第101話「思考停止はこどもたちだけではなく」

 同じ夜。

 その数時間前。

 うなぎ料亭の一室で、次郎に指導した野中はある女性と向き合ってこの話をしていた。

「懺悔のつもり?」

 彼はそんな友人の言葉に困った顔をしている。

「ただの世間話だよ、そういう若い子達の話をすると、ほら、エニシも若返った気分になるだろう」

「にしては……すごく恥ずかしそうだったから」

 彼女はそう言うと、その赤い縁をした眼鏡を押し上げた。

 三十後半の年齢を感じさせない適度に薄い化粧の顔。髪も同様に若々しく、それは肩にかからないほど短くストレートで、色は少しあせた黒だが艶やかであった。

 次郎やサーシャも顔見知り、桃子の喫茶店でバイトをしている女性。

 彼女は野中の友人だった。

「まあ、ちょっと偉そうだったかなって」

 彼はそう言うと、うなぎの白焼きに山葵を器用にのせ、パクりと口の中に入れる。

「しばらく、ここのうなぎと山葵もさようならか……」

 目をつぶり名残惜しそうに口の中の料理を味う。

 彼は国外対処部隊である遠征旅団の中隊長に任命される予定だった。

 九月半ばの不定期異動で。

「モスクワじゃ、食べられないかしら」

 彼は首を横に振る。

 一般のマスコミでもこの遠征旅団がモスクワに派遣される予定だという報道はされている。

「まだ、行くと決まったわけじゃない……しばらくは横浜にいる予定」

「けど、遠いし……向こうは忙しいんでしょ」

「まあ、バタバタするだろうね」

「……三和ミワちゃんとも会えない」

「あの子は、時間があっても会ってくれないと思うけど……」

 十数年ぶりに再会した娘とはろくに会話ができていなかった。だが更にこの異動が決まって以来彼は娘から一切無視されている状態だ。

「出発前の夜なのに」

「……だからエニシとの時間に」

「面白い冗談って受け止めておくわ」

 そう言って彼女はウナギの肝の佃煮を口に入れた後、ぐい飲みに入った冷酒を飲み込んだ。

 なんにしても飲みっぷりのいい女性であった。

 大きめのぐい飲みの中身は一瞬で空になっている。そして、彼女は意地悪な表情に変化させた。

「考えろ、悩め、思考停止するな」

 彼女が野中の口真似をしてそう言う。すると彼は飲んでいた冷酒が入っているぐい飲みを慌ててテーブルに置き、派手にむせてしまった。

「……悪かった、ほんとうに悪かった」

「いい言葉だって言ってるのよ」

 彼女は紙ナプキンでぐい飲みのふちをなぞる。

「思考停止するな」

 もう一度繰り返した。

「思考停止って、文字通りいろんなことを無視して自分の考えに固執することってことだけど、解釈はもうひとつあると思っているわ」

「解釈?」

「そう、私なりの」

「どんな?」

「思い悩みすぎて、一歩も進めない状態があるでしょう、あれも思考停止だと思う……思考しているようでグルグル回っているだけ、そこから抜け出そうとしないこと」

「考えているけど思考停止」

「うん、実行を伴わない思考かな」

「考えているだけ」

「そうそう」

「……知行合一ちこうごういつとかそういう」

「そんな大それた考え方じゃないけど、あなたが言った言葉ってそういう意味が含まれているんじゃないかなって、だから動いたんでしょ、あの子たち」

「私はそういうことを伝えたつもりはなかったけど……結果的には……かな」

「だれもが実行力があるわけじゃないから……たまたま今回の上田君? 彼はすごく実行力もある子だったんでしょ、だから思考停止って言っただけでちゃんと考えて動いた、そうじゃない子だったらこんな答えのない問題、ずっとグルグルフラフラしちゃうんじゃないかな……人間関係の問題なんだから」

「……つまり、俺の助言はあんまり適切じゃなかった」

「結果オーライってこと」

「褒めてる?」

「褒めてるというか、ほんと、あなたって自分に言ってたことを人にも言ってるから」

 彼が遠征旅団に行く理由。

 過去に囚われてグラグラフラフラして、思考停止してしまっていた自分との決別。

 一歩でも前に出ようとした野中。

「三十九歳のおっさんが、十五歳の学生ちゃんたちと同類だってことか」

「そう」

「俺の二十四年は」

「そんなに威張れるような二十四年じゃないでしょ」

「そういうこと言うなよ……」

「ふふ」

 彼女は笑う。

 二十年前、若い野中が体験した戦場。

 ずっと引きずっている傷。

 彼女も詳しいことはわからない。

 でも、眠った彼がうなされながら苦しみもがく姿は一度ならず見ていた。

 そんな彼女はひとこと付け足した。

「そうね、そういうことでは私も同じなんだけど」

 言って恥ずかしくなったのか、彼女はすぐにぐい飲みの中の琥珀色の冷酒を口につけた。

 ――まだ、フラフラしたまま。

 彼女は自分を置いて一歩前に出てしまった野中を羨ましい表情で見ていた。

 ――今日決着を付けよう。

 彼女はそう心に決めていた。だが、同様に野中も別のベクトルで彼女との関係に決着をつけようとしていたということは、さすがに思いもよらなかったかもしれない。

 もう一杯、彼も彼女も琥珀色の冷酒を飲む。

 それぞれの覚悟。

 二人の友人としての関係の行き着く先。

 そんな中、彼女は自分の胸の奥にある感情をしまい、今日はなるべくベットではそれを出さないようにしようと思っていた。

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