第四章

第15話


■■■■■ 第四章 ■■■■■


 夢を見た。

 その日の夢はほんの少しだけ憶えていた。

 暗い場所だったと思う。

 ネオン。

 街。

 たぶん夜だ。

 僕は疲れている。夢の中でとても疲れていた。

 それだけは確かだった。

 他のことは曖昧だ。

 ネオン街。

 そして強烈な白い光で、意識は覚醒する。


 夏特有の強い光線が、カーテンの隙間から僕の顔を直撃していた。

 細い光の道は狙ったかのように僕のまぶたの上を走っていた。一気に目が覚める。

 夢はそれだけを憶えていた。

 ここ数日見たと思っていた夢も同じだろうか?


 この間見た幻覚か白昼夢。やはりネオンの街だった気がする。僕の沈んだ記憶と関係があるのだろうか?

 でも、なぜか記憶を取り戻す事にそんなに焦りを感じていない。僕たちの立ち位置を知りたいという思いと、知りたくないという思いが交差しているからだろ。


 気分はスッキリしている。

 寝れば体調が全快するタイプらしい。さすがに体質は記憶喪失だろうと変わっていないと思うので、きっと昔から寝起きが良かったのだろう。

 自分の事が一つ分かって、何となく嬉しかった。安い人間だと自分でも思う。

 着替えを済ませて食堂に降りていく。テーブルには雷弩と佑が二人で向かい合わせに座っていた。二人は無言だった。まだ眠いのかもしれない。


「おはよう」

「ういす」

「おはようッス」


 今日も適当なあいさつが返ってくるが、どことなく覇気が無い。


「んじゃ行くか」


 二人がのっそりと立ち上がる。


「え? 蒼流くんは?」


 先に行ったのだろうか?


「蒼流は……今日は休みッス」

「なんで? 風邪?」


 沸き上がる。

 何か凄く嫌な予感がした。

 得体の知れない何か、不安で重いような。ねばつく黒いシミのような、とにかくそれは絶対的な予感だった。いや、確信だったのかもしれない。


「……」


 雷弩は口をつぐんだままだ。佑も視線を横に逸らした。


「僕ちょっと見てくる」

「待て! 待てよ!」


 背後で何か言っていたが、僕はとっくに走り出していた。

 311号室。

 二日前に入ったばかりの部屋だ。

 雷弩が僕を追ってきしむ階段を駆け上がってくる。

 わざわざ各部屋にカードキーをつけるくらいだから、もちろん開くわけがない。

 だが僕はドアノブをひねった。


 それは何の抵抗もなく回った。

 背筋に雷のような冷たい衝撃が走る。

 扉を押す。

 一歩入れば十分だった。


 無。


 壁中に張られていたポスターも、本棚に置かれたゲーム機も、机の上にあった液晶テレビも。

 初めからここには誰も住んでいないような空の部屋だった。全てが消え去っていた。


「なんだよ……これ」


 一歩奥に。


「なんで?」


 また一歩。


「昨夜……ちゃんとおやすみって言ったんだよ?」


 さらに一歩。

 部屋をぐるりと見渡す。すべてが備え付けのデフォルト状態だった。何も、何一つ無かった。

 入口に雷弩が立っていた。


「行こうぜ、学校」


 壁に寄りかかって彼が言った。


「ねえ雷弩……僕の記憶おかしくなってる? 確か昨日まで、昨日の夜までここは蒼流くんの部屋だったと思うんだけど、何かまた記憶が消えちゃってるのかな?」


 今の僕はどんな顔をしているだろう?


「ああ。昨夜まで蒼流の部屋だった。零の記憶は何一つ間違っちゃいねーよ」


 腕を組んで無表情に答える。


「何か……とっても変な感じなんだ、とても、大切な物がなくなってしまったような」


 視界が定まらない。目が回る。前にも似たようなことがあった気がする。


「焦るなよ。記憶はいつか戻る……」

「誤魔化さないで!」


 僕は目をつむったまま大声を上げた。


「雷弩! 蒼流くんはどこ?」


 目を見開いて雷弩を睨んだ。雷弩は答えない。


「雷弩! 何か言ってよ! 言えよ!!」


 彼のシャツを掴み上げる。


「学校に行けば、先生が教えてくれると思うッス」


 声は横から聞こえた。


「佑くん……」


 みんなが知っている。知っているのだ。

 僕は掴んでいたシャツを離して歩き出す。気がついたら走っていた。


 何も見えていなかったが、学校に向かっているのだけは確かだった。どこかで黒い髪の少女の声を聞いた気がする。

 ぐるぐると回る意識の中、僕はただひたすらに走った。

 邪魔な物と人だらけの廊下をつまずきながら走った。すでに根岸教諭が出席を取っていた。


「先生! 蒼流は! 蒼流くんはどうなったんですか!」


 思わず教諭の胸ぐらを掴みそうになったが、それはかろうじて耐えた。自分は焦っている。はっきりと自覚していた。


「加納か」


 一瞬誰の名前かわからなかった。教諭の視線で自分の名前であることを思い出した。


「蒼流くん……毛利蒼流がいなんです! なぜなんですか!」


 僕の声に、ざわついていた廊下が一瞬で静まりかえる。僕の荒い呼吸だけがこの世界で動いているようだった。

 僕は長い沈黙に耐えながら、教諭の言葉を待った。根岸教諭はため息をつく。


「全員が揃ってから伝えるつもりだったが、まあいいだろう。毛利蒼流は、今日急な転校が決まった。家庭の事情だ」


 クラスメイトたちのため息が聞こえた。廊下に少しずつざわめきが広がる。音と時間がゆっくりと戻ったようだ。


「そんな……転校って」


 嘘だ。間違いなく嘘だ。


「人にはそれぞれの事情があるんだ。詮索するものじゃないよ。もう子供じゃないだろ?」


 有無を言わせぬ強い口調。僕は言いたいこと言うべきことが沢山あるはずなのに、何一つ言葉に出来なかった。


 ◆


 気がついたら、外のテラスに座っていた。ここ数日何度も座っていた場所だった。

 いつのまに天井がなくなったんだろう?

 夏の青い空が僕の頭上に落ちていた。


 ゆっくりと意識が戻ってくる。まだ霞に隠れたような薄い意識だったが、ぼんやりと自分を認識できるようになってきた。

 時計を見上げる。そんなに時間は経っていなかった。改めて深くイスに座り直した。


 考えなくてはいけないのに、まったく動かない脳みそを取り出して海に放り投げてやりたくなった。

 大きく息を吸う。

 とにかく、思考を回さなければいけない。肺に取り込んだ酸素を血管に乗せて、脳にひたすら送り込んだ。

 時々感じていたあの違和感。あの違和感と今回の蒼流の消失が、どこかで繋がっている気がしてならない。


 転校?

 そんな馬鹿な! 違う! それこそ巨大な違和感じゃないか!

 ……だめだ。思考がまとまらない。

 記憶と一緒にとても大事な物を忘れてしまっているんじゃないだろうか?


 急に不安になる。

 思考が空回りする。

 確かに違和感は存在するのに、それがなにか見当もつかない。とても大切なことのはずなのに。


 今だって黒ぶちメガネを指で押し上げながら「なにをしてるんだ?」って蒼流が声を掛けてきそうな気がするのに、周りを見渡しても、あの切れ味のある青年はどこにもいない。


 ことん。

 目の前に缶が置かれた。

 炭酸飲料の缶だった。


 しなやかな指、手首、半袖の白いシャツ、少し筋のある首、絶妙に鋭角な顎、スッと立った頬、深い宇宙を携えた黒い瞳、腰まで伸びる長いテールを揺らして少女が立っていた。


「落ち着いた?」


 正面に彼女が座る。すぐに返事は出来なかった。彼女は別に持っていた缶のプルタブを開けた。ミルクティーのようだった。

 僕は目の前に置かれた水色の爽やかなイラストの缶の表面に、結露で水滴が浮かぶ様子を、ただひたすらに見続けた。

 たぶん何も考えていなかった。いや、考えられなかった。

 考えなければいけないのに。


 どれだけの時間が経ったのか分からなかったが、いつの間にか僕は言葉を発し始めた。


「何か……」


 心の中で考えることを諦めた瞬間、僕の口は勝手に話し始めた。


「何か、ずっと変だと思っていたんだ」


 誰かに聞かせるために話しているのではない。少なくとも亞璃栖に話しかけている実感はなかった。たぶん目の前のフタも開いていない缶ジュースに話しかけているのだろう。


「初めは記憶喪失のせいだと思っていたんだ……でも、何か、もっと、大きな、別の事がわかっていない……」


 缶水滴が徐々に小さな水たまりを作り始める。

 青い空を反射して、缶は空に浮いているようだった。このまま見ていたら湖が出来るだろうか?

 ゆっくりとテーブルに広がっていくブルーの空が急に恐ろしくなって、缶を掴み上げ、プルタブを引き、中身を一気に飲み干した。


 炭酸が激しく喉を刺激する。

 そのまま缶を握りつぶそうとしたが、アルミではなかったらしく、とても堅くて凹ませることすら出来なかった。

 腹立たしさにその缶を思いっきり投げた。遠くで甲高い音がする。

 亞璃栖が静かに立ち上がり、ゆっくりと缶に近づく。それを拾うと近くのゴミ箱へ落としてまた正面に戻ってくる。彼女は音を立てないように静かに座った。


「クソっ!」


 どうしようもなくイラついていた。

 感情のコントロールが出来ない。自分を制御出来ていない。


「亞璃栖さんは知っているんだろ? 蒼流がどこにいったのか!」


 大事なのはそこじゃない。僕の奥底で冷静に自分自身に指摘している。でも本当に聞きたいことが言葉にならない。自分でも何を聞きたいのか理解していなかった。


「前からね……蒼流くん、こうなるかもって……言ってたんだ」


 彼女は視線を少しだけそらせて、テーブルの端を見ていた。


「大丈夫そうだったんだけど、やっぱり駄目だったみたい。蒼流くんが頑張ってもどうしようもない事だったんだよ」


 彼女は顔を上げ、僕を真っ直ぐに見た。

 そのまま見つめ合う。僕は小さく息をついた。


「クラスのみんなは知っていた?」


 僕はやっとそれだけを口にした。彼女は頷いた。

 心の中の違和感も、蒼流が消えたことの絶対的な予感も、どちらも中身がまるで見えない。

 僕はこの向こうの見えない壁を取り払わなければならない。きっと壊せないコンクリートなんかではない。開け方のわからない、手の届かないところにある、真っ白なブラインド。

 こいつを取り払わなければ、僕はこの世界で一人ぼっちになってしまう。


「蒼流くんに、手紙とか出せるのかな?」

「転校先は家庭の事情で教えられないって言ってたよ」


 言っていたのかもしれない。思考停止のような状態だったから、先生があの後何かを言っていても憶えていないのだ。

 僕は目を閉じた。

 周りの喧騒けんそうが心に覆い被さってきた。




「今は考えない方がいいよ。知らない方が良いことだってあるんだから」




 亞璃栖の発した音の波が、鼓膜に届いて、電子に置き換わり、脳へと到達して、言語中枢が言葉に抽出変換し、さらにその言葉の意味を理解するまでに、たっぷりと五分はかかった。




 ◆


 僕は両目を見開いていた。


 そう、まさにその言葉の通り、全てを飲み込んで思考を停止してしまおうと、そう思っていた。

 そういう流れが出来ていた。

 雷弩と佑の態度も、教諭と亞璃栖の言葉も。全てが僕に望んでいたはずだ。その言葉通りに。


 だからこそ。

 今の彼女の言葉の意味に気がついてしまった。

 そのセリフを言う必要はまったくない。むしろ言ってはいけない言葉だ。口にした瞬間、その事実が明確になってしまうから。


 つまり、彼女は今『僕が知らないことがあるよ』と明言したのだ。


 わざわざ。

 ゆっくりと顔を上げる。僕は瞬きすらしていない。

 彼女は唇を固く結び内に秘めた力を瞳に込めて僕を見つめていた。


「本当に知りたいの?」


 瞳にさらに力がこもる。

 僕は立たされてしまった。

 それは岐路だ。分かれ道だ。引き返すことなんて出来ない。二者択一。


 突然すぎた。


 目の前の黒い瞳の少女に選ばされているのだ。

 世界が一気にフェードアウトしていく感覚。しかしその視線は微動だにしていない。

 喉が渇いていた。何か飲みたい。ジュースを残しておけばよかった。


「知りたい……」


 かすれた声を吐き出した。


「どっちを?」


 間髪入れずに質問で返された。

 どっちって、どれとどれ?

 僕は暗闇の中、漆黒の瞳に睨まれ動くことすら出来ない。


「蒼流くんの行き先? 君の失った記憶? それとも……」


 きっと僕は汗をかいている。額にも、背中にも、全身体中から吹き出しているに違いない。

 でも彼女に包まれている事以外の感覚は消え去ってしまっていた。


「あ……う……」

「どっち?」


 彼女は答えを待っている。闇の瞳で。

 僕は選ばなくてはならない。答えなくてはならない。


「そ……それ……それは……」

「それは?」


 違和感。予感。焦り。孤独感。

 その時背後から声をかけられた気がした。

 反射的に振り返って叫んだ。


「蒼流?」


 知らない人が立っていた。通りすがりだ。彼は驚きの表情を浮かべていた。

 そこは青い空の下で明るい太陽がある広いテラスだった。僕はいつから暗闇の中で幻覚をみていたのだろう。

 通りすがりの人に軽く会釈えしやくすると、向こうも軽く会釈して行ってしまった。


「蒼流くんがどこに行ったのか知りたい」


 僕は落ち着いて、ひねった身体を元に戻した。彼女は笑顔を浮かべていた。少しだけ寂し気な。


「そうだね。僕も知りたかったな。蒼流くんがどこに行ったのかさ」


 亞璃栖は数秒間目を閉じてゆっくりと開く。彼女の笑顔にもうかげりは無かった。


「体育館に行こうよ。演劇観る約束だったよね?」


 彼女は立ち上がると、僕の横に来て手を伸ばす。僕はその手を取って頷くしかなかった。


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