第3話 ~ ミ ~

 明らかにおかしいと感づいたのは、お姉さんのおかげだった。


 彼の四つ年上のお姉さんは、まるで世界の〝ずれ〟に呼応するように、日に日に体調を崩していった。元々あまり丈夫なほうではなかったんだけれど、お姉さんはさらに能力を使い果たしてしまった。


 能力には副作用があった。視力が0.3落ちるとか、すっぱいものに対する味覚が異常なくらい鋭敏になるとか、やたらと汗っかきになるとか、本来ならリカバリーが効くもの。

 けれど、些細なものでも七つも積み重なってしまうと、当人に深刻なダメージを与えることもある。

 元々病弱だったお姉さんの躰は、とうとう日常生活についていけなくなってしまったんだ。


 入院を余儀なくされたお姉さんの元に、彼は毎日のように足を運んだ。

 十七年ぶりに再結成したバンドの話(すっかりおっさんになっていたけど、本当に楽しそうに音を楽しんでいる)や、小さい頃、お姉さんとよく一緒に歌っていたアイドルの歌が、HipHopにアレンジされた話(悪くはなかったけど、Rapのパートに関してはまったく原型を留めていなかった)など、大好きな音楽の話を次々に語ってきかせた。


 彼がお姉さんの部屋を訪れると、決まって明るい日差しが部屋中を満たした。

 調子に乗って声のトーンが上がっていくと、隣のベッドからも笑い声が起きた。それほど大きくない院内に自然と笑いの連鎖が起こった。病院全体の空気が明るくなると言って、いつしか部屋のほかの患者さんからも歓迎されるようになっていた。


 彼にはそういうところがあるね。

 無意識に、人々の心の気持ちよいところをくすぐるんだ。

 そうすると、みんなはたいてい喉のあたりを撫でられた猫のように、眼を細めて笑うんだ。


 お姉さんは病室に持ち込んだ大量の画用紙を膝の上に乗せて、彼の音楽談義を楽しそう聞いていた。時折、まるで絵を描くように手を動かして、質問を挟んだ。彼はその小気味よい音も好きだった。


『私は絵画のほうが好きだし、そちらにばかり傾倒してきたから、あなたの音楽の話は新鮮味にあふれていて、本当におもしろいわ。今はどんな音楽が流行りなの?』


「おとなしいメロウな曲ばかりだよ。嫌いじゃないけれど、からだは揺れないよね」


 自然と全身が踊りだす。それが彼にとって、それがもっとも重要なポイントだった。激しい曲であれ、バラードであれ、インストゥルメンタルであれ、アカペラであれ。心身に気持ちよく響くリズムは、勝手に躰が反応するものなのだ。


「メッセージ性の強いものも多い。あとはやっぱり恋愛系かな。聴いて楽しむって感じじゃないよ。カラオケで歌われることが前提で作られてるみたいだ。それも、たっぷり感情を込めてね」


『昔は底抜けに明るい歌がいっぱいあったわよね』


「あったね。口ずさむだけで全身が動いちゃうのが。意味不明な歌詞なんだけど、歌うとなんだか心が弾むっていう。よく一緒に歌ったよね。あのへんてこりんな歌。なんていう曲だっけなあ」


『じゃあ、今は。あなたが、今一番好きな明るい歌はなに?』


 不意にそう問われた彼は困惑に陥ってしまった。

 咄嗟に思い浮かぶ歌がなかったんだ。

 時間をもらってしばらく考えてみたんだけど、結局口をついて出てきたのは、なんと四年も前の歌だった。


 半ば呆然としていた彼を正面から見据えて、お姉さんは静かに続けた。


『冷たい風にずっとさらされていたら、あたたかいスープを飲みたくなるものでしょ? 寒さで躰が震えているのに、冷たい飲み物ばかりを飲んでいるのは、きっと何かがおかしくなってしまっているのよ』


 そのとき、彼は焦りにも似た思いで確信した。

 このままじゃまずい。なんとかしなきゃってね。


 決意のみなぎった顔からにじみ出た想いは、お姉さんにもちゃんと伝わっていた。

 心の底から信頼しきった笑みを添えて、お姉さんは彼の腕を軽く叩いた。彼はお姉さんの言葉を見つめ返した。


『そろそろ、あなたの出番なんじゃない?』


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