第25話
視界全てが0と1の文字で埋め尽くされた。
二重にも三重にも奥行きがあるようだ。突然の夏の豪雨のように激しく、たった2種類の数字が幾億も降り注ぐ。
それは真っ白な飛沫をあげる巨大な滝のようでもあり、今までの中で一番デジタルなグラフィックだったというのに、一番人間味を感じて、美しいと思える光景だった。その幻想的な景色の中に包まれたのはほんの十数秒だったろう。
<初めまして>
いかにも合成といった声がどこからか聞こえてきた。視界は元に戻っていたが、インターフェイスが少しだけ変わっているように見える。
<ワタシは学習型AIのソウルver.0です。よろシクお願いシマす>
人工知能なのだから当たり前かもしれないが、イントネーションが機械的で少しがっかりしてしまった。
「AIか……まぁ人工知能がちゃんとした会話を出来るとも思わないけどさ……」
AIという言葉に期待しすぎてしまったようだ。ため息混じりに愚痴を吐いてしまった。
「もうちょっと、凄いんじゃないかと思ったんだけど」
<もちろんですとも。私はとても優秀でエレガントなAIですからね>
「ぶっ?」
突然流暢で淀みが無く、かつ皮肉混じりの返答に、僕はひっくり返りそうになった。
<大丈夫ですか? しかしこのくらいで驚いていては身が持ちませんよ?>
唖然。
<言っておきますが、私の前バージョンであるアルテミスver.4.2.0.0.4は毛利蒼流と11ヶ月以上の会話と自己学習を繰り返してきたのです。通り一辺倒会話しか出来ないそこらのヘナチョコAIと一緒にされては困りますよ?>
な……なんだこれ?
「誰か別の人間が喋ってるんじゃないのか?」
<それならそれでかまわないではありませんか。AIとしての機能があれば良いのですから。何か命令してみてください>
突然言われても困る……ってなんでAIに困らされているのだろう?
「じゃあ……時計のウィンドウ消してよ」
呟くように言った。
<おお! 最初の命令がそのような簡単な物でよろしいのですか? あなたが望めば空だって飛べるのに!>
「なっ……? よっ! 余計な事言ってないで実行してみてよ>」
<もう終わってますが、なにか?>
「え?」
視界の隅に開いていたはずのデジタル時計のウィンドウはすでに閉じられていた。
<何かお気に召さないことでも?>
「あっ……うぐっ……」
なんだこれ!
本当にこれが人工知能なのか?
事実だとしても折り合いをつける自信が全く無いぞ?
「おっお前なあ……」
言葉が乱れてしまう。夢の時みたいだ。
<お前とは酷い。私にはソウルという、崇高にして至高な名前があるのですよ? どうぞ、ソーちゃんとお呼びください>
「呼ばないよ!」
<ではソウル様とかどうですか? 私はその方が嬉しいですが>
「AIが喜ぶって!」
<もちろんより高度な疑似感情をもっておりますので。はい>
最悪だ……。僕は膝から崩れ落ちた。この敗北感と脱力感はなんなんだろう?
「せめて亞璃栖の居所でも教えてくれれば……」
<すぐにお調べしますが?>
「え?」
今なんて言った?
<私をそこらの無能なツールと一緒にされては困ります。検索しますか?>
「もちろん! 今すぐ!」
<了解しました>
よし! もう全ての事を許す! 見つけ出してくれ!
<検索終了いたしました……しかし……>
「なに! 早く教えてよ!」
どうもこのソウルを相手にすると語気が荒くなってしまう。なにか心の琴線に触れているのかもしれない。
<現在、亞璃栖さまは強力な不正ツールに守られております>
AIソウルの言葉に、僕は思考が止まりかける。
「場所は?」
<女子寮……目の前の建物ですね>
「えっと……」
止まっている思考を気合いでフル回転させる。考えろ! 僕!
「ソウル! やって欲しいことがあるんだ!」
<やっと名前で呼んでくれましたね、なんでしょうマスター>
ソウルの口調が少しだけ丁寧になった気がする。今はどうでもいいけど。
「雷弩に通信をつなげられる?」
<お安いご用です>
視界に『音声通信>雷弩(呼出中)』のウィンドウが現れ、電話の呼び出し音が鳴る。
「なんだ? 零か。まだ見つかってねーぞ」
ウィンドウの文字が『音声通信>雷弩(通話中)』に変わり、雷弩がもしもしも言わずに話し出した。
「違うんだ雷弩、亞璃栖の居所がわかったんだ」
「え? お前探し歩いてるのか?」
「ソウルが教えてくれた」
「はあ?」
「女子寮だよ」
僕は話しながら、走り出した。
時間を無駄にしたくなかった。
◆
雷弩がいろいろわめいていたので通信を切った。彼ならみんなに連絡してすぐ来てくれる。僕は確信していた。
とにかく先に確認したかった。男子寮を飛び出し、目の前の女子寮に飛び込んだ。そこに躊躇は無かった。
<マスター! 危険です!>
合成音声の金切り声というのを初めて聞いた。途端に視界が真っ暗になった。
<不正ツールによって通常ワールドから隔離されました……畜生!>
それは僕のセリフだろうと思ったが、現状確認が先だ。仮想世界に慣れてきたのか、突然の風景の変化にはあまり驚かなかった。
僕は薄く光る円盤の上に立っていた。初めはただの床だと思っていたのだが、それが巨大なお盆のようだと周囲を見渡して気付いた。そのお盆の端の方に立っている。
少し先、そのお盆の中央、光る丸い台があり、その台の上に彼女は浮いていた。
亞璃栖。
彼女は夢の時と同じ裸だった。
……あれは夢じゃなかった。
きっと彼女の作った不正な世界だったに違いない。今みたいに。
彼女の周りに光る数列の輪が幾重にも取り巻き、AI実装時に負けない、いやそれ以上に幻想的な光景を作り出していた。
「亞璃栖!」
僕は叫んだ。
光る数列が何重にも彼女を取り囲んでいるので表情がよく見えない。とにかく近づこうと一歩踏み出した時。
「だめだよ」
クスクスという笑い声と一緒に、その言葉が聞こえてきた。
「亞璃栖……?」
違う。僕は直感した。
「ちょうど零くんも今から迎えに行くところだったんだ」
笑い声。
「君……だったの?」
彼女はどこからか、ちょこんと現れてお辞儀をした。
「いらっしゃい。零くん」
背の低い彼女は麻揶だった。
<私の声は他人には聞こえません。上手く利用してください。攻撃も可能です>
ソウルだった。僕は小さく頷いた。
<頭の良いマスターで助かります。現在自動防御モードに切り替えました。敵の攻撃を数秒間無効にします>
僕は麻揶と対峙しながら、もう一度小さく頷いた。
「びっくりしたわ、急に女子寮に駆け込んでくるんだもん。トラップが間に合って良かったわ」
妙に楽しげに彼女は笑っていた。
僕は亞璃栖を見上げた。
「亞璃栖に何をした?」
思考のどこかで、亞璃栖が犯人で無かったことにほっとしていた。
亞璃栖は磔のキリストの様な格好でぐったりしていた。
「亞璃栖!」
彼女の目が細く開く。
「う……あ……れ……いくん?」
苦しげに彼女はうめいた。
「麻揶さん! これは! 何をしてるんですか!」
クスクスクス。
空間にそれだけが深く響き渡る。
「ちょっとだけ、協力してもらってるのよ」
「協力? これが?」
麻揶は僕との距離を一定に保ちながら、数歩横に移動した。右手の人差し指を口元に当ててクスクス笑いを続ける。
「うーん。ちょっと本人の意志は無視しちゃってるけどね」
クスクスクス。
耳障りな音だ。
僕は考えるフリをして、手のひらを口に覆うように持ってくる。
(ソウル! 亞璃栖のアレなんとかならないの?)
これで麻揶には僕の口の動きは見えないはずだ。
<現在解析中ですが、相手に気付かれないようにやっているので時間が掛かっています>
(早くする方法はないの?)
<条件付きであります……ただ……>
AIが言い淀むな!
(それ! やって!)
<防御プログラムの実行領域を当てれば、数倍から数十倍に……>
(やれ!)
<わかりました……切り替えました。もし不正な攻撃ツールを使用されると、マスターの現実の脳神経にダメージが出る可能性があります>
僕は返事をせずに麻揶を睨み付ける。
聞かなくてはならない。彼女は何のために何をしているのか。
「麻揶さん……亞璃栖に何をしているんですか?」
再三尋ねる。
「目が怖いよ? 零くん」
「わかった。何をしてるのかはもう聞かない。だからすぐにコレをやめてよ!」
亞璃栖を取り巻く数列を指差し怒鳴った。
「なんで?」
不思議そうな顔をした。
「ただのマッサージかもしれないよ?」
クスクスクス。
僕は片足を強く地面に叩き付けた。
「いくら僕がこの世界に疎くても、これが不正なツールって事くらいわかるよ!」
麻揶がわざとらしく目を丸くした。
「大丈夫だよ、ちょっとデータをもらうだけだから」
彼女は楽しげに笑い続けている。
「零……く……」
「亞璃栖!」
僕は亞璃栖の方へ走り出す。
<危険!>
バキィ!!
ソウルの叫びと同時に体中に激痛が走った。そして両目にアイスピックでも突き刺されたような激痛を超えた激痛が、目の奥と脳を暴れ狂った。
「うあああああぎぐあげぎゃげああ!!!」
頭を押さえてのたうち回った。
痛みは数秒で治まったが、その痛みを感じた瞬間、死んだと思った。
「危ないよ? あなたレベル9なんだから」
麻揶は両手を腰の後ろで組んで、その離れた場所から僕を見下ろす。
「うあ……ぐ」
「零……くん!」
亞璃栖の、彼女の声が聞こえる、立ち上がらないと。
(ソウル……レベル9って……なんだ?)
<脳への機械埋め込み深度指数。レベル9は人間の五感全てに電子的な再現能力を持つ。現在レベル9はマスターのみ>
どういう……事だ?
僕は残った頭痛の事は忘れることにした。
(わからない……それより亞璃栖の方は!)
<解析中です。トラップ多数。現在トラップを解体中……時間を稼いでくださいマスター>
時間を稼げって言われても……頭の奥に残る痛みで思考が分散する。
そうだ。
「麻揶さん……レベル9って……何?」
麻揶は目を丸くした。
「知らないの? ……って当たり前だよね。うん。まだ亞璃栖のサーチが終わらないから教えてあげる」
麻揶が亞璃栖の浮く台座に腰掛けた。
「ダメ……ダメだ……よ! 麻揶ちゃ……!」
苦しげに亞璃栖が声を絞り出す。
「知りたいって言ってるんだからいいの」
「ダメ……ダメ……」
麻揶は空中を指で何度もタッチしている。何かのツールを使っているのだろう。
「大丈夫だよ亞璃栖。僕はもう本当の事を知らなくちゃならないから」
無理に笑顔を作って彼女に向けた。
「零くん……」
彼女の頬には涙が幾筋も流れていた。
「じゃあ……教えてあげるね」
麻揶は足を組んだ。
「最初はね、一人の青年の為だったんだって」
麻揶が親指と中指をスライドさせてパチンと音を鳴らした。空中にウィンドウ……いや映像画面が現れた。
ニュースの映像のようだった。テロップに「人体実験」「人権無視」「横暴権力」など字面の良くない単語が飛び交っていた。レポーターが恰幅の良い背広の男性に、何十ものマイクやレコーダーを突き出して大声を張り上げていた。背広の襟に金色のバッチが輝いていた。
「当時の厚生労働大臣よ。もう日本中、いえ、世界にまで飛び火するほどの大スキャンダル。大臣の孫の脳に、研究中の機械を埋め込んじゃったんだもの、それはもう、凄い騒ぎだったわ」
僕はニュース映像から目が離せなかった。
「大臣の孫が大事件に巻き込まれて、意識不明の重体。もう助からないと言われたんだけど、命だけは取り留めた……身体のほぼ全ての機能と引き替えに」
彼女の言葉に合わせるように映像が切り替わった。
ビニールとチューブと機械とシーツでよくわからなかったが、身体でまともな場所が残っているようには見えなかった。
「でもね、凄いのはここから。彼は元々天才と言われるほどのプログラマーだったの。彼に残された唯一の器官である右目だけでパソコンを操作して、彼は自分の意志を祖父に伝えたの」
祖父……大臣か。
「脳とコンピューターを直接つなげて欲しいってね」
画面は包帯の隙間からのぞく右目の視線操作で会話する映像も流れた。それはホームビデオの映像のようだった。
「彼の祖父、大臣はもうありとあらゆる手段を尽くしたの。大臣の息子、つまり青年の父親も政治家だったから無理を通せたのね。でも何より本人の強い意志があったからそれは実現した」
僕は息を呑む。
「一度法整備されてしまえば、あとは進むだけ。彼の脳にはさまざまな機械が埋め込まれ、何千人の技術者たちの努力によって、彼はヴァーチャルの入口に立ったわ」
麻揶の言葉に魔力が込められているように聞き入ってしまう。
「初めのグラフィックは、もう棒人間みたいに酷かったらしいけど、確かに、彼が頭の中で思い浮かべたとおりの動きをトレースしたのよ。それがレベル3」
映像が切り替わる。
ミイラの青年の前に置かれたモニタの中で踊る棒人間。青年はそれを見て残った右目から涙を流していた。彼の頭には沢山のコードが刺さっているように見えた。
「さらに脳に直接映像を送る研究。喋ろうとした言葉を抜き出す研究が進んで、彼はとうとう本当のヴァーチャル世界に入ることになったの。まだ五感のフィードバックは視覚だけだったけど大きな前進だった。音はスピーカーから直接聞いたのね。これがレベル4」
映像がまた変わる。棒人間よりは遙かにマシになったカクカクした人間がイスに座っていた。
『こんにちは。私は皆様のおかげで、この仮想世界で生きられるようになりました。本当にありがとうございます』
ポリゴンのカクカクした人間が頭を下げた。
『私はこの世界で仕事を再開しようと思います。パソコンの中にパソコンを作ってもらいました』
彼がイスを半回転させると、白いシンプルなパソコンが浮いていた。彼は滑らかなブラインドタッチでそのパソコンにプログラムらしきものを打ち込んでいく。
『肉体はもうほとんど動きませんが、私はこの仮想世界の中で生きています。私は幸せです』
作りの荒いポリゴンの顔が笑ったような気がした。
「そのニュースが流れてから、世論は一変したの。特に難病指定とかの意識ははっきりあるのに身体が動かなくなってしまった人たちなんかの親族が陳情団を作って国に家族を救ってくれと訴えてきたの」
ニュースはプラカードを持った人々を映し出す。
「年に百人程度の人間が手術を受けられるようになったわ。もともとの病気が重くて死亡率も高かったんだけど、それは本人たちはむしろ喜んでいたと思うわ。ただ生かされるために生きるより、仮想世界の住人になるか、家族のため自分のために死ねるか」
僕にはその辛さの一端すら想像出来ない。
「自殺じゃない。手術の許可が下りた人たちはみんな泣いて喜んだわ。これらの人がレベル5かレベル6ね。五感のフィードバックも可能になって、わずかだけど物を触る感触とかも得られるようになった。彼ら、彼女らの献身的な協力のおかげで大量のデータが集まって、現在主流のレベル7が完成。これは日本以外の国でも使われ始めた極めて完成度の高いものよ」
脳に直接機械を繋ぐ、それが受け入れられている……。
「そして始まった老人介護としての活用。つまり金持ちの老人に大金払わせてレベル7の手術を行う。これが今の私たちがいる世界」
僕はただ、彼女の話を聞くためだけの人形と化していた。
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