第50話 122回111日目〈38〉S★3

 次の瞬間、ヒサカの口元からは血が流れ出てる。

 そして、再び開かれた彼女の口内は血だらけになっていた。


「やめろっ!」


 ヒサカは今、自らの意思で自らを殺すために口を動かしている。

 彼女の体にまだヒサカの意思が残っていることを俺は思い知った。


 だが、ヒサカの自傷行為はうまくいかない!

 深く噛み込んだ傷はあるが、彼女の舌はまだ健在だった。

 しかし、ヒサカは舌を噛み切ろうとまた口を閉ざす。

 けれど、やはり致命傷にはならない。

 ヒサカの意思を離れた体が自傷行為を抑制しているのだろう。

 いづれにしろ、とても見ていられる光景ではなかった。


「ヒサカッ! もうやめてくれっ!」


 その時、三度みたび舌を噛み切ろうとしたヒサカの口が開かれ、口内に溜まっていた血が溢れ落ちる。

 それは止めようもなく俺の顔へと降り注ぎ、口の中へと侵入した。


「ぐっ――げほっ」


 ぬるりと舌の上を錆びた鉄の風味が抜けていき、喉の奥へと流れ込んでくる。

 それを俺は、むせ返りながらも飲み込んでしまった。

 直後、体を唐突な浮遊感が襲う。


 ひどく懐かしい、また、もう何度も味わった感覚。

 忘れようもない転移が起きる前触れに、俺は焦った。


「なんで、こんな時に――」


 今ほど転移の力を呪ったこともない。

 そうして矛先の向けようがない怒りを噛みしめた時、ふと脳裏をヒサカの言葉が過った。


『あたしが死んでゾンビになったら、あたしのこと食べて良いからね』


 あれは、ただの冗談のはずだった。

 なのに俺は、意図せず彼女の血を飲んでしまった。


「――あれが、トリガーかっ」


 いつの間にか怒りの矛先は自身へと向き、怒りは自責と後悔の念に姿を変える。

 諦めきれない想いに、体が焼かれるかと思った。


「ヒサカッ――」


 これまで、俺はただの一度も誰かを連れ立って転移できたことがない。

 人間に限らず、どんなとも、その世界を共に去ったことはないのだ。


「――すまんっ」


 そして俺は、なんの約束も果たせぬまま……この122回目の世界を後にした。

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