第21話


 ぼんやりとした輪郭が次第にはっきりとしてきた。


「つまらなかった?」


 現実の彼女は優しく言った。映画館の証明がゆっくりと明るさを増していく。


「得意な内容じゃ……なかったみたい」


 僕は目を細めたままイスに張り付いた身体を引き離す。急に重力が戻ってきたみたいだった。


「何か飲みたい」


 なんだか酷く喉が渇いているようだったので僕は無意識につぶやいていた。


「じゃあフードコートに行こうか」


 レストラン街とは別にファーストフードやラーメンなどのカウンターだけの店が並フードコートへ移動した。

 共同の広い空間に白いイスとテーブルが並べられている。僕がアイスコーヒー、亞璃栖がフルーツパフェを持って端のテーブルに着いた。


 人はまばらだった。もう結構遅い時間だろう。24時間営業のこのビルでまだ楽しんでいる大半の人間は若いカップルだった。僕たちもその中に含まれるのだろうか?

 ちびちびと冷たいコーヒーを飲み始める。


「ねえ、もしかして暗いところに行くと眠くなるタイプなのかな?」


 柄の長いスプーンでクリームを美味しそうに口に運ぶ。


「どうだろう? 少し考え事をしてたからかも」


 コーヒーをもう一口。


「ねえ亞璃栖さん、これってデートなんだよね?」


 思い切って聞いてみたが、口に出してから、かなり間の抜けたことを聞いたと後悔する。


「僕はそのつもりなんだけどさ。そろそろ呼び捨てにしてほしいなあ。零くん」


 少しだけ上目遣いの彼女。まったくもってあらがいがたい。


「そんな急に呼べないよ」

「ええ? 呼んでよ」

「そんな……だって」

「可愛いなぁ、零くんは」


 体を冷やすために氷ごと口に入れていたアイスコーヒーをぶちまけるところだった。


「か……かわ……!」


 言葉が続かない。


「はやくー」


 彼女はクスクスと僕を指差す。

 男は度胸。……なの?


「え……その……亞璃栖……」


 意識しすぎて顔が熱い。今なら鉄だって溶かせる。


「はーい。呼びましたか? 零くん」


 にっこりと微笑む。


「亞璃栖さ……は君付けなの?」

「零くんは零くんだもの」


 僕は何も言い返せなかった。


「何か話したいことがあるんじゃない?」


 彼女の笑みに変化はない。

 話したいことはある。しかし言葉にまとまらない上に切り出し方もわからなかった。

 何も考えずに……話し始める事が重要かもしれない。


「亞璃栖に言ったよね? 全てが知りたいって」


 僕は知る決心をした。だから真実に近づこうとした。彼女がクスクスと笑う。


「本当に知りたい?」


 彼女の問いに、僕はシネマで見た夢を思い出す。あれは僕の作り出した彼女の影。でもそこで気付いた違和感の正体は真実だろう。

 リアルの彼女は知っている。僕の本当の過去を。


「君はそれで何か困ってる?」


 夢の彼女の言葉と同じだった。

 怖い。

 真実を知ることが、夢の一言で途方もないほど恐ろしくなってしまった。しかしそれは僕の中にある、楽をして逃げたい気持ちの形なのだ。このまま嘘の世界に浸るのも悪くはない。


 その瞬間、蒼流の顔が脳裏にフラッシュのように浮かんですぐに消えた。

 そうだ。彼のためにも僕は知りたい。いや、知らなければならない!


「亞璃栖。そろそろ本当に教えて欲しい」


 静かに、力強く言った。

 彼女は再びクスと笑う。


「じゃあ場所を変えようか」


 僕はトレーにコップを乗せ、返却口に下げて、彼女とエレベーターに乗り込む。僕の左腕に彼女は両腕を絡めて寄り添ってきた。僕は無言で階表示が変わるのを見つめていた。


 ◆


 彼女に引かれるままに歩く。どちらも無言ではあったけれど、彼女は楽し気であった。時々鼻歌のような音も聞こえてくる。朝に待ち合わせた広場を抜けて駅の入口をくぐる。エスカレーターを昇ってそのまま連絡通路を通り抜け、再びエスカレーターを下る。

 駅の反対側は雰囲気がガラリと変わり、色取り取りのネオンが猥雑わいざつに配置されていた。


 ここは夢で見た街?

 いや、夢のネオンの街は、なんていうか、もっと疲れていた。確信はないが違う気がする。


「凄い所で遭遇ッス!」


 急に後ろから声を掛けられた。


「佑くん?」


 いつ現れたのか、少し後方に佑とその腕にぶら下がるようにしがみついた麻揶がいた。


「にひひ……今から突撃ですかね? 亞璃栖くん」


 麻揶が含むように言った。


「夕べはお楽しみでしたッス?」


 佑の言葉の意味はよくわからなかったが、麻揶と同じ意味でからかっているのはなんとなく分かる。僕は慌てて否定しようとしたが、先に亞璃栖が喋りだした。


「そのつもりだよ。麻揶ちゃんは?」


 彼女の口からさらりと出たその言葉に僕の心臓はきっかり三秒、確実に止まった。


「私たちは今から海ですよん」


 麻揶がほくそ笑んで答えた。


「暗いから気をつけてね」


 亞璃栖が小さく手を振る。


「頑張るッス!」


 佑が僕の肩に一撃入れる。もしかしたら軽く叩いたつもりなのかもしれない。


「ばいばーい」


 麻揶も手を振り返した。


「行こうか」


 亞璃栖の言葉に僕は金魚のように酸素を求めて口をパクパクと開け閉めすることしか出来なかった。

 亞璃栖は躊躇ちゆうちよ無く目の前のホテルに僕を引っ張り入れる。


 頭が回らない。

 ここは?


 認識するよりも早く、亞璃栖が無人のフロントで手際よく空室のボタンを押して、302と刻印されたカードキーをつまみ、正面のエレベーターに乗り込んで3階のボタンを押した。

 僕はまったく追いつかない思考のままリードで引かれた犬のように、ただ彼女についていくしかなかった。何度も言葉を発しようとしたが、ただ喉の奥が小さく鳴る音っただけだった。

 302号室に連れられて足を踏み入れる。背中でドアが閉まった。


「さあ零くん。全てが知りたいんだったよね?」


 彼女はしっかりした足取りで数歩進み、部屋に入る。正面には巨大なベッド。まるでそれ以外の存在を許さぬような自己主張をしていた。実際僕にはそれ以外の家具類はまるで目に入っていない。


 それに腰を掛けた彼女は僕を真っ直ぐに見る。

 僕も一歩。また一歩と踏み込んでいく。一瞬で錆び付いた脳みそのモーターに無理矢理過電流を流し込んで強引に回す。がたがたとつっかかりながらなんとか動き出した頭がやっと理解し始める。


 このホテルがどんな目的でどのように使われるホテルなのか、僕にはきちんとした知識があった。もっとも使ったという記憶は欠片もない。少なくとも現時点で思い出せそうも無かった。

 いつの間にか彼女の前に立っていた。

 彼女はゆっくりと両腕を広げた。


「教えてあげる」


 僕はゆっくりと彼女に吸い込まれていった。


「う……」


 彼女の胸に額が沈む。


「うう……」


 彼女の両手が背中に優しく回る。


「うあ……うわあああああああ!!」


 僕は力の限り大声を上げて飛び退いた。


「違う! 違う! 違う! 違う!」


 頭を激しく振った。


「亞璃栖! もうからかうのはやめてくれよ! 誤魔化すのはいい加減終わりにしてくれ!」


 僕は両手を握りしめて怒鳴った。口惜しくて床を睨み付ける。シックな絨毯の毛の一本までもが気に障る。


「もう僕だけの問題じゃない! 蒼流くんの事を僕は知らなくちゃならないから!」


 蒼流は、仲間だ。

 このまま僕が蒼流の事を忘れてしまえば、きっと残った六人で、僕だけが一生仲間になれない。僕は七人全員と仲間になる。どんな事実があっても必ず!


「ごめんね。からかってるつもりはなかったんだ」


 彼女の表情が悲しげな物へと変化していた。


「……必要な……事だったんだ」


 ぽつりと言った。

 こんなことが必要だったというのか? 彼女は!


 ……別の意味がある?

 僕には手が出せないと高をくくっていた?

 どれもしっくり来ない気がする。


「なら本当の事を教えて欲しい。僕はなぜ嘘の中に放り込まれてしまったのか」


 感情を一度爆発させたせいか、急に落ち着いてきた。無言のまま彼女の言葉を待つ。


「そうなんだ……もう君と、前のあなたが別人だって事には気付いていたんだね」


 僕は頷く。


「他に気付いたことはあるの?」


 彼女は泣きそうな表情だった。なんでそんな顔をするんだよ。


「これはなんとなくなんだけど」


 彼女に質問されたことで急に思いついたことがあった。


「ここにいる人たち、雷弩も佑くんも美樹さんも麻揶さんも……蒼流くんも……そして君も」


 僕と彼女の視線が絡む。


「今の僕と同じ。みんな偽物のような気がする……何の確証もないんだけどね」


 口に出してみて、ああそうか、そう考えるとしっくりくるんだ、と、僕を見下ろしている別の僕が納得していた。


「やっぱり凄いんだね、零くんって」


 彼女の口元に少しだけ笑みが戻る。


「全部……喋っちゃいたいな」


 彼女は後ろのベッドに倒れ込み天井を見上げた。


「教えてよ」


 僕は動かなかった。

 彼女は目を閉じる。

 また沈黙。

 彼女が今何を考えているのかは想像も出来ない。でもきっと、真実はろくでもない。この沈黙が物語っていた。

 亞璃栖はゆっくりと両腕を広げて、ベッドの上で大の字になる。


「私に思い出をくれるなら……教えてあげる」


 彼女は困ったような、それでいて泣きそうな笑顔で僕を見つめる。

 長い時間そのまま止まっていたが、僕は一歩踏み出した。

 きっと後悔すると思いながら。


 ◆


 ホテルの外に出ると、もう世界は明るくなっていた。


「急いで寮に戻って仮眠しよう。2時間くらいは寝れるよ」

「うん」


 彼女は腕を組んで来なかった。代わりに指先でつまむように手をつないでいた。その柔らかい手を、今度は僕が引いて歩いた。

 引っ張られるより、引く方がいい。

 僕はそう思った。

 足早に寮に戻って、すぐに眠りについた。

 そのまま夢も見ず泥のように。





 ——とはいかなかった。


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