第12話


 出口の空間の横にこっそりと作られたスタッフ用通路の出入口に亞璃栖がかがんで潜り込む。

 僕も中に入ろうとしたら、彼女の細く白い太ももが真正面に飛び込んできた。覿面てきめんに狼狽えた。僕の様子に気付いた亞璃栖が慌ててスカートを手で押さえる。


「……見えた?」


 恐る恐るといった風にゆっくりと彼女は肩越しに視線をよこした。僕は激しく首を横に振る。残念ながらスカートラインはギリギリで隠すべきものを隠していた。

 ……何が残念だったんだろう?

 彼女がそのままスカートを手で押さえながら、ゆっくりとバックで下がってくる。


「零くん先行きなさい」


 完全に命令形だった。

 彼女の顔を見ないように素早くスタッフ通路に顔を突っ込んだ。四つん這いで進むと彼女が後ろから小声で話しかけてきた。


「本当は……見た?」

「見てない」


 僕は即答した。


「ふ~ん?」


 予想外の反応に続ける言葉を失った。


「残念?」


 僕はその声に気付かないフリをして手足を素早く動かして這うスピードを上げた。

 迷路のようなスタッフ通路を這い進むと、立ち上がれる空間に出る。白い腕の仕掛け場所で、すでに六人ほどが腕まくりをしてベビーパウダーをまぶしていた。結局黒いシャツは用意できなかった。


「よう」


 男性に声を掛けられる。顔は覚えていたが、まだ名前を聞いていない生徒だった(聞いていて忘れているのかもしれない)


「記憶の方はどうよ? 何か思い出せたか?」


 その人は真っ白になった腕を僕に突き出してみせる。


「まだ何も思い出せないんだ」

「そうか……ま、焦るなよ。今日は楽しもうぜ」


 手のひらをわきわきと動かしていた。なんだか白い腕が気に入ったように見える。


「うん。頑張ろう」


 彼が拳を突き出してきたので、軽く合わせた。

 みんなの足下を避けて奥のスタッフ通路に再び入る。入り組んだ先に圧縮空気の仕掛けの部屋がある。部屋と言っても二人が入れる空間と言うだけの話ではあるが。


「みんな聞こえるか?」


 くぐもった雷弩の声が聞こえた。大量の段ボール壁に遮られて遠くの方で怒鳴っているような感じだ。


「CDをリピート再生してくれ。ボリュームは指示がない限り弄んなよ」


 若干の間のあと教室中に台風の日に窓の外から聞こえるような、強風が建物を叩く音揺らす音、隙間から無理矢理進入してくる気圧の音。そんな人を不安にさせるに十分なBGMがおどろおどろしく流れ出す。

 昨日クラスメイトの一人がどこかから借りてきてくれたのだ。効果は抜群と言えるだろう。黒塗りの段ボールに全ての光は遮られ、かなり良い雰囲気をかもし出していた。

 亞璃栖が遅れてやってくる。


「白い腕の所も楽しそうだね」


 僕は用意していたペンライトでこの狭い空間を照らす。


「うん。亞璃栖さんは見張りを頼むね。僕が空気の方やるから」


 亞璃栖がスタッフ通路から出るのに邪魔にならないように身体をよじって空間を作る。


「よいしょ」


 机の隙間から彼女が這い出してくる。やはり二人が立つとギリギリの空間だった。

 彼女が覗き穴の位置を確認する。僕は足下の空気入れでタンクに空気を送り込んだ。よく分からないがエアガン用の手動の空気タンクらしく、割と高めの空気圧を作れるらしい。


「零くん。一度テストしておこうよ」


 この装置は直接触っていなかったのですぐに頷いた。

 空気入れを上下に動かし、気圧を最大にする。タンクには小さなメーターが付いていて針が赤いゾーンに突入した。あとはコックを思いっきり解放してやれば、チューブを伝わって順路に勢いよく空気が噴射されるはずだ。


 コックをいつでもひねれるようにしゃがみ込む。彼女は覗き穴から順路を見張るために立っているしかない。丁度僕の目の高さにスカートと太もものラインがあって落ち着かない。

 先ほどの危ない一瞬を思い出し、視線を逆に逸らして、出来るだけ意識しないように、意識しないようにと、意識しまくっていた。


 ふと、彼女の手がそっと肩に置かれた。僕の心臓が跳ね上がる。彼女のやわらかい手がさらに二度肩を叩いてきた。フルマラソンでもしたかのように心臓が踊り狂う。


「……零くん?」


 アリスがきょとんとした表情で僕を見下ろしていた。


「え? なに?」


 僕は動揺している自分を悟られないよう、可能な限り冷静に答えた。


「合図だよ?」


 彼女が僕の肩を二度叩く。さっきより強く叩かれた。


「えっ……あっ!」


 反射的に掴んでいたタンクのコックをひねる。バシュウという小気味の良い音を立てて、順路に空気をばらまいた。あっという間にタンクの残圧が0になる。


「……」

「……」


 二人の間に沈黙が、流しそうめんのように無駄に流れた。


「その……ごめんなさい」


 僕は頭を下げた。


「もう一度やろうか?」


 僕は頷いて、空気入れを上下にピストンさせる。気圧ゲージが徐々に上がり、満タンになる。

 何に気を取られていたのか気がつかれてしまっただろうか?

 二度ほど練習をした所で、全体放送が流れてきた。


「おはようございます。本日より二日間、風樹学園の学園祭を行います。皆様本日はお楽しみください」


 わあと、そこら中から歓声が聞こえた。


「みんなーがんばっぞー!」


 雷弩の声だ。


「おー!」


 僕と亞璃栖、それに見えないクラスメイトたちとハモった。


「もう最初のペアが待ってるんで入れるぞ! よろしく頼むぜ!」


 今度は短く「おう!」と返して、空気圧を確認する。問題なし。作業用のペン型LEDライトを消す。周りが一気に闇に沈む。

 作り物の暴風音が暗幕と黒塗り段ボールで作られた人工的なこの世ならざる世界を包む。

 肩に置かれた手。神経を集中して合図を待つ。亞璃栖も覗き穴に集中していた。唾を飲み込む音も聞き取れそうだった。


「きゃああああ!?」

「うわっ! うおっ! びっくりしたびっくりした!」


 男女の叫び声が同時に上がる。その声の大きさに僕は跳ね上がりそうになった。亞璃栖の身体も大きく一度揺れた。

 顔を上げると彼女も見下ろしてきた。困ったような笑顔を浮かべていた。僕も同じような表情をしていたに違いない。

 驚かす方がビビってどうする。


 気を取り直して空気タンクのコックを掴む。彼女も覗き穴に再び集中した。

 今の悲鳴は間違いなく白い手の場所だろうから、この場所まで来るのはすぐだ。


「やだもー! 帰ろうよ!」


 段ボールを挟んだ順路から女性の声が聞こえた。驚いてもらうのは本望だけれど、いきなり帰ろうってのは……。


「すぐに出口だって。狭いんだから」


 今度は男の声だ。堂々とカップルで一番乗りとは凄い。

 一瞬亞璃栖を意識してしまう。彼女はタイミングを見計らうのに真剣だった。

 二度肩を叩かれる。

 思いっきりコックをひねった。圧縮された空気が、娑婆しやばに開放され歓喜の悲鳴を上げるような音を立る。


「ひゃあああ!」

「うわあ!」


 男女の叫び声が上がった。


「もうやだあ! なにこれえ! マジで怖いー!」


 泣きそうな女の声。

 肩が揺さぶられた。見上げると亞璃栖が覗き穴を指さしている。見ろと言うことだろう。

 僕は音を立てないように注意して立ち上がり、覗き穴からお客様の様子をうかがった。白いシャツの男女のペアだった。もちろん同じ学校の制服である。女の子が男の腕に、ユーカリにしがみつくコアラよろしく、しっかりとへばり付いていた。

 僕は穴から顔を離す。


「大・成・功!」


 目一杯笑顔の彼女が、リンゴ一つ分くらい先にあった。


「ぎゃーーーー!」

「きゃーーーー!」


 同時に二人の悲鳴が上がる。あれだけ怖がってたら、落とし穴はさぞ楽しめたことだろう。


「お疲れ様でした。またのお越しをお待ちしております」


 僕の一言に亞璃栖が小さく吹き出した。僕も釣られて笑ってしまった。

 この距離がとても幸せな距離だと気付いたのは、かなり後になってからの事だった。


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