって聞いたけど、本当のようね」

「自愛なさらないと、初代王陛下であるあなたの代りなんていないのよ?」

「わかっているさ、だが火酒を飲むのが一番熟睡できるんだ、頼むよ、な?」

 精悍な顔が、いたずらっぽい魅力的な笑顔になり、イルビスは頬を少し赤らめる。

「……しょうがないわね、あまりたくさんはダメよ?」


 壁の一角を占める大きな棚から、火酒の瓶を選びだす。

 背の中ほどまで届く長い黒髪が美しい。

 スラリと細い肢体は、その美貌と相まって、静謐な美しさのイメージを与える。

 華やかな姉と並べて、太陽と月によく例えられるという。


「すまないな、大神官さまに侍女の役をさせるとは心苦しいよ」

「まあっ、王陛下のためですもの、これも大神官の務めですわ」

 ははは、フフフと笑いあう。

 が、イルビスはふと不安そうに。


「戦争は回避できそうなんですの?」

 酒のグラスを渡しながら尋ねる。

「相手次第の部分が多すぎるな、物質界の連中は『回廊』を独占したがっている」

「兵力も集結しつつあるようだ、このままでは、こちらへ侵攻すらしてくるかもしれん」

「なぜ全て手に入れたがるのでしょうか……全てを手に入れるのは、全てを失くすのと同じだというのに……」

「物質に囚われて、それが解らないからなんだろうな……」


「だが、それ故にヤツらの戦力は強大だ、相手の痛みを感じられない貪欲な者は、無慈悲に強くなれる、我らとの戦力差は残念ながら歴然だ」

「そんな……で、でもシグザール、私たちにはねえさまがいらっしゃいます、あなたと共にこの国を創ったねえさまなら、この世界をきっと……」

「アリーシアは……争いには一切関わらない、そうはっきり言われたよ」

 精悍な顔が辛そうにゆがむ。

 この人のこれほど苦しそうな顔は……見たことがない……イルビスの胸は張り裂けそうになった。


「だが、私はこの国を護らなければならない! 私たちの創りあげたこの国を、なんとしても護りたいのだ……」

「シグザール! 自分が一人で孤独だとは思わないでください、ねえさまがいます、国の民も皆あなたを慕っています、わたしも……わたしも、あなたのためなら何でもいたしますっ」

 イルビスの目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。


 自分の言葉がイルビスをそうさせているのに気付き、シグザールは歩み寄る。 

「そうだった……すまない、俺にはお前たちがついていてくれるのだったな」

 優しくイルビスを抱き寄せ頭を撫でる、涙はシグザールのトーガの胸に吸い込まれていった。


 私は……この人を……シグザールの胸に顔を埋めるイルビスの心の底に、誰にも言えぬ、黒い花の蕾のような想いが生まれはじめる。


 願いも虚しく、戦争は始まった。


 物質界と精神界をつなぐ『回廊』から上がった戦火は、『回廊』にとどまらず徐々に精神界の中へその手を拡げていく。

 広大な土地のあちこちから煙が立ち上り、農村では破壊と略奪の悲鳴や、断末魔の絶叫も聞こえ始めてきた。


「シグザール! シグザールいるのっ⁉」

 イルビスが王の居室へと急ぎ入ってくる。

 シグザールは窓より城下を無言で見つめていた。

 はるか向こうには幾筋もの煙が見える。

「シグザール……」

 駆け寄ろうとしたとき。

「イルビス、もう行くんだ」


 その声に足は止まる。

「やがてヤツらはここへくる、はやく出なさい」

 その硬い言葉にイルビスはその場でうつむく。

 が、僅かな間をあけて、ゆっくりと顔をあげたその黒い瞳には、小さく、しかしどこまでも深い漆黒の炎が宿っていた。


「シグザール……あなた、自害なさる気ね?」

「……もう打てる手はない、ヤツらを止めるすべはないのだ」

「国は滅ぶ……国が滅んで王のみが生きるなどあってはならん」

 静かに、しかし底知れぬ無念さのこもった言葉であった。


「まだ終わりではありません」

 ゆっくりとシグザールのもとへ近づくイルビスが言う。

「まだ手はあります……」

「アリーシアのことを言っているのであろう? 無駄だよ、アリーシアは絶対に動かない、誰よりも私が一番よく知っている……」

 その言葉にイルビスの心は針を刺したような痛みを覚える。


「いいえ、違います、そうではありません」

「……何か別の方法があるとでもいうのか⁉」

 イルビスはシグザールの前に立つ。

 左手をシグザールの胸へ当て。


「魔へ堕ちましょう」

 驚愕にシグザールの目は見開かれる。

 イルビスの瞳の昏い炎が暗黒の淵の入口のように、そのシグザールの目を捕らえて離さない。


「襲い、奪い、蹂躙し、犯し、殺す……」

「それを目的として来る者は、祈りや言葉では止まりません」

 イルビスはシグザールの手を取りいざなう。


 シグザールは魅入られたようにイルビスにいざなわれ、フラフラと歩きだす。

「あなたはねえさまを愛している」

「ねえさまもあなたを愛している」

「わたしはねえさまを愛している」

「ねえさまもわたしを愛している」

 寝室に入ると、イルビスはシグザールの手を離しベッドの前へ進む。


 ベッドの前で背を向けたまま立ち、上げた顔はなにかに別れを告げるような、そんな一瞬が過ぎ……

 そしてその躰から、トーガが音もなく滑り降りる。

 足元へ重なった布の上には、真っ白な細い肢体が浮かび上がった。

 漆黒の髪が対照的に白い背を這い回る、妖しく艶めくようなその後ろ姿に、普段の静謐な印象のイルビスはどこにもいない。


「その愛を断ち切りましょう」

「アウルラより愛の冠をいただくねえさまの想いを……」

「断ち切り、裏切り、闇色に染まったとき」

「あなたは何者をも破壊する力を得るでしょう」

 そう言いながらゆっくりと正面を向く。


 細く真っ白な身体の全てが曝け出されていた。

 鴇色の小さな突起がささやかな盛上りの胸を飾り、柔らかい僅かな黒い繁みが陰部を申し訳程度に隠す。

 魂を奪われたようにフラフラと進み出るシグザール。

 しかし白い裸体を見据えながら近づく一歩ごとに、脚には力がこもり、その眼には受け入れた欲望が灼熱して赤い光を放つ。


 乱暴にベッドに押し倒されながらもイルビスは、その身のどこか深い奥からどす黒い歓喜が湧き上がるのを覚えていた。

 そんな感覚に恍惚としながら喘ぐように囁く。


「いま……精霊を遣わしました……間もなくねえさまがくるでしょう」

 シグザールが白い身体を貪りはじめる。


「さあ……堕ちましょう……ともに……」


 その日『回廊』は捻じ切られ、侵略者の断末魔と血のなかで魔王が生まれる。


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