振り向けばそこに
風来 万
振り向けばそこに
(くっそー、欲しいなぁコレ)
ショーウィンドウの中には革のジャンパーがジーンズとのコーディネートでディスプレイされている。マネキンの首に巻かれた赤いマフラーもオシャレだ。革ジャンの値札は七万円! 小遣いではどうにもならない。
僕の名前は法条健太、近くの公立高校に通う十六歳だ。
今は学校帰りに寄り道をして、ブティックのショーウィンドウを覗いているところだ。
僕は溜息をついて顔を上げた。
「?」
ショーウィンドウに映った僕のすぐ後ろに、女の子が立っていた。色白で卵形の顔に、肩までの黒髪。そのコントラストが印象的だ。僕は慌てて振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。寒風が通りを吹き抜けていく。僕は店先を離れ、足早に歩き始めた。
家に帰ると、階段を駆け上がり部屋のベッドに鞄を放り投げる。制服を脱ぎ、いつものジャージーに着替えたところでようやく落ち着いた。アレはいったい何だったんだろう。多分、別の場所にいた人が、反射の関係で偶然僕と重なって映ったに違いない。そう自分を納得させる。
クローゼットの扉を開け、脱ぎ捨てた制服をハンガーに掛けた。扉の裏の鏡に自分の姿を映してみる。
「何をびびってんだよ、健太」鏡の中の自分に、声を出して言った。
「そうよ、男の子でしょっ」
鏡の中に、突然あの女が現れた。僕は飛び上がった。後ずさりしそうになったが、背後に彼女がいる事に気付いて、足を止める。
鏡の中の女は僕と同年齢くらいだろうか。季節外れな、Tシャツにミニスカートをはいている。脚はちゃんとあるみたいだ。
「だ、誰だ?」
震える声で訊ねる。後ろを振り返る勇気はない。
「あたし、レイ」
女の子が小首を傾げるような仕草で答えた。
「どこから入ってきた? レイなんてヤツ、知らないぞ」
「あ、レイは名前じゃないよ。背後霊の霊」
女の子が可笑しそうに笑った。背中を冷や汗が伝う。ゆっくりと、僕は振り返った。
半ば予想した通り、そこには誰もいなかった。部屋の中には僕一人だけだ。僕は、努めて平静を装いながらドアへ向かう。
「逃げるの、健太クン?」
背後から声がした。僕は聞こえない事にして、ドアノブに手を掛ける。だが、ノブは回らなかった。
「何処にいる? 姿を現せ!」
僕は上ずった声で何もない中空に叫んだ。
また背後から返事が来る。
「あたしは鏡の中にしか見えないんだよ」
僕は意を決してクローゼットに歩み寄り、扉を開けた。鏡の中に、僕の背後にレイはいた。いや、レイは名前じゃなかったっけ。
鏡の中のレイは、まるで生きているようだった。また小首を傾げたブリッコポーズで微笑んでいる。
「何で僕の所に化けて出るんだよ? 僕が何をしたっていうんだ?」
お化けに取り憑かれる様な事は、身に憶えがない。
「失礼ねぇ」レイがちょっとふくれて言う。「あたしは背後霊。お化けじゃないわよ」
僕には違いがよく判らない。
「で、結局お前は何者なんだ?」
鏡の中で、レイがフフッと笑う。
「あたしは健太クンの背後霊。キミを幸せにするためにアッチの世界から来たんだ」
「『幸せ』って、僕をどうするつもりだ?」
また背中を冷たい汗が伝い下りる。
「取り敢えずは勉強して貰おうかな。……期末試験が近いんでしょう?」
予想外の、現実的な答えが返ってきた。僕は言われるままに、鞄から教科書とノートを取り出し、机に向かう。逆らえば取り殺されるかも知れない。
誰かに助けを求めたい気持ちで一杯だったが、両親や警察でも僕を救ってはくれないだろう。『背後霊に取り憑かれました』なんて言ったら、いいとこ病院行きだ。
勉強を始めると、レイも話し掛けてはこない。何処かへ行ったのだろうか?
「レイ、いるのか?」
小声で呼び掛けてみる。
「どうしたの? 判らないなら、教えてあげようか?」
耳元で声がした。気配はなくとも、いつも僕の後ろにいるみたいだ。これじゃあ、トイレにも行けやしない。
「ああ、そこの代名詞は仮主語だから……」
レイは僕の心配もよそに、机の上の教科書を解説してくれる。頭は良いみたいだ。
夕食の時間まで、僕はレイに教わりながらちゃんと勉強をした。
食事中はレイも静かにしていた。風呂やトイレの時は消えているらしい。『あたしだってそんなの見たくないもん』僕としてはその言葉を信じるしかない。
「ほら、健太クン、起きなさい」
翌朝、僕はレイの声で起こされた。
「……あと一分」
すると、レイの声色が変わった。
「早く起きないと、化けて出るわよ」
低く、ドスの利いた声だ。
僕は飛び起きた。ケラケラ笑うレイの声を聞きながら、僕は慌てて着替え、鞄を手に階下に降りる。
『あら、珍しく早いのね』お袋の声に曖昧に頷いて、朝食の席に着いた。朝っぱらから冷や汗をかいた。
学校ではレイも話し掛けては来なかった。僕も彼女の事は意識しないように振る舞う。
レイが口を開いたのは、放課後、学校からの帰り道でだった。校門からの通りは昼からの冷たい雨で、人通りは少ない。
「あ、その先を右に曲がって」
この辺りは住宅地になっている。レイに指示された脇道の先も、戸建ての家が続く町並みと、小さな公園があるくらいだ。僕は黙って角を曲がる。雨足が強くなってきた。
「どこまで行くんだ?」
僕は呟くように言った。
「もうすぐそこ。……公園に入って」
その公園にはブランコと砂場くらいしかない。今は雨にぬかるみ、子供の声もしない。
「こんな所に何の用だよ――」
いや、こんな雨の公園にも人はいた。人目に付きにくい茂みの陰に、数人の女子高生らしき姿が見えた。
何をしているのかはすぐに判った。一人が傘も差さずに立っている。他の連中はその子を囲むようにしている。カツアゲだ。
カツアゲされているのは見た事のある子だ。確かC組の女子だと思う。僕は傘を低くして後ずさる。厄介事はゴメンだ。
「こら健太!」背後から叱責が来た。「ちゃんと助けなさい!」
レイのヤツ、あの子を助けさせるために僕をこの公園に連れてきたらしい。
僕は諦めて進み出る。幽霊に取り殺されるよりは、怖そうなお姉様方にフクロにされる方がマシかも知れない。
「テメェ、何しに来た?」
僕に気付いた一人が甲高い声で言った。他の連中も一斉に僕を振り返る。みんな僕と同じ高校の生徒だ。男子がいないのがせめてもの救いか。僕は、その中に思いがけない人を見付けた。同じクラスの橘いずみだ。
「ちょっとその子に話があって……」
僕はカツアゲされている子を指差しながら、しどろもどろに言い繕う。
お姉様たちは僕が立ち去らない事に戸惑っている様だ。たいがいの連中はちょっと凄めば逃げて行くだろう。僕だってそうしたい。
「この一年坊が!」
リーダー格らしいのに、いきなり蹴りを貰った。はしたない子だな、そんな思いが一瞬頭をよぎった。が、すぐに腹が苦しくなってうずくまる。だが、追い打ちは来なかった。
「これで終わったと思うなよ!」
怯えていた子に捨てゼリフを残して、お姉様方は僕を無視して去っていった。
腹の痛みが治まるのを待って、僕はようやく立ち上がった。カツアゲされていた子はもういなかった。
僕は足元の傘も拾わず、雨に濡れたベンチに一人腰を下ろした。ショックだった。
「よくやったね」
レイが言った。彼女の存在を忘れていた。
橘いずみは、クラスでも目立たない大人しい子だ。大きめの口と目が印象的な、美人だ、と僕は思う。そんな彼女が不良グループの中にいた。それが僕にはショックだった。
僕は黙って雨に打たれていた。
翌朝もレイに起こされた。
「大丈夫、あたしがキミを幸せにしてあげるから」
鏡の中で、レイがまた小首を傾げて微笑んでいる。彼女は、僕が何で落ち込んでいるのか、判っているのだろうか。
不良グループの中に橘さんを見たせいで、学校へ行く楽しみが無くなったような気がしていた。けれど、僕はいつも通りに家を出る。
「ちょっと、急いでよ」
玄関を出たところでレイにせっつかれた。余計なお世話だ。僕が遅刻したところで、レイが怒られる訳じゃない。
学校までの道のりを半分程来たところで、またレイが指図してきた。
「そこ、右に入って」
僕は言われた通り、横道に逸れる。どうせ行きたくもない学校だ。サボるのも良いだろう。この先は川に出るはずだ。
川は昨日の雨で増水していた。道は川沿いに続き、町境の橋に繋がっている。
橋の中央に誰かが立っているのが見えた。まだ遠くて顔は判らないが、女子高生、ウチの生徒みたいだ。
「アイツ、何してんだ? 遅刻だぞ」
僕は少し後ろを振り返るようにして言った。
「いいから、目を離さないで!」
レイが返す。僕はまた橋に目を戻す。と、その瞬間、その子が川に落ちた。まるでスローモーションのように、欄干から上半身を乗り出し、一回転して濁流に呑まれた。
「急いで! 助けて!」
背後でレイが叫んだ。
僕は呪縛が解けたように鞄を投げ出し、走り出した。道路と川を隔てるフェンスを乗り越え、護岸された斜面を斜めに駆け下りる。上着を脱ぎ、靴も脱ぎ捨てた。
彼女の姿は見えない。僕は流速を考えながら川に飛び込んだ。水の冷たさは感じないが、服がまとわりついて泳ぎにくい。
「もっと先!」
レイの声がした。レイには彼女の場所が判るらしい。
「どこだ?」
「沈んでる! 潜って!」
レイの指示に従って、潜水を試みる。水は茶色に濁り、何も見えない。一度、二度、三度、四度目の潜水で何かを掴んだ。
「放しちゃだめよ!」
言われるまでもない。僕は彼女を抱きかかえて岸に向かう。
ようやく岸に辿り着き、彼女を護岸に引き上げる。水から上がると、風が肌に突き刺さった。
彼女を仰向けにして、僕は驚いた。橘いずみだった。急に心臓がドキドキしだす。
彼女の様子を確認する。脈を取ろうとしてみたが、手がかじかんでさっぱり判らない。彼女を僕の膝に抱き起こす。橘さんは息をしていなかった。目を閉じたまま、身体がぐにゃりと反り返る。
「レイ! どうしたらいい?」
レイは答えない。僕は急に不安になった。
「……レイ?」
橘さんが川に落ちてから、もう五分以上は経っている。このままじゃ彼女は死んでしまう! だが、その時、奇跡が起こった。
突然、彼女が上体を捻った。結構な量の水を吐き、激しく咳き込んだ後に目を開いた。
「橘さん!」
僕は思わず彼女を抱きしめた。
「ありがとう」
彼女は思いの外しっかりとした口調で言った。それからゆっくりと上体を起こし、僕を直視する。
「良かった」
僕は嬉しくて、ちょっと涙が出た。大切な人を失わずに済んだ。
あの日以来、レイは消えてしまった。ホッとした反面、少し寂しくもある。
一方、橘さんは明るくなった。彼女は何も言わないが、僕はレイが関係していると思っている。そう、今の橘さんは、まるでレイの性格が混じったみたいな感じだ。
あの日、彼女は不良グループを抜けられない自分に嫌気が差して、思わず川に飛び込んだらしい。不良のリーダーが彼女の幼馴染みで、断れなかったそうだ。でもあの後、橘さんは不良たちときっぱり決別していた。
あのときは気付かなかったけど、自ら川に飛び込んだ橘さんの、意識を取り戻して最初の言葉が『ありがとう』だったのはおかしいと思う。僕にはあれがレイの言葉に思えてならない。
今、僕は橘さんと付き合っている。クリスマスの夕暮れを、僕たちはファミレスで過ごしていた。
「はい、これ」
彼女が足元の袋を取り、僕の前に置いた。
「プレゼント?」
「開けてみて」
包みを開くと、中から真っ赤な手編みのマフラーが出てきた。僕はそれをそっと首に巻いてみる。
「革ジャンは買ってあげられないけど」
彼女が小首を傾げるようにして言った。
その瞬間、僕ははっとした。僕は橘さんに革ジャンの話などしていない。
だが、レイなら知っている。ブティックのショーウィンドウで、革ジャンを着たマネキンが首に巻いていた赤いマフラー、レイはあれを見ていた。
「君は、レイ? それとも橘さん?」
真顔で訊いた僕に、彼女は黙って微笑んだ。
いつの間にか、外は雪になっていた。窓に映る僕の背後に、レイの姿はない。でも、静かに微笑む橘いずみの中に、僕は確かにレイを見ていた。
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