第6話


 机の上に乗って段ボールをガムテープで留めていたら、美樹が声をかけてきた。


「お昼食べてくるね」


 僕は頷いて作業に戻り、美樹と麻揶が教室から出て行くのを横目で見送った。


「亞璃栖さんも行ってきなよ」


 僕の乗っている机を押さえていた亞璃栖が顔を上げる。ほぼ垂直に人の顔を見下ろすというのはちょっと不思議な感じだった。


「これが終わったら、一緒に食べに行こうよ」


 彼女が屈託のない笑顔をくれた。


「う、うん、そうしようか」


 僕は慌てて段ボールに視線を戻した。彼女の瞳に引きずり込まれないように。

 待機室の天井を作り終えたタイミングで美樹と麻揶が戻ってきた。


「ただいまー。次は何やろっか?」


 僕は天井からの光の漏れ具合に問題がないことを確認し「よし」とつぶやいた。


「全部終わった?」


 美樹が聞いてくる。


「入口の待機室はこれで終わりだよ」


 踏み台にしていた机から降りて、上ばきを履く。

 亞璃栖も机から手を離して満足そうに微笑んだ。それに釣られて四人とも顔を見合わせて笑顔を浮かべた。


「こっちのがヤヴァいんだっつーの」


 順路の奥から雷弩が顔を出してくる。黒塗りの段ボールに囲まれた待機室はもうかなり暗く、彼の顔だけが浮かんでいるようにも見え、ちょっと怖かった。


「一カ所ダメっぽくてよ、一度バラして組み直さなくちゃならなくなった。あとやっぱり暗幕が足んねぇ。ちょっちピンチ」

「手伝うよ」


 僕たち四人が頷く。


「バラすのは今やってる。狭いから人数いても邪魔んなるからよ。そうだな、受付を廊下に作ってくれよ。俺は暗幕もっともらえないか、また生徒会に行って聞いてみらぁ」


 雷弩は僕たちの返事を待たずに教室を出て行ってしまった。

 美樹が僕の肩をつんつんと指で突いてきた。


「受付は私たちが作っておくから、二人とも食事に行ってきなよ」


 僕は踏み台にしていた机を廊下に出す。さらに廊下に積んであったった机の1つを取って2つ並べる。


「はいはい、そこまで。受付作るのに四人もいたらかえって進まないよ」


 美樹がケタケタと笑う。こういう底抜けな笑顔が板についているようだった。


「じゃあ食べに行こうよ。零くん」


 美樹が手の平を振って、早く行けとジェスチャーする。


「ありがとう」


 そんなにお腹が減っているわけでもなかったけど、お言葉に甘えようと思った。

 美樹が口元に手を当て「若い二人はまっことよいですのぅ」と僕を見て。

 麻揶も同じような姿勢で「ほんにほんに」と答えていた。


「ここに残ると、あの二人にずっといじられちゃうよ?」

「うっ……」


 それだけはご勘弁願いたい。


「僕、お腹減っちゃったよ」


 亞璃栖が僕の手を掴んだ。

 心拍数が跳ね上がったのを気がつかれないように平静を装った。


 彼女に引っ張られるまま廊下を進む。

 ちらりと背後に視線をやると、井戸端会議の主婦二人が興味本位の眼差しを隠そうともせず僕たちに向けていた。後でからかわれるのは覚悟しておいた方がいいだろう。


 それにしても彼女たちは僕たちの事をどういう立ち位置で見ているのか不思議だ。

 僕もなんとなくそんな気・・・・はしてきたのだが……なんというか、恥ずかしさと違和感が先に立つ。

 記憶が戻ったら恥ずかしさとか消えて……。

 亞璃栖の後ろ姿を見た。

 いや、考えないようにしよう。今はゆっくりと流されて色々と様子を見ながら、記憶を取り戻していけばいい。学ぶより思い出せだな。


 校舎の横に立てられたガラス張りの円形な食堂に来た。昨日廊下の窓から見ていたやつだ。

 そういえば、昨日は慌ただしくて昼食を取っていなかったことを思い出す。人間なんていい加減に出来てるものだと思ってしまった。


 食堂は驚くほど広かった。

 大学部の人間も利用すると言っていたからこのくらいの広さは必要なのかもしれない。天井が高く、窓も大きい。落ち着いて食べられそうな場所だった。


「このくらいの食堂は、敷地内にあと四つあるよ」


 亞璃栖の言葉に驚く。


「それは……凄いね」


 食券の自動販売機で亞璃栖がピザを頼み、僕はカツカレーにした。

 学生証を読み込ませるとカードの残金が表示される。56万円と表示されて、一瞬焦った。


「うわあ、お金持ちなんだあ」


 亞璃栖は僕の自販機を覗き込んでため息をつく。

 そういえば病院で事故の保険金を数日中にこれに振り込むと言っていたな。当面の生活費は心配しなくて良いと言われていたがすっかり忘れていた。

 考えてみたら一人暮らしなんだから、お金の管理も自分でやらなくてはいけない。ちょっと気を引き締めよう。


 学生証を財布にしまい入れた。

 自分が大金を持っているのを知ったのがカツカレーのおかげというのが僕らしい。


 せっかく晴れているのだからと、僕たちは外のテラスに出る。

 青くて高い空。夏特有の遠くが霞むような感覚。この位置からだと海が見えないのが残念だ。

 誰の名前も顔も憶えていないのに、確かにこの雲の事も空の事も憶えているのだから不思議だ。そういえば言葉も一般常識も忘れていないようだ。ちゃっかり雑学も憶えていたようだったし。恐怖の話は誰に聞いたんだったかな?


 ……たしか……あれは……



 ズキン。



「うっ」


 急に頭が痛くなる。今一瞬誰かが……ズキン、ズキン。


「うっ……くっ」


 僕は頭を押さえる。見えたような……誰? 話?


 ズキン。



 ズキンズキン。



「零くん……零くん? どうしたの? 痛いの?」


 僕の横に来て支えてくれる。


「う……だ……大丈夫……。ちょっとだけ頭痛がしたんだけど……もう平気」


 イスに座り直して彼女を手で制す。大きく深呼吸。

 無理に思い出そうとしなければすぐに収まるようだった。


「うん……収まった」


 何度も声をかけてくれる彼女に、そのたびに笑って答えた。

 あの一瞬見えた彼……あれは誰だったのだろうか?

 友だち?

 それにしては年齢が離れていたような……父親……可能性はある……。


 ズキン。


 ズキン。ズキン。


 だめだ、今は思い出そうとしないほうがいい。


「食べ終わったし、戻ろうか」


 立ち上がろうとしたら、亞璃栖に凄い眼で睨まれた。


「僕、怒るよ? せめてもう少し休憩していこうよ」


 トレーを持ったままの僕は、しばらく彼女の顔を見ていたが、良い方に変わる気配はなさそうだった。

 持ち上げたトレーをそのまま同じ場所におろして席に着いた。

 彼女の表情がようやく緩む。


 クラスのみんなに悪いと思いながら、少しだけゆっくりさせてもらうことにした。


「今日も良い天気だね」


 空を見上げると、飛行機雲がゆっくりと伸びていく。どれだけ高い場所に水蒸気の帯が作られているのだろう?

 こんなに明るい日にあんなに太陽に近づいたら、眩しくて眼を開けていられないだろうな。

 そんなどうでもいい思考が頭の中をゆっくりと浮き沈みしていく。

 案外、記憶なんてなくても平和に暮らせるのかもしれない。むしろ、人とのしがらみを忘れている分、無邪気に生きられたりして。


「しばらく天気が良いってニュースでやってたよ」


 亞璃栖も空を見上げた。流れる雲を目で追っていく。


「僕は……」


 彼女が空を見つめたままつぶやいた。


「僕は雨も好きなんだ。夏の雨上がりの香りとか、冬の冷たい雨、いつまでもやまない梅雨の日々も大好きさ」


 別段なんでもない話なのに、なぜかその時彼女の横顔はさびし気に見えた。

 彼女は一度目つむってから立ち上がり「行こうか」と言った。


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