第2話 「いわゆる、胸をすりおろすってやつね!」
「歴史を覆す大発見をしてしまったわ!」
部室に行くと部長は得意げに胸を張っていた。
別にそれ自体はいつものことである。
「さっちゃんすごいわ、何を見つけたの?」
貴子先輩がほめる。
やっぱりこれもいつも通り。
「これよ!」
そう言って部長は一冊の古ぼけた文庫本を取り出した。
まあ、と言って貴子先輩はにこにこと笑いながらそれを受け取った。
いつも以上にIQの下がる会話してるなあ、と思った。
****
部室には5月のさわやかな風が吹き込んでいた。僕はその日も部室に向かった。部長と貴子先輩はすでに部室にいて、見目麗しい先輩方は机に座って話していた。
「何の話をしてるんですか?」
「あ、ちょうどいい時に来たわね。わたしが見つけた世紀の大発見に驚愕しなさい」
「はあ」
部長が興奮気味に言う。僕はその勢いにちょっと引き気味である。
もっとも、ストレートに感情を出すところも部長の魅力だと思う。僕や貴子先輩はきっとそういう部分でこの長嶋さくらという女性に惹かれたのだと思う。
ていうか世紀の発見ってなんだろうか。もちろん素直に言葉通りに受け取ることはできない。大体高校生に発見できる世紀の大発見なんてそうそうあるはずがない、でもここまで嬉しそうだとちょっと気になる。
「何よ、気の抜けた返事ね。興味ないなら見なくてもいいわよ」
「そんなこと言われたら気になりますよ。見せてください」
「えーそんなに気になるう?」
一瞬イラっとしたが我慢して頷く。部長は自慢げに「しょうがないわねえ」と言い、それからそれまで貴子先輩に見せていた古ぼけた文庫本を渡してくれた。
とりあえずタイトルを見る。割と有名なアメリカの作家の、それほど有名ではない作品の翻訳本だった。
確かにメジャーな小説とは言えないが、別に歴史を覆すような稀覯本というわけでもない。僕もその本を読んだことあるし、家の本棚を探せばどっかにあると思う。
「……これが世紀の大発見ですか?」
「ええ!」
部長が自信満々に頷く。
なぜこれほど自信気にうなずけるのか、これは一種の才能じゃないだろうか。
「なにがすごいかわからないようね」
部長が言う。
ともかく、これほど部長が自信ありげなら、きっと何かあるのだろう。
僕は答えを保留しもう一度その本を見た。パラパラとめくると古書特有のあめ色になった紙から甘い匂いが立ち上る。
別におかしな部分はない、と思う。
「あ」
最後までページをめくって、僕はおかしな部分に気が付いた。
本の最後、印刷所や発行所、それから出版日等を書いてある部分を奥付と言う。
その本は第13刷で発行日は1986年11月10日になっていた。そこは別におかしなところはない。
けれど、第1刷の発行日がすごいことになっていた。
その本は1年の11月10日に発行されていた。
1年って……
「これって昭和1年ってことなのかしら? それとも平成なのかしら?」
貴子先輩がしげしげと見ながら首をかしげる。
「もちろん西暦よ! だって前に何もついていないでしょう?」
「それはそうね」
「いや、それはそうねって……西暦1年ってあれですよ。日本だったらまだ弥生時代ですよ」
僕が突っ込む。
「キリストが死ぬのよりも前ね」
貴子先輩が言う。
「それ以前にまだ活版印刷技術が存在しないでしょ!」
部長の指摘にそれもそうだと頷いた。活版印刷が存在しないのだから1刷も初版もない。
「でもこの小説は西暦1年にはすでに初版が存在した……この意味が分かる?」
部長が問う。僕には一つしか答えが思いつかないが、そんなに当たり前の答えを部長は期待していないだろう。
少し考えて貴子先輩が答えた。
「19世紀も販売期間はあったのにたったの13刷までしかされてないってことは、あんまり売れなかったってことかしら」
「……言われてみればそうね。100年に1刷も刷られないって、売り上げ大丈夫なのかしら」
なぜか出版社の心配を始める先輩方。
「って違うわよ! つまり人類には2000年前から活版印刷の技術があったってことよ!」
斬新な結論だった。
「グーテンベルク聖書の初版がどれくらいするか知ってる? これは、ヤバいわよ。もしこの本の初版が手に入れば……」
思わず、ごくりと生唾を飲み込む。
「100万? 1000万? いいえもっとよ!」
「すごいわさっちゃん」
貴子先輩が部長をほめたたえた。部長はえらそうに胸を張って賞賛を受け入れた。
「1億あったら何しようかしら。とりあえず大きな家は買わないとね」
「それなら私もそこに住みたいわ」
「もちろん貴子はおいてあげるわ」
御大尽のようなことを部長は言う。二人が夢を膨らませているところを悪いかなと思ったけれど、僕は素直に自分の言いたいことを言った。
「でもその本、初版じゃないですよね?」
部長はわざとらしく胸を押さえてよろめいた。
「それにそんな時期に漢字かな交じりの小説があるはずないです」
部長は傷ついたように僕を見た。
「というかただのミスプリントですよね?」
「わーん、平部員がわたしのこといじめるう」
部長は貴子先輩に泣きついた。
あらあら、と貴子先輩は部長を受け入れた。
なんだかひどいことをしてしまった気分である。いや、ひどいことなんてしていない。あのまま放っておいたら、謎の結論から先に話が進まないじゃないか。僕は自分を強く持つ。
部長が復活したのはそれから数分ほど経ってからだった。
おもむろに文庫本を机に置いた部長が宣言する。
「と言うわけで、今日はミスプリントについて話すわよ!」
****
「でもさっちゃん、ミスプリントって言っても、そんなすぐには思い出せないわ」
貴子先輩が言う。
「まあそうよねえ。そんなにたくさんあるわけではないし」
「いいえ、ミスプリント自体は結構あるのよ。だけど結構あるからこそ、そんなにすぐに面白いミスプリントなんて出てこないわ」
「ええ、そうかなあ」
部長は首をひねる。でも貴子先輩のいう事は正しい。一冊頑張って本を探せば、それこそ数個のミスプリントは見つかるものだと思う。特に古い本を読んでいると割とある、気がする。これは僕の印象論かもしれないが。
「たぶん、さっちゃんはミスプリントがあっても気が付かないタイプの人間なのだと思うわ」
「……馬鹿にしてる?」
「そうじゃないわ。普通に頭がいい人ってミスプリントがあってもそれまでの文章から正しい文章を頭で再現できちゃうのよ。だからミスってなかなか気が付きにくいの」
「つまりわたしの頭がいいってことね!」
部長は素直に喜んだ。素直なのはいいことだと思う。
「辞書のミスプリントなんかは印象に残りやすいですよね」
僕は話に加わった。
「辞書? 辞書にミスプリントなんてあったらもうおしまいじゃない!」
部長は憤る。
「別におしまいじゃないですけど……でも英和辞典で refer が fefer になってるのはちょっと笑いました」
「f と r って形が似てるから間違えちゃったのかなあ」
部長は首をかしげた。
「ミスプリントじゃないけど、さっちゃんは言い間違え多いわよね」
貴子先輩が話を変える。
「え、わたし言い間違え多い?」
部長はキョトンとした顔で貴子先輩を見る。
「まっさかあ、わたしに限ってそんな初歩的な間違いはありえないわ」
どこからその自信が来るのだろう。僕だってそれほど長い付き合いじゃないけれど、部長の言い間違えなんていくらでも思いつきそうだ。
ということは貴子先輩は言わずもがなである。
「この間『三銃士』の話したことあったじゃない」
「あったわね」
部長がうなずく。
「ほらあの時、自分が三銃士だったら誰かーっていうの話したでしょ」
「ええ、あー」
部長は何かを思い出したのか、顔を赤く染めて机に突っ伏した。
「なんでそんなこと覚えてるのよぉ」
「だってさっちゃんらしくて可愛かったから」
「なんていったんですか?」
その場にいなかった僕が問う。貴子先輩は悪戯そうに微笑みを浮かべ、それから言った。
「さっちゃんはね『三銃士で言ったらわたしはティラミスよ!』って言ったのよ」
「ほんのり苦くて甘いんだ……」
というかどんな三銃士だ。他の二人はなんだ。やっぱりスイーツなんだろうか。
「あの時は言い間違えたの。大体名前が似てるじゃない」
部長の苦しい言い訳。
「じゃあほんとはなんて言いたかったんですか?」
僕が問うと、部長は不敵な笑みを浮かべて言った。
「三銃士ならね、わたしはラティアスよ!」
「能力が防御寄りで、あんまり対戦じゃ使われないんですね」
僕は陰謀渦巻くヨーロッパで活躍する流線型のポケモンを思った。ちょっとカッコよかった。
貴子先輩はフッと、鼻で笑った。
「ラティアスが使えないなんて言うのは素人丸出しね」
「なんの素人ですか」
「そんなんじゃポケモンマスターになんてなれないわよ」
「なれなくていいですよ……」
「そんなんじゃイエモンマスターになれないわよ」
「なんだそのマスター!?」
「お茶の鑑定職人よ」
「ああ、伊右衛門ってそういう」
なぜか納得してしまった。悔しい……いや別にお茶の鑑定人になりたくはないけど。
「違うのよぉ」部長は自分の間違いに気が付いて、それからもう一度、こんどは正しく、「三銃士で言ったらアラミスなのよぉ」と泣きそうになりながら言った。
部長はアラミスみたいに裏がある感じではないので、それはそれでどうなのかと思ったが、僕はそれ以上突っ込まなかった。
武士の情けというやつである。
「ていうかどうして三銃士の話になったんですか?」
僕は話を変えた。
「それはね、私がこの間さっちゃんに『ダルタニアン物語』を貸していて、それを返してもらっていたのよ」
「なるほど。それで感想を話してたわけですね」
「そういうことね」
本好きのあるあるっぽい話である。
「まああなたは友達がいないから、あんまりないかもしれないけど」
「ひどい!」
僕は深く傷ついた。
「ていうか友達くらいいますよ」
「あら、そうなの。でも本好きって大体友達いないか、いても少ないわよね」
「どんな偏見ですか」
僕は呆れる。もっとも一理ないこともないと思う。特に小説好きなんて、ある意味人間嫌いって言ってるようなもんだと思う。本好きは大なり小なり人間嫌いだ、と言っていたのは誰だっただろうか。
「でもよかった。部員がみんな社交的でわたしは嬉しいわ」
部長が安心したように息をつく。
「いわゆる、胸をすりおろすってやつね!」
「なんですかその猟奇殺人!?」
思わず突っ込んだ。
「ほら言うじゃない。安心した時に思わずしちゃうって」
僕は安心すると思わず胸におろし金を当てる人間を思い浮かべて震えた。
ヤバい。絶対にヤバい。そんな人間には僕だったら絶対に近づきたくない。
「ていうかそれを言うなら胸をなでおろしたでしょう……」
「そうとも言うわね」
「そうとしか言わないです」
言いながらじっと部長の胸を見る。ちんまい胸である。胸に限らず、部長は大体のパーツが人より小さい。
視線に気が付いた部長は胸を腕で隠した。
「なによ」
「いえ、別に……『そもそも部長にはすりおろすような胸はないなあ』なんて思っていませんよ」
「絶対思ってるわよねえ!」
「見る目がないわね。さっちゃんは美乳なのよ?」
腕を組んでスタイルの良いバストを強調しながら貴子先輩が言う。思わず二人を見比べる。
「美乳っていうより否乳って感じです」
「あり得ないレベルの誹謗タイショウだわ!」
部長は手を口元に当てて『ガラスの仮面』みたいな衝撃の受け方をした。
ていうか、
「誹謗タイショウ?」
初めて聞く言葉だった。困惑が伝わったのか貴子先輩が横からこっそりと教えてくれる。
「知らないの? 誹謗大賞っていう企画がオール〇物にあるのよ」
「どんな企画なんですか?」
「その年で一番ひどい誹謗の言葉で他人をののしった人物を表彰するの」
「それはまた……」
むごい企画だった。お互いに早く忘れたいだろうに……なんというか、表彰される方もアレだが、ののしられた方にも迷惑そうな企画だった。
「もちろん嘘だけど」
「微妙にありそうな嘘を言うのはやめてくれませんかね!? 思わず信じかけたじゃないですか!」
僕は立ち上がって全力で突っ込んでしまった。そんな僕を微笑みながら見る貴子先輩の横で、「よかった。私の知らない言葉があるのかと思ったじゃない」と、なぜか部長も一緒に胸をすり……なでおろした。
話を戻す。
「で、結局、誹謗タイショウってなんなんですか?」
「知らないわ」
貴子先輩はいけしゃーしゃーと言い切った
「……」
僕は突っ込みを必死にこらえた。突っ込み体質はこういうときつらい。
腕を組んだ部長がえらそうに言った。
「知らなくて当然だわ。だってわたしが作った言葉だもの」
作ったって。
「ほら普通中傷っていうじゃない」部長が続ける。
「ええ、まあ」
「でもわたしはさっきの言葉でとっても傷ついたの。それは中くらいの傷どころじゃないの。もっと傷ついたの」
「はあ」
「だからタイショウよ。大きな傷って書いて大傷」
「ああ、中くらいの傷どころじゃないから大傷ですか……」
わかりにくい……
「さすがさっちゃんだわ。さっちゃんの日本語は常に進化しているのね」
貴子先輩は笑顔で部長の頭をなでる。
部長は相好を崩した。縁側でかわいがってもらっている猫を連想した。
確かに部長は日本語の最先端に言っているかもしれないが、でも、たぶん実際の日本語がその方向に進化する可能性はゼロだと思う。
「でも中傷って言ってしまうあたり日本人らしさが表れているわよね。中くらいの傷って一歩引いちゃうんだもの。欧米人ならぜった大けがだって言ってるわ」
貴子先輩に褒められたのが嬉しかったのか、得意げに部長が続ける。
「私は遠慮を美徳とするつもりはないの。だから自分が傷ついたら傷ついたってはっきり言うべきだと思うの。だから大傷よ」
部長言いたかった気持ちは理解した。でも、日本語としては致命傷だと思う。
「ていうか中傷の中の字はたぶん傷の大小を言っているわけではないでしょう」
「え!」部長が驚く。
「たぶんですけど、あれって中るとかの意味合いで使ってる気がします」
「そんな!」
部長は助けを求めるように貴子先輩を振り向く。貴子先輩は笑顔でとどめを刺した。
「そうね、それに普通ひどい傷は重傷って言うわね」
部長は深手を負った兵士のようによろめいた。
ひどい話だと思った。
「貴子は今年の誹謗大賞決定よ!」
涙目になった部長が貴子先輩に拳を振りぬく。
あらあら、と貴子先輩はその誹謗中傷を受け止めるのだった。
****
「とりあえず、今日は古本屋に寄るわよ!」
五時が過ぎ、部室のカギを閉めながら部長が言う。
「なんだか結局ミスプリントについての話もできなかったし、少しは書籍部らしいことをしなくちゃ」
「さっちゃんがそういうなら行きましょう」
貴子先輩が同意する。僕には書籍部らしさっていまだにわからない。
「そして誰が店頭に並んでる本から一番レアな本を見つけられるか勝負よ!」
そんなに簡単に見つからないからレアな本なんじゃないだろうか、と思ったけれど僕は文句を言わなかった。
僕たちは書籍部だ。
書籍部はありとあらゆる書籍に対して、いろんな行動を起こす部活なのだから。
きっとこれも部活動の一環なのだろう。
「あれ、ということは書籍代は経費で落ちるんですか?」
「落ちるわけないでしょ」
貴子先輩が冷たい現実を教えてくれた。
僕たちは商店街の古本屋さんに向かった。
「そういえば三銃士で言ったら自分は何だと思う?」
歩きながら貴子先輩が僕に問う。僕は少し考えた。
「ダルタニアンですかね」
僕が言うと、貴子先輩は、わたしもそう思うわ、と貴子先輩は少し寂しそうに頷いた。
貴子先輩は何が言いたかったのだろう。
「ほら二人とも! 早く行かないと古本屋がしまっちゃうわよ!」
先を歩いていた部長が呼ぶ。
「はいはい」僕が返事をする。
「はいは1回!」
先に行ったのは部長なのに、困ったものですね先輩と、貴子先輩に振り返ると、そこには誰もいなかった。
え、慌ててあたりを見ると、貴子先輩は部長の横を悠々と歩いていた。
貴子先輩が振り返る。
「遅いわよ」
「なにそれ!? 縮地!?」
僕は慌てて二人を追いかけた。
傾いた太陽が空を茜色に染めていた。
誰が優勝したか?
それはまた別の機会があったら話せたらいいと思う。
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