第146話「冬の日常」

 キラキラ眩しい光りを反射するガラス。

 金沢では珍しい光景だった。

 いつも空を覆っている分厚い雲が朝日を遮っていない。このためこの日の朝は、洗面所の窓に白く輝く世界を映し出していた。

「おはよー風子ちゃん」

「緑ちゃんおはよう」

 朝の点呼が終わったばかりで寝起きのせいか、おかっぱ頭が爆発している緑。

 彼女は眠そうな声で挨拶をしていた。

 ちょっとこういうことを気にかけている女子は、点呼前に起きて身だしなみを整えるのだが、緑はそういった文化がない。

 女子同士、がんばっても、と思っているのかもしれない。

「雪、積もったんだ」

 緑がうきうきした声を出す。

 彼女が生まれた町――沼津――は雪が積もることはほとんどない。

 温暖な世界に生まれた彼女にしてみれば、とても珍しい光景であった。

「雪かき、するほどでもないかな」

 そういう心配を風子がしてしまうのは、北陸と同様の気候である舞鶴で育ったからだ。

「雪かきしたいな」

「雪かきだるいな」

 緑と風子が同時に言って顔を見合わせる。

「なんか変だね」

「なんか不思議」

 緑は不思議と言った。

 中学生までは、同じ街で育ち同じ価値観をもった人間に囲まれていた。

 でも、ここは違う。

 雪を見て、だるいという人もいれば、自分みたいに喜ぶ人間もいる。

 彼女はそう思ったから、自然と不思議という言葉がでたのかもしれない。

「うひゃっ」

 風子が声を上げて、歯ブラシを洗面器に落とした。

 唐突に襲い掛かる胸を中心とした気持ち悪さ。

 くすぐったいとは違う、ぞわぞわとしたもの。

 鳥肌が広がっていく。

 風子の直感がこんなことをするのは、三年生の先輩である純子しかいないと認識する。

「や、やめてください先輩」

 グイッと斜め上に向ける様にして首を回した。

 頭一つ高い純子、こうしないと彼女の胸に話しかけることになるのだ。

 が、いたずら小僧の顔をしたいつもの純子はそこにいない。

 空間。

 その代わり、サラサラした金髪が見えた。

「べったりした雪、あ、グッモーニング」

 無駄に流暢に、そして英語のありふれたフレーズを言うサーシャ。

 モミモミと風子の胸を触っている。

 いや、モミモミと口で言っていた。

「こっちは張りがあっていい」

 モミモミ。

「ちょっ、英語使うな! ロシア人! アイデンティティはどうしたっ」

 ぜんぜん違う方向でツッコミを入れてしまう。

「難しい英語、わかんない」

 アイデン何?

 と、サーシャは首を傾げる。

「ロシアの雪はもっとサラサラして、触るとふわって」

「そんなこと聞いてないし」

 風子が自分の胸にあるサーシャの手を引きはがす。

「あっちの雪を思い出してたら、風子のおっぱいが似てるなって」

「意味がわかんない」

「うん、ちょっと違った」

「いや、だから何、それ」

「スカスカしてるかなって」

「……サーシャ、あなた疲れてるわ」

 怒りを通り越し、相手を心配してしまう風子姐さんである。

 そんな二人はボソッとした声を聞こえた。

「北海道であんなことしてたら、死ぬわ」

 すでに髪を整え、長い黒髪をうなじのところでお団子にまとめている幸子だった。

 もうお肌の手入れも終わっているのだろう。

 点呼前に済ませる早起きタイプの幸子。

「あんなこと?」

 風子が首をかしげる。

「あれ」

 窓の外に向け指をさす。

「……」

 窓の外。

 いつもの風景。

 風子たちの目はあえて、汚いものは写らないように矯正していたのだが、幸子の一言でキラキラした幻想は吹き飛び、現実が入ってくる。

 いつもの日常。

 ――うらああ。

 むさ苦しい上半身裸の男たちが叫び声をあげている。

 ――六十二! 六十三! 六十四!

 雪の積もった地面に手をついて腕立て伏せをしている男たち。

「おかあさあああああああん」

 大吉が叫んでいる。

「おらあ! 一年生、しっかり姿勢を取れ! いつまでも終わんねーぞー」

「おとおさあああああん」

「叫んでも腕立ての回数は減らねえぞ!」

「風子さあああああああん」

 いつものことなのだ。

 大吉が、馬鹿なことを叫び、笑いをとる。

 腕立て伏せ中に笑うと、腹筋もけっこう負荷をかけているので、姿勢を取るのがしんどくなる。

 だから、あえてそんなことを言っているのだ。

「バカ! 大吉! てめえ、まじ今日はネタやってる暇ないから、手冷たいから、痛いから」

 長崎生まれの次郎は寒さ耐性が低い。

 笑いをこらえている宮城京ミヤギキョウ

 だが目は怒っている。

「あとで覚えとけよ、大吉」

 彼は口の端をめい一杯引きつらせながら言った。

 そんな風景を毎朝見下ろす女子たち。

「大吉くんって、風子ちゃんのこと好きだって、あんなに大声で」

 最近の大吉は公言して迫るという作戦に出ていた。

 というか、恥ずかしいからネタにしてしまっている。

「ネタでしょ、ネタ」

 一度ふった相手だ。

 でも、最近は一番近い男友達という関係だと風子は思っている。

 そして彼女はいつものように仏頂面の幸子に歯ブラシを加えたまま顔を向け、ニタッと笑う。

「気になるんだ」

 風子の反撃。

「きたっ! 禁断の愛」

 緑がいちオクターブ高い歓喜の声を上げた。

 ちなみに禁断の愛とは、彼女のただの妄想である。

 大吉が二人よりも背が低く、中学生みたいな顔をしているため、緑が勝手に少年愛と混同して興奮しているのだ。

 面倒くさい女子であった。

「ふーん、ああいう子が好みなのね」

 こんな場所ではまず聞くことがない女性の声。

 大人びた発音、そして口調。

 でも、なぜか幸子にとってはドキリとする声だった。

 朝の六時半だというのに、ばっちり整えた姿の女性。

 ポータブルにしては少し大きめのカメラを抱えた女性。彼女はその深めの赤をのせた薄い唇を動かし、にっこりと笑った。

「留学生の山中幸子ちゃんでしょう?」

 気安く声をかけられ、警戒心をむき出しにする幸子。

 眉をひそめたその表情もだが、シンクから一歩さがるぐらいに体も動かしているため、不審者に対する警戒行動と同じ動きをしている。

「……え、撮ってたんですかっ」

 緑がぼさぼさ頭を慌てて指でほぐそうとする。

「うわああ」

 風子も声を上げてほっぺたについた歯磨き粉の泡を取り除く。

 カメラを持った女性は『金澤放送』『Press』と書いた腕章と、取材許可証と書かれたプレートを首から下げていた。

 前田通マエダツウと書かれたその取材許可証を彼女達に見せる。

「昨日、教官を通じて朝から取材するって言ってなかった?」

 ふふふと笑う彼女。

 パクパクする風子。

 カメラは間違いなく回っていた。

その時だ。

 颯爽とした風が吹いた。

「おや、どうしたんだい、後輩達よ」

 いつもと違う、少し高そうな香りもいっしょに流れてきた。

 気の強そうないつもの口調ではなく、不自然に丁寧な言葉を使う純子。

「……」

 風子はその純子の姿を見て、頭を下げる。

 本能的に見ないようにしたんだろう。

「あ、カメラ」

 わざとらしい反応をする純子。

「……恥ずかしいからやめてください、純子さん」

 クイッと黒ぶち眼鏡を上にあげる、彼女の後輩であり、風子の同部屋の先輩でもある長崎ユキがいつものように冷静……いや冷徹な声を出していた。

「黙れ! お化け」

 純子はユキに対しおっぱいお化けというあだ名をつけている。

 ちなみに、その『おっぱい』を略して『お化け』である。

 とりあえず、相手をするもの面倒くさいという信号だった。

「……化けているのは純子さんじゃないですか、ゴソゴソ夜中に動くのは迷惑です」

「は? ナチュラル純子さんに、なんてことを」

 いつもボサボサに近いショートカットの髪の毛は、無駄に固められ、ツンツンしている。そして、眉毛はいつも以上にクルりんしているとともに、眉毛はスウッと念入りに描かれている。

 夜中の三時から気合を入れて作ったのだ、ばっちり決まっていることを純子は確信していた。

 ちなみに、唇は天ぷらを食べたようにキラキラしている。

「……無理」

 ユキは頭を抱えた。

「あんただって、ゴソゴソ五時ぐらいからやってだでしょう」

「わたしは化け粧なんてしません」

「今、全国の女を敵にまわしたな、このクソ真面目ぶった巨大おっぱいを振りかざしておっさんを誘惑する女狐め」

「……だから三年生も終わろうとしても、彼氏いないんですよ、先輩」

「うるせえ! おっぱい女も髪の毛一時間いじって意識してるくせに」

「髪の毛が長いと時間がかかるんです」

 艶々した黒髪をユキが撫でる。

「黒髪ロングにロクなやつはいねえ! みんな腹黒女だ」

「偏見はやめてください」

「大部分はユキのせいだがな!」

 同部屋の先輩の仁義なき戦いを見て頭を抱える風子。

 他人のふりをしたいが、彼女達と同部屋であることは既に周知されている。

「見ちゃだめ……」

 サーシャ、緑、そして幸子の頭をひとりひとり両手で握り、洗面所の方を向かせる。

「まったく、取材がくるとかそんなことで意識して……」

 ファサッ。

 サーシャがおかっぱ金髪をかきあげた。

「ちょっ……」

 風子が口を開けて驚く、そして頭を抱えた。

「サーシャ、お前もか」

「は?」

 大げさに驚くサーシャ。

 いつのまにかアイメイクを済ませ、目がいつも以上にぱっちりしているし、ピンク色のリップを塗ったぷっくりした唇美しいラインを作っている。

「……いや、もういい」

 ノーメイク風子さんである。

 眉毛ぐらいは整えているが、もう、そういうのは面倒くさいと思っている。

 夜のお仕事でいつも厚化粧をしている母親の影響があるのかもしれない。

「ごめんなさい、先輩ちゃん、取材は一年生限定なのよね」

 にっこり笑顔のままでカメラを下ろす前田通。

「ですから、取材とか気にしてませんから」

 余計なことを言う純子。

「先輩、骨折り損」

 ぷぷぷと笑うユキ。

 もちろん自分のことは棚に上げている。

「はいはい、あんまり意識せずに、普段どうりにすればいい」

 パンパンと手を叩く音と、アニメ声の似合わぬ長身。

 二中の教官である伊原少尉がそう言って学生達を急かす。

「あんまり、グダグダしてると朝の課目に間に合わないぞ」

「……少尉」

 白けたユキの声。

 みんながその声に反応して伊原を見る。

「なにか?」

 首を傾ける伊原。

 キラリと光る耳の飾り。

「少尉……あなたもですか」

 そう言って風子が水をためた洗面器に顔を突っ込んだ。

 冬の水道水はとっても冷たいが、今の気分にはちょうどいい冷たさだ。

 どうも、こんなことではしゃぐ姿をみると、風子はげっそりしてしまうようだった。

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