第8話
「また君か」
両肘を机につき、絡んだ両指の向こう側に『不機嫌』とでっかい看板を背負った生徒会長の鋭い眼光が、メガネのレンズ越しに見えた。
やたら立派で重量感のある木製の机で、普通なら座っている人間が迫力負けしてしまいうだろうが、生徒会長の為にあつらえたかのような威圧感を演出していた。
寮の個室には分解しても入りきりそうもない。
「何度も来たところで暗幕は降って沸くことも無ければ、いきなり返却されることもない。そもそも君には初めの申請分よりずいぶんと融通を利かせたつもりだが?」
僕たちの知らないところで雷弩はずいぶんと動き回っていたらしい。
その雷弩を睨み付ける生徒会長の瞳の中にはっきり『今すぐ180度振り返ってこの部屋から出て行け!』と映し出されていた。
「ああ。暗幕はもういいんだ。なんとかしたんで。それよりエアマット貸してくれよ。頼まぁ」
雷弩の顔は笑顔なのに脅しているようにしか見えない。
背筋が痛くなるような緊張感を伴っていた。
「ない」
一言で切り捨てられた。
僕はどうしていいか分からず、雷弩に視線を投げた。
雷弩は微動だにせず笑顔のまま生徒会長を睨んでいた。睨むという表現しか適切な言い方が無いのに、彼は確かに笑顔だった。
生徒会長も微動だにしない。
亞璃栖も不安げに二人を交互に観察していた。口を挟みたくても圧力が強くて言葉にならないのだろう。よくわかるよ亞璃栖。
僕もこの緊張感には長く耐えられそうも無かった。
どうやってこの状態を脱しようと考え始めたとき、生徒会長が首を振り、深いため息をついた。
「エアマットは演劇部が使っている。申請があったのは演劇部だけだったからね」
視線を上げ、雷弩を睨め上げる。
「君たちが直接演劇部と交渉する分にはまったくかまわない。向こうが良いと言えば君たちが使えばよい。その場合は私たちに連絡をすること」
生徒会長は立ち上がってホワイトボードの前にいく。別の生徒役員が書き込んでる数字を書き直していた。
雷弩は大きな動作で踵を鳴らし、手を額に当てた。
「ありがとうございます! 閣下殿!」
軍式がこの学校の正式なあいさつ……じゃないよね?
無意味な心配をよそに生徒会長は大きなため息をついた。
「エアマットを使わなければならない演劇なんてものもごめんだが……」
油性のマジックを置いて、僕たちに身体を向ける。
「エアマットを使わなければならないお化け屋敷なんてものはもっとごめんだ。想像したくもない。その辺の事を理解して欲しいね」
彼の視線はライフルのスコープのようで、急所を常にターゲットされているような気分になる。
もうここにいる理由はなくなったのだから、僕は一礼して急いで廊下に出る。
亞璃栖も慌てて出てきた。
雷弩だけが「どもー」とか明るく言ってから鼻歌交じりに廊下に戻って来た。
「見ているだけで寿命が縮んでいくかと思ったよ」
僕は安堵の息とともに吐き出した。
「僕もだよ、心臓に悪いよ、あのやりとりはさ」
亞璃栖も何度も頷いた。
「あれはあれで楽しんでるだぜ? わかんね?」
あまり良く分からなかった。しかしそれを聞いても何も得るものは無さそうだったのでそのまま黙った。
「雷弩って会長と知り合いだったっけ?」
「んにゃ。でも机とか暗幕とかガムテープとかの件で何度も顔合わせたんで仲良くなったんだ。まっ。以心伝心?」
「僕、雷弩のそういう所が凄くうらやましくなる時があるよ」
亞璃栖が半目で雷弩を見た。僕も雷弩を呆れ顔で見る以外には無かった。
「惚れた?」
「お馬鹿」
その時、亞璃栖が雷弩の事を呼び捨てにしているのに気付いてしまった。途端に二人のやり取りが今までと違って見えてしまう。
そしてそう見えてしまう自分を嫌悪した。
話が進んでいたのか、雷弩と亞璃栖が同時に声を揃えて笑った。
僕は記憶が戻らなくても良いんじゃないかと考えてしまっていた。
◆
歩いている間、二人の会話の内容はまったく頭に入ってこなかった。
二人が笑い声を上げたときだけ、僕も顔の形を笑顔の形へ変えた。
自分でもその間に何を思考していたのか分からなかったが、少なくとも意味のあることは一つも考えていなかった。だから体育館の前にはワープしてきたのかと思ってしまった。
巨大な建物がいきなり目の前にそびえ立っていて、度肝を抜かれかけた。
重厚な作りの体育館で、小型のコンサートホールと言っても通じそうな洒落た造りをしていた。
その入口で一人の男子生徒が暇そうに座り込んでいた。大きなガラスの向こうはロビーになっているようだ。とても学校の体育館とは思えない。
ロビーの中にまた別の大きな観音開きの入口が見える。あの中が体育館のようだった。
その生徒が近づいてくる僕たちに気付いて立ち上がる。
「えっと……あの、なんでしょうか? 体育館は立ち入り禁止なんですが……」
手足の線が細くてまるで骨と皮だけで出来ているよな頼りない体格の男子だった。突風が吹いたらそのまま飛んで行ってしまうに違いない。
「部長どこよ? 話があるんだけどよ」
雷弩は枯れ枝のような男子を押しのけてどんどん奥に行ってしまう。
「ああ! ダメですよ! もうゲネプロが始まってますから!」
「ゲネ……なに??」
雷弩はこの貧弱な門番にではなく、僕に顔を向けた。
もしかしたら彼が細すぎて気付いていないのかもしれない。僕は無言で首を横に振る。
「たしか……通し稽古の事じゃなかったかなあ?」
自信なさげに亞璃栖が首をかしげた。
だが答えを聞いたところで、雷弩の行動は変化しなかった。
「だから! 駄目なんですってばあ!」
全く頼りにならないスケルトンのような男が雷弩にまとわりつくが、鬱陶しいハエを払うような仕草で追い払われるだけだった。
彼はいったい何のためにここにいるのだろう?
ロビーを突っ切り重厚な扉をくぐり抜けると、中はかなり暗かった。
体育館にはパイプイスが整然と並べられ、舞台上ではすでに稽古は始まっているようだ。
凛とした女性の声が広い空間の隅々にまで響き渡った。
「私が貴方と闘うことは運命なのですよ! たとえ千里の道を逃げようと、万の荒波を越えた地に行こうとも、私と貴方は必ず対決する! 必ずだ!」
舞台の上では、二人の男女が向かい合っていた。
男は古い時代の貴族風の洋服で、女性は騎士のようだった。朗々と語っていた女性が細身の抜き身の剣を、男性へ真っ直ぐに向けている。
二人はその姿勢を維持する。男性は無表情で、女性は憎悪の表情が見て取れた。
二人の息の詰まる沈黙のあと、女性は突き出していた剣を納め、踵を返して無言のまま立ち去った。
残された男性はその後ろ姿をそのまま見つめていたが、やはり同じように振り向き、逆方向へと消えてしまった。
僕はそこで舞台に釘付けになっていることに気がついた。
慌てて周りを見る。すぐ横で亞璃栖も舞台を凝視していた。口がちょっとだけ開いていたのがチャーミングだった。
さらにその横でひ弱な門番も口をあんぐりと開け舞台を見ていた。間抜けな顔だった。
舞台には一度幕が引かれた。区切りの場面だったのかもしれない。
幕の前、舞台の端にスポットライト。
女性が浮き上がる。何かを語るのだろう。
女性が息を吸うのが分かった。そして言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間別の場所から別の声がした。
「ストップ! ちょっとまて!」
男の声だった。
観客席の中央、パイプイスに座っていた。そしていつの間にか、その横に雷弩が立っていた。
「時計止めて! すぐすむから!」
僕と亞璃栖が顔を見合わせる。彼女は少し赤面した。二人で雷弩の横に足早で近づいた。
「いやー。わりぃね、忙しかった?」
雷弩が笑いながら後頭部を?く。
「猛烈に。立ち入り禁止って言われなかったか?」
不機嫌であることを隠そうともせず、むしろその眼力で雷弩を殺害しようとしているようだった。
もし睨まれているのが僕だったら、裸足で逃げ出しているだろう。
例の哀れな門番は入口の手前まで下がっていた。
ここからでも激しく震えているのが分かる。彼は普段どんな立場なのか非常に気になった。
「いやー。エアマットをここで使ってるって聞いてよ、俺たちも使いたいんだわ。くれよ。って頼みに来たわけだ」
おそらくこの演劇部の部長だろう男性は、つばの長い帽子に縛った髪を後に真っ直ぐに落としていた。完全な金髪だ。
そしてなぜか黄色のサングラスをして、台本を丸めて片手に握っている。目つきが鋭くその下に張り付いているどす黒いクマが彼の迫力を数倍に跳ね上げていた。
「私の勘違いでなければ、エアマットはしっかりと使用申請を通って使っている筈だが?」
彼は立ち上がり、雷弩に顔を近づける。雷弩より背が高かった、顔を覆い被せるように並ぶ。
枝豆一つ分も鼻先が離れていない。
妙に迫力のある笑みを浮かべる部長と、余裕の笑みを浮かべる雷弩。圧力は互角だった。二人とも視線を絡め合ったまま微動だにしない。
さきほどの生徒会室でのやり取りを思い出す。
その時気付いた。
「これは……罠だ」
僕は小声で亞璃栖に耳打ちした。
「え? どういうこと?」
同じく小声で耳元に返してくる。僕と彼女の身長はほとんど同じなので最小限の動きですむ。
「どうみても譲ってくれるタイプじゃないよ。仮にマットを使って無くてもね」
不敵な笑顔の雷弩を見る。
「でも、こっちもそう簡単に引くような性格じゃないし……」
亞璃栖が息を呑む。沈黙。その長さが生徒会長の切れ味を証明していた。
「
部長が突然大声を出して、ステージに視線を移した。ステージに立っていた女子が慌てて暗幕の中を覗く。
「で、出来てます!」
声が少し上擦っていた。枝流野というのが彼女の名前なのだろう。
「おい……」
雷弩の顔から笑みが消える。
その瞬間脳裏に、諸葛孔明の姿をした生徒会長が、雷弩と部長の争いを高見から見下ろしている映像が浮かんだ。
間違いない。これは孔明の罠だ。
「次のシーンの頭だけやってくれ! ここのお客さんたちに見せる!」
「無視すんじゃねぇよ」
凄みのある低音が雷弩から漏れてきた。言葉として発しているとは思えない質量だった。
「いいから、見ていろ」
帽子の部長が僕たちにも座れと手で示した。
無視されている訳ではなさそうだった。雷弩が怪訝な顔を僕に向ける。僕は激しく首を横に振った。僕だってこの部長の意図が欠片も読めない。
雷弩の視線が亞璃栖に移った。釣られて僕も彼女を見る。気付いた彼女は一瞬遅れて激しく首を振った。
そんな無言のやりとりの間に幕が引かれステージが露わになる。
「よく見ていろ」
部長が顎でステージを示した。僕たち三人は顔を見合わせ、とりあえず進められたイスに座った。
舞台は城のようだった。先ほどの女騎士が城に向かって細身の剣を向けた。
「残るは敵の本丸のみ! 一気に畳みかけろ!」
おおーっ!
その背後から多数の兵士たちが現れる。みな本格的な鎧を着込み、何人かはハシゴを担いでいた。
「恐れるな! この一戦に祖国の存亡、我等の誇りの全てが掛かっているぞ!」
再び大きな怒声。ハシゴが二本、城に立てかけられる。兵士たちがそれを一気に登り城に乗り移ろうとした。
その瞬間、城から別の鎧の兵士が飛び出してきた。兵士がハシゴを押し返すと、ゆっくりとハシゴは人を乗せたまま後ろへ傾いていく。
そしてそのまま後ろ向きにハシゴは倒れ込んだ。
僕はギョッとした。
「OK!」
部長が叫んだ。
「みんなシーンの頭から出来るように戻って!」
手に持った丸めた台本を、反対の手に叩き付けながら叫んでいた。ステージの全員が誰も質問一つせずにきびきびと動く。たいした統率力だった。
部長が雷弩に振り向く。
「エアマットは使ってるんだ。お引き取り願おうか」
「ぐっ……」
雷弩が唸る。あれを見せられては、貸してくれとはとても言えない。この部長もかなり切れるようだった。
「ちょっといいですか?」
返事を待たずにステージに飛び乗った。さっき兵士たちが倒れ落ちた、草や瓦礫のセットで見えなかった場所を覗き込んだ。
「やっぱり……」
僕は自分の間抜けさを恥じた。
「困るね。勝手をされては」
部長に思いっきり睨まれた。悲鳴を上げそうになるのを堪えて、出来るだけ平静に答えた。
「練習の邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。僕たちは帰ります。演劇頑張ってください。……行こう雷弩」
部長に一礼して、雷弩の身体を押した。
「おい零……」
「いいから」
腕を掴んで強引に引っ張る。亞璃栖も慌てて一礼してついてきた。
枯れ枝の門番を横切って扉をくぐった。
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