第150話「におい」

「なんだろう、あれ」

 やっぱり体を冷やして、唇を真っ青にしている次郎は大吉に話かけた。

「ん?」

 振り向く大吉も唇が青い。

 まるでプール嫌いの小学生のような顔。

 スキー板を担いで自分たちの教室に戻ろうとしている矢先。

 忙しそうに何かを準備している一団に次郎の目は向けられていた。

 フル装備の兵士たち。

 グランドの雪は残っているが、アスファルトの道路はしっかりと雪かきがされて、黒い地面がむき出しになっている。

 そこに綺麗に一列に並ぶ、装甲車両とトラック。そして、そのトラックの荷台にこれもまた規則的に並べられた軽装甲歩兵補助服。

 その周りで、動いているのは独立歩兵大隊に所属する現役の兵士達。

 次郎も見知っている黒石上等兵クロ――春先に次郎と殴り合いをして、綾部軍曹と小山先生が乱入した時に知り合った――が機関銃を担いで車に乗ろうとしている。

「明日の朝礼で大隊長が話す予定だったんだけど」

 ストックを突き刺していた時とは違う、鈴の穏やかな笑顔。

 ――今日の真田中尉、あの日だから、まあ、運が悪かったな。

 コソコソっと仕事を置いて遊びに来ていた綾部軍曹からそう耳打ちをされた。

 ――つうか、あの日ってよりも、あの週と言った方が正しいか。

 そんなどうでもいいことを言っていた。

 なぜあなたが知っているのかということは聞かない二人。

 興味がないだけかもしれない。

「何か……あったんですか?」

「ううん、なんにもないんだけど」

「演習に行くというよりも……なんだろう」

「戦争に行きそう?」

 次郎が声に出す前に、鈴はそう言った。

「……なんか、うまく言えませんが」

 ははは。

 鈴はそう笑った。

「最近のテレビ見て、影響受けているんじゃない?」

 ソ連とロシアの緊張が高まる中。

 この帝国が二十年ぶりに戦火を交えるかもしれないという現実。

 東の共和国が西進してきて以来、軍人が血を流すことがなかった二十年間の重み。

 それを打ち破るかのように、帝国軍遠征旅団のモスクワ派遣。

 その政治判断を批判するように加熱していっている反戦運動。

 放映されるどの局のドキュメンタリー番組やニュース番組は、反戦一色であった。

「まあ、演習みたいなものだって言ってたけど」

「演習みたいなもの?」

「テロ対策のために軍が動員されたの知っているでしょう?」

 一月十一日。

 帝国陸軍が、治安維持のため国会議事堂といった重要施設の警備に派遣されているということは次郎も知っていた。

「現役の兵士、教官の私たちも含めて交代で、能登半島のパトロール……といってもメインは三中隊だから、私とかはお声がかからないと思うけど」

「……そうなんですか」

「大隊長は『そもそも、テロなんてしたら反戦ムードは吹き飛ぶし、敵にとっていいことなんかない』なんて言ってたけど」

 声を低くして大隊長のモノマネを鈴はしているつもりだが、まったく似てないと次郎は思う。

 そして、笑う気にもらなかった。

「まあ、でも能登半島はゲリラが潜むには格好の場所だって言うから、独立歩兵大隊ウチも交代で増援」

 次郎はどうして、こんなに緊張感がなく鈴がしゃべるのか不思議に思ったが、声には出さない。

 なんとなく不謹慎に思えたので、曖昧な返事をして会話は終わった。

 真面目じゃない大人。

 次郎はそう感じていた。

 そして一方、真面目じゃない大人の代表である鈴にも考えがあった。

 なるべくオープンにして学生達を不安にさせるな。

 そう大隊長や中隊長から言われていた。

 教官達も大忙しである。

 三中隊主力の派遣があるが、教育は続けなければならない。

 大隊本部機能と学校機能が別に動くからと言っても人は増えない。

 元々、有事に際しては学校教育を中止して、独立歩兵大隊として動くのがこの編制が作られたときの思想だ。

 平時の中の有事。

 中途半端が難しい。

 もちろん派遣される三中隊にも男クラの学生三学年合わせて約百二十人がいるのだ。

 その教育は残る一中や二中で分担しなければならない。

 やることはたくさんある。

 そんな中、如何に学生達を動揺させないか。

 教育を変えずにやるか。

 自分たちが大変だという雰囲気を出さないようにしないといけなかった。

 学生達を動揺させてはならない。

 そう大人達は考えたのだ。

 子供の目には『不謹慎』に見えたとしても、日常は続ける。

 そういう選択をしていた。

 そういう覚悟をもって、大人達も目の前の現実を受け取っていた。

 


 

 珈琲の甘い香りが漂う店内。

 少年学校の制服を着た二人。

 店長の橘桃子は不在しているが、その代わりに赤い縁の眼鏡をかけた女性がひとり働いている。

 クリームソーダを吸う大吉は、次郎の顔を見てため息をついた。

「なあ、なんで男二人で向き合って、カフェしないといけないんだ」

 珈琲にたっぷりミルクを注いだ次郎が大吉の緑色の液体を見る。

「こんな真冬に、どうしてそんな冷たいものが飲めるのかという方が不思議だ」

 意地悪な目つきで言い返してた。

「うるせえ、ここのクリームソーダはまじでうめえから、特に上に乗ってるアイスがさ、バニラって感じが濃くて」

 この二人、常連である。

 学園祭の時にお世話になって以来、休日の時間つぶしに学生達が使うようになっていた。

「……ナンパ、なあナンパしよーぜ」

「この格好で?」

 次郎は面倒臭そうな表情で、自分が着ている少年学校の服を指さす。

「……いや、トイレかどっかで着替えてさ」

「教官に見つかったらどうする」

「最近は見回りしている姿とか見ないし」

「つうか、大吉さー、風子さん風子さんって、秋っころから言ってなかったっけ」

「ナンパは修行だよ修行」

「めんどくせえ」

 次郎はそう言って顔を上げると、奥にいる赤縁眼鏡の女性と目があった。

 二人の会話を聞いていたのだろうか、ちょっと困ったように笑っている。

「子供扱いされてる、めっちゃ恥ずかしい」

 次郎が大吉に向き直ってそう言った。

「は? 何が」

「んにゃ、ガキだってことだよ、俺も大吉も」

「はあ? ナンパするのは女子だよ女子、お互い若いんだし……つうか次郎はシスコンだからああいう大人の女性が好きなんだろ、おい」

「もう勝手にしてくれ」

 次郎はわかっている。

 こんな馬鹿なことばかり言うが、実行なんてしないことを。

 大吉はそういうやつだ。

 度胸はあるがナンパとか、そういうことができるような軽さはない。

 風子に対して誠実な想いを持っていることを知っていた。

「はあ」

 次郎はため息をつく。

「彼女欲しい」

 ぼそっと言っておしぼりを握った。

「俺も」

 同意の言葉を言った後、テーブルに広げたおしぼりの上に額を乗せて脱力する大吉。

「……」

「……」

 無言の二人。

 時間が過ぎ去っていく。そして、沈黙に飽きた次郎がため息をついた時だった。

「キスしたのに」

 真横から聞こえる声。

 あまりに唐突な登場だったので、次郎はびっくりしてテーブルの端まではじけとぶようにして移動してしまった。

「お、あ、白いパンツの」

 三和が殺気を帯びた視線を次郎に送る。

「い、いやなんでもない」

 大吉は目をパチパチさせている。

「あー! あの変な女!」

「黙れ」

 大吉がゾクッとするような低い声で脅しを入れる。

 次に声を出した瞬間、殺されるような気がした。

「三和ちゃん、いらっしゃい」

 赤縁眼鏡の女性が三和を見てにっこり笑う。

 三和は無言で会釈した。

「知り合い?」

 次郎の問いに対し、彼女はコクリと頷く。

「エニシさん、ただの知り合い」

 ただの。

 抑揚が少ない三和だが、そこだけは強く言った。

「で、なに?」

 次郎が仰け反ったまま三和を見る。

「彼女が欲しいとか言っていたから」

「言ってない、いや呟いたかもしれないけど、っつうか、言った時にはもう居たし、なに?」

 この女子に関わるとロクなことがないことを次郎は知っている。

「忠告」

「忠告?」

「そう」

 三和がため息をつく。

「誰も信じてくれない、誰も脅威に思わない、ありえないこと」

「……なんだよそれ」

「気を付けて」

「は?」

「あなたたちの学校は気を付けた方がいいって」

「……そんな話は君のお母さんとか、大隊長とかと繋がっているから、わざわざ俺に」

「もう言った」

「誰に」

「信じてもらえない」

「何を?」

「誰も信じてくれない、誰も脅威に思わない、ありえないこと」

 三和はもう一度ゆっくり同じ言葉を繰り返した。

「万が一かもしれない、何もわかっていない子供の戯言かもしれない」

 ジッと次郎と大吉を見る。

 次郎や大吉が息を飲むほど、彼女の目は真摯だった。

「お父さんの大切な学校を……」

 チラッとエニシの方に視線を送る。

 彼女が聞いていないことを確認したようだ。

 グイッと次郎と大吉に顔を近づける。

 そして彼女の唇が動いた。

「守らないと」

 相変わらず抑揚の少ない声。

 だが、どことなく力強い声で彼女はそう言った。

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