第120話「しょうがない」

「大丈夫、上にはいない」

 偵察から戻ってきた次郎が小声でそう言った。

 うなずく大吉。

「俊介、大丈夫?」

 五人の中で一番体力が低い俊介に気遣いの声をかける大吉。

 次郎が提案した谷間を抜けていくコースを大吉は反対していた。

 体力がない俊介にはきついと思っていたからだ。

 だが、その反対意見を遮ったのは俊介だった。

 ――大丈夫、がんばるから。 がんばりたい。

 そう言っていた。

「うん、ありがとう」

 彼はいつになく気力が充実しているせいもあって、疲れを感じていなかった。

 たまにそういうことがあることを彼は経験上わかっていた。

 少し興奮している時に多い。

 そしてある一定の限界を超えると急に『精神的』に辛くなってしまうのだ。

 彼はあくまでそれは肉体的なことではなく『精神的』なことだと思っている。だからこそ、こういうところでなんとか自分の限界を超えようとしていたのかもしれない。

 彼は脅迫的に、自分を変えなきゃいけないという衝動に背中を押されていた。

 大吉もそんな俊介の表面的な元気に押された。

「よし、行くか」

 大吉の言葉に頷く緑と幸子。

 彼女たちは俊介と違い、男子に負けない体力がある。

 地図を見れば、もうすぐ目的の場所だ。

 この経路は谷沿いの錯雑地をひたすら進んで、一気に目的地の後方を目指していた。

 植生が深いため、上から谷を見下ろすには多くの目が必要で、監視の死角になる経路だった。

 男クラも、十人ほどを谷の上に配置しているが、たくさんあるケモノ道をすべておさえきれていない。

 配置の優先順位は目的への距離が近い順であった。

 大吉達はその裏をかいて、一番離れた場所から出てくる獣道を選んでいる。だから、相手の隙をつくことになったのだ。

 もちろん、別の手当てを男クラ軍団も用意をしているのだが。

 次郎が先頭を行く。

 谷を登る。

 木々に囲われ薄暗い風景から、明るい視界に変わった。

 黄色いススキがサラサラと風にゆれ、優しい秋の太陽光を反射する。

 なんとも場違いの感じがするのどかな風景。

 演習場でなかったら、ぼーっとしたい秋の昼下がりである。

 カサカサ。

 カサカサ。

 俊介がその音のする方向を見て、声を上げそうになるが、そこはがまんしての口を抑えた。

 ぴょんと飛び出ていく生き物。

 次郎が右手の手のひら下にして数回振る。

 頭を下げろと言うことだ。

「うわっ!」

「シカっ! シカッ!」

 遠くで男クラの学生らしい声が聞こえる。

 驚いて大声を上げているのだ。

 親鹿、親鹿、小鹿、小鹿。

 こっちも驚いているが、鹿達も驚いているのだろう。

 男クラの学生達の声を聞いてびっくりしたのだろう。鹿ファミリーは一八〇度方向変換をして、次郎達の方へ向かってくる。

「こっちにくる、下がろう」

 小声で大吉が言った。

「横に、横に」

 俊介がとっさに判断し、鹿の進行方向から垂直に動く。

 彼が先頭になるようにして、鹿の進路からずれた。

 その時だった、甲高い電子音が足もとから放たれたのは。

「うわっ」

 電子音にまたまた驚いた鹿は今度は九〇度回転し、谷の方へと走り去っていく。

 結果オーライ。

 いや、鹿との衝突は避けたが、今度は男クラ達が迫ってくる危機に陥った。

 罠だった。

 電子音の正体は一〇〇円ショップにでも売ってそうな痴漢撃退警報機だ。

 それをちょっと改造して、罠線を引き、斥候の接近を知らせる資材にしていた。

「あっちだ、あっち」

「鹿じゃねえか?」

「違う、鹿がいる方じゃなかった」

「敵だ! 敵」

「女子ー! 女子ー!」

「おい、集まれ!」

 警戒部隊が殺気立つ。

「ご、ごめん」

「謝る前に逃げよう、今のは仕方がない」

 その場に崩れ落ちそうなぐらい落胆した俊介の腕を引っ張る次郎。確かに今のはしょうがない。

 運が悪いとしかいえない。

 それに鹿にぶつかるよりはここでつかまった方がましだ。

「谷に戻ろう」

 大吉が動き出す。

「おい! 止まれっ!」

 戻ろうとした方向からも声。

 どうやら囲まれる寸前のようだ。

「ごめん、僕の、僕のせいで」

「しょうがないって、俊介のせいじゃねえし」

 大吉が俊介の肩を叩く。

 だが、彼らの逃げる方向は崖の様な急な坂しかない。

「……こっち、こっちの道を探してくる」

 そう言って、俊介は追手が迫る逆方向に進もうとする。

 すなわち崖の方だ。

 急ではあるが、うまく行けば降りれそうな感じもする。

「俊介、走るなって、そっちは斜面が急で俺たちじゃ、無理だって」

 彼は次郎の制止も聞かず、左手を崖にして、道を探しながらスタスタと走っていった。

「止まれ!」

 止まれと言って止まるバカはいないが、今回はそういうルールなのだ。

「うわっ」

 俊介は急な谷の方へ無理矢理降りて行こうとした。

「止まれ! 俊介」

 彼の仲間である次郎も同じように叫んだ時だった。

 バキ。

 俊介が谷を降りていくために支えにしていた、一〇センチほどの太さの枯れ木。

 左手は折れた枯れ木の一部を握ったまま。

 彼は谷の方へ吸い込まれていった。

「俊介ーっ!」

 大吉や次郎が叫ぶが、声は届かない。

 あっという間に、谷間の木々や草の下に俊介は消えていく。

「こっちだ! 誰か落ちたぞ!」

 男クラの学生達も集まりつつ、叫んでいる。

「教官! 教官は!」

「俊介!」

「徳山くんっ!」

 緑も幸子も叫んでいる。

 次郎は何か吐き捨てる様に言葉を言ったあと、谷の方に降りようとするが、大吉に腕をつかまれる

 びっくりするほど力強く。

 ぐっと身を乗り出すが、足場っぽい場所は俊介がすべって崩してしまったため、谷に降りれそうな足場はない。

 柔らかい土質のため、少しでも体重をかけ間違えれば、俊介と同じようなことになるだろう。

「どこだ!」

 林少尉の声だ。

「こっちです」

 男クラの誰かが返す。

「徳山くんっ! 徳山くんっ!」

 緑が大きな声で谷に叫ぶ。

「学生は行くな、下がっていろ」

 林はそういいながら、テキパキとリュックからロープを取り出し、あっという間にアンカーを組み確保の態勢を確立した。

 カラビナでロープをつなぐ。

「徳山くーん!」

 幸子も叫ぶ。

「俊介ー!」

 次郎が叫ぶ。

 何もできないくやしさからか、彼自身でもびっくりするぐらい大きな声だった。

 せめて、大声ぐらいは出したかったのかもしれない。

 同期が困っているのに、何もしてあげれない悔しさ。

「俊介!」

 もう一度叫んだ。

 ピー―――。

 警笛の音が谷に響く。

 ピー―――。

「もういい! わかった! 教官たちが今から行く!」

 ロープで安全を確保した林ともう一人が谷に降りていく。

 ――道に迷ったら、警笛を吹きなさい。

 そう言った真田中尉から学生ひとりひとりに渡された警笛。

 俊介がならしたに違いない。

 とりあえず、生きている。

 けがはしているかわからないが、警笛を鳴らすだけの体力はあることがわかって、学生達は少し安堵した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る