文明からの出口『ゲート』1

「は? 今から出発って、冗談でしょ?」


 あたしの問いかけは誰にも届かず独り言になってしまった。


 それだけ周囲が慌ただしい。


 あれやこれやと駆けまわる人々、最後だからサービスと張り切る商人、あちこちで集合を意味してるらしい笛やら太鼓やらが鳴り響いてる。


 その只中で、口から溢れたハチミツを袖で拭いながらマミーは歩き続けていた。


 ……モンクを倒した直後、そそくさと現れた背の低い男、手をもみながらマミーに近寄りべったりの笑顔で何か話しかけてた。


 それに筆談で応じるマミー、見せられた男が叫ぶ。


「えぇ! もう出発なされるんですかぁ!」


 その演技臭い一声が慌ただしさの始まりだった。


 きっと演技だろう。こうなった場合はそうやって周囲にそのことを伝える、とか事前に決められてたに違いないわ。


 それはわかる、けど今すぐ出発が未だにわからないわ。


 たどり着いて一泊、そうでなくても休憩や食事に小休止、行きっぱなしで良いとはいえ一週間の旅、その前にゆっくりしたいのが普通でしょ。


 ……でも、考えて見れば、あたしが知る限り襲われたのはこれで三度目だ。しかもその内の一つは宿屋で、今しがたの戦いもここにいる全員が味方じゃないと示した。ならば人のいない外の方が安心できるかもとの判断かもしれない。


 だから出発、今すぐに、そう切り出されて、あたしは慌てる。


 やるべきこと、荷物の最終確認、足りないものは買い足して、その前に荷物を整理して、食事は無理でもトイレには行っときたい。


 頭の中にはやるべきことが次々浮かんでるのに体は一向に動かなかった。


 しっかりしろ。まずは動け。がんばれ。


 そう思うことはできても、実行ができない。


 あたしは完全に固まってしまっていた。


 そこを引っ張られる。


 エレナだった。


「早く早くエミリア! 急がないと!」


「わかってるわよ!」


 怒鳴り返して、だけど内心はほっとしていた。だけど向かう方向がおかしい。


「まってちょっとどっち向かってんのよ!」


「決まってるじゃん! 宿! 戻るの! チェックアウトしなきゃ!」


「……はぁ?」


 このタイミングで、チェックアウト?


「だってそうじゃん! してないじゃん!」


「いいじゃないそんなの! お金は前払いで払ってんだし! 戻ってこなくてもあっちは困んないわよ!」


「困んなくても心配させちゃうじゃん! それに浴してくれたんだからティーガーさんにフレミングさんにはちゃんとお別れ言いたいの!」


「誰よそれ!」


 怒鳴り返してる間に宿屋の前に、慌てて飛び込むエレナ、後を追って入れば宿の受付二人の女性に挟み込まれるみたいに抱きしめられていた。それから頬を撫でられながら何かを言われ、それにうんうんと頷いて見せてる。


 あたしが寝てる間にずいぶんと仲良くなった様子ね。


「それじゃ!」


 元気よく返事して戻って来るエレナ、それを迎えながら、あたしも一応会釈して、外に出る。


 ぞっとするほど人がいなかった。


 出遅れ、それでも声は聞こえる程度、まだ追いつける。


 ベーコンをひっぱりながら足に戸惑いのあるエレナを叱咤し、頭からずり落ちる鍋を直しながら気が焦るまま町を足早に抜けてく。


 大通りを抜け、小道を通り、町裏側の門、抜けると林に出た。


 まだ人影はなく、聞こえる声は更に林の向こう、迷わず中へと踏み入る。


 林の木々はどれも背は高くはないけれど太く、手前に倒れるように伸びていて、間隔も広い。その間を抜けるたび、顔に冷たく乾いた向かい風が吹きつけてくる。


 この風、絶え間なく、進むに連れてどんどんと強くなっていく。しかも細かなゴミも巻き込んでいて、目を開けるのも辛いぐらいよ。


 だからゴーグル、思い出し、付けたころで林を抜けた。


 ……開けた広間、集まる人々、その向こうに、見えてなかった『壁』がそびえていた。


 手前の人と比べて、高さは三階建てぐらいでしょうね。灰色の岩肌に何層も重なった横縞、なめらかな表面はきっとこの風に磨かれてきたからに違いないわ。


 そんな壁が、左右どこまでも続いていた。


 その果ては、曲がりくねった壁自身に遮られて見えないけれど、あたしは知識として、どこまでかは知っていた。


 正解はどこまでも、この壁は人が知る限り海から海までを横断して、この大陸を二つに、文明と未開地とに分けていた。


 ただ、それも全部ではない。一部には上り下りできる梯子が、あるいは登れる坂道が、そして今目の前にあるような裂け目が、壁にはあった。


 そこを通ってマミーは未開地からやってくる。


 そして今、同じように帰還しようとしていた。


 こちらに背を向けて、真っすぐに割れた亀裂の間へ、その足を進めている。


 背を見守る沢山の人たち、後ろからでもわかる、全員がゴーグルをつけた冒険者、間には沢山の馬車と沢山の荷物、反射して煌ていて見えるのは槍の穂先か鎧の面か。


 それが、これだけの数、ひしめき合っているのに、静まり返ってた。


 ただ風だけが荒れ狂っていた。


 ……緊張した空気だった。


 下手なセレモニーなんかよりも静粛で、厳かで、ひりついていて、ちょっとしたことで台無しになっちゃうような、そんな空気、あたしにも緊張が伝わってくる。


 そうした連中が向ける視線を背に、マミーは裂け目へ、ここから見るよりもだいぶ幅の広い間に、踏み入った。


 ……声でなく音でなく、雰囲気で、みな合意したように、見送るや否や、その後に続いて、大移動が始まった。


「いよいよだねへミリア」


 流石にひそひそ声のエレナ、だけども緊張は隠しきれてない。


「大丈夫?」


「大丈夫よ」


「ほんとに? 今が最後のおトイレチャンスだよ?」


「だまらっしゃい」


「ほら、そこの林でして来ちゃいなよ。みんな並んでるし、こっちみてないし、わたしが歌を歌ってあげるから音も聞かれないよ」


「だまらっしゃいって」


 応える。だけど柄にもなくあたしの声も緊張しちゃってた。


 それを誤魔化すために逆に質問する。


「それよりエレナこそ、このまま行けるの?」


「大丈夫、おトイレ朝ちゃんとしてきた。大きい方も」


「じゃなくて、ほんとにこのまま出発しちゃっていいのかって聞いてるの」


 ……きょとんとしてる。これじゃあ伝わらないのね。


「……だって、エレナってば、マミーの追跡がこんな長旅になるとは知らなかったんでしょ? それで了承してた。だけど今なら、最低限の準備もできたし、ひとりで行けると思う、わ。だからここでお別れでもあたしは構わないのよ」


 ……エレナの表情が変わる。


 何て言うか、口を開いて、舌を出して、馬鹿にしてるのか、呆れてるのか、そんな感じの表情になった。


「それ、ここまできて、今更訊くの?」


「まだ間に合う間に訊いてあげてるんじゃない。これで旅の半ばでぶうたれられたらたまったもんあないわ」


「…………薄々思ってたんだけど、へミリアって、友達少ないでしょ」


「な!」


 いきなりの発言、虚を突かれ、声が詰まった。


「あ、動き出したよ」


 言うだけ言って、エレナは進みだす。


 それに続くベーコン、振り返った見えは、絶対あたしを笑っていた。

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