第102話「それぞれの進む方向 次郎」

 次郎は汗をぬぐいながらコップ片手にふらふらと歩いていた。

 目標は命の源。

 どうでもいいから大量の水分と糖分を本能が欲しがっていた。

 無意識の行動。

 たどり着いたジャグの前で倒れ込むように片膝をつき、液体をコップに流し込んだ。

 なみなみとついだ液体をこぼさないように気を付けながらベンチに座る。そして、クエン酸が多めに入っているドリンクを一気に飲み込んだ。

「酢っぱ!」

 そんな次郎の反応を見て大吉が得意顔で笑った。

「大吉スペシャル! うまいだろう」

 体育委員は持ち回りでトレーニング後の水分補給に使うドリンクを作っている。今日は大吉がその当番であった。

「……いや、これいつもの粉と違うし、っていうか入れすぎってレベル? それを通り越した酸っぱさじゃね?」

「さすが次郎! 栄養ドリンクマスター!」

「いらんわ! そんな称号」

 なんとも栄養バランスの悪そうな称号である。

 そんな次郎の反応を無視して大げさに大吉うなずいた。

「水だけじゃなく酢を入れてみた」

 説明しながらエッヘンする大吉。

「こんなんドリンクじゃねえっ!」

「良薬口に苦しだっ!」

 大吉はそう大見得を切って胸を張った時、体に衝撃が走った。

 ゲフンと言って飛び跳ねる。

 尻に膝蹴りを食らったからだ。

「バカ」

 そう言ったのはサーシャだった。ちなみに彼の尻に蹴りを入れたのも。

「……ない、これはない」

 風子が顔を横に振りながら呻く。

 大吉は風子を見て目をぱちぱちした。そして、手にもっているカップの中身が目の前で捨てられるのを見て、がっくり首を落とす。

 ギャグではなく本気で美味しいものを作ったつもりだったらしい。

 大吉は本気で落ち込んでいる。

 次郎はそんな大吉に同情しつつも相手はせず、顔を背けた。

 顔の汗を手ぬぐいでもう拭きとる。

 そんな次郎を見て不思議そうな顔をする風子と目があった。

「……上田君、タオル……?」

「あ、これ?」

 広げると赤の記事に白で『乾坤一擲』と書かれた手ぬぐいを広げる。

「見た目よりも汗を吸うし、洗濯した後すぐに乾くから、けっこう使いやすくて」

 風子にしてみれば、手ぬぐいは剣道とかで頭に巻くやつ、ぐらいの認識だ。そんな手ぬぐいをタオル代わりに使っている次郎はやっぱり変わっている思った。

「上田君やっぱり変わってる」

 そのまま口にでてしまう風子。

「変わってるかな?」

 手ぬぐいひとつでそこまで言われるのが不思議だという表情。

 次郎は頭をかしげる。そして、少し寂しそうな顔をした。

 風子もそんな次郎の態度に不思議そうな顔をする。

「けっきょく何にも変わってない」

 彼がそう呟く。

 今日の練習のことだった。

 楓は来るには来たが、すぐに帰った。

 相変わらず、練習で手を抜こうとする学生もいる。

 呟いた次郎の表情を見た風子は少しだけ柔らかい笑顔になった。

 清々しい顔をしていたから。

「そうかな、少なくとも変な空気はなくなった」

「空気……?」

「嫌ーな空気」

「嫌な空気か……」

 次郎が首を振る。

 少なくとも、仲間を排斥しようとかそういう空気はなくなった。

 それができる立場の、動かす立場である次郎がそんなしょうもないことをやめたからだ。

「確かに嫌ーな空気」

 ぐいぐいっと二人の間に金髪娘が物理的に入る。

「空気って意味、今わかった」

 日本独特の言い回し、なかなかロシア娘にはわかりにくいものだったらしい。だが、二人の間に流れるなんともいえない雰囲気を感じ、空気という意味を理解したようだ。

「やっぱここは、ビシッと小牧に、むぐぐぐぐ」

 元祖過激派的体育委員の大吉も、二人の空気を嗅ぎ取り入り込んできた。

 物理的に間に入ろうとするものだから、サーシャと押し合いをしている。

「サーシャ様の体に触れるなんて百万光年早い」

「ばーか、そりゃ時間じゃなくて距離じゃねーか、早いじゃねーよ」

「はんっ! 意味なんてどうでもいい、感じ方が伝われば問題ない」

「てめえ、まともな日本語使える様になってから喧嘩売ってこい、このアマ」

「ロシア人ですから日本語わかりませーん! このクソチビタ、高校デビュー失敗野郎」

 ガルルルルル。

 狭い空間で顔を突き合わせて威嚇し合う二人。

「はい、松岡くん」

 風子がタッパーを開いて、蜂蜜漬けのレモンを大吉に見せる。

 大吉は風子が自分のために作ってくれた物だと思って目を輝かせた。そして、一枚を摘み口の中に入れる。

「ああ、甘酸っぱい、風子さま、美味しゅうございます……ほんと、俺の心をつかんで離さない味!」

 彼はほんわかした表情で余韻を楽しむ一方、風子は少し顔を引きつらせる。

 彼女が作ったものではなかった。

「……これ、楓ちゃんが女子にって」

 一瞬にして顔いっぱいに皺が寄る大吉。

「小牧ぃ?」

「うん、みんな練習お疲れ様って」

 だいぶ大人になった風子。

 まわりの人間がそわそわしているぶん、落ち着いたお姉ちゃんキャラになってしまったとも言える。

 ちょっと中学時代の風子姐さんに戻りつつあった。

「なんであいつ」

「……楓ちゃん、同部屋の先輩で学生会副会長している人に気に入られちゃって」

 黒ぶち眼鏡をクイッとあげる、胸ボーンな長崎ユキ先輩を思い浮かべる。

 ああいう感じも大吉の好みである。

 脳内では胸が揺れていた。

 そんな妄想でニヤける大吉を不思議そうに見る風子。

「あれ? なんか変なこと言った?」

「い、いや、べつに、あれだよね長崎先輩だよね、ああ、いいひとそう」

 楓がつくった蜂蜜入りレモンのことはぶっとんでいた。

「そういう話じゃないんだけど」

「え、ええ? いや、うん、ごめんなさい」

 風子の声色がきつくなりかけたため、すぐに謝る大吉。彼と彼女が出会ったその日に喧嘩をしているから、そういう雰囲気は読めるのだ。

 彼は風子のそういうところも含め、いやそういうところこそが好きでたまらないツボでありポイントなのだが。

 まあ、彼にとってレモンもユキ先輩のこともどうでもよくなっていた。

 何気に「風子さま」と下の名前を使っても違和感なく会話ができたからだ。

「楓ちゃん、副会長が気に入って、本部にって決めたから、それからそっちの手伝いが多くなったみたい」

「ふーん」

 大吉にとっては「ふーん」である。

 あの盗み聞きの頃くらいから、ユキは楓に目を付けたらしい。

 一匹オオカミ感溢れる雰囲気。

 だが、ちょっとしたところで懐いてくるところがかわいかったようだ。

 お姉様的なユキからすると、美味しい女子とも言える。

 そういう訳で、楓はレモンだけを置いて中隊の練習を早々に抜けたのだ。

「……ならそうだって体育委員に言ってくれればいいのに」

 不満そうに口を尖らせるのは次郎。

「逃げちゃったみたいに見られたくなかったんじゃないかな」

 風子はそう答えた。

「だれもそんなこと」

「ほんと?」

 風子はジッと次郎を見る。

「……」

 ――人の思いなんてちょっとやそっと話したって通じるわけがない。

 そんな野中の言葉がよみがえる。

 彼はじわりとそのことに気付き、頭の中で頷いた。

 ――あんなことをした俺が、今さらってのもあるのかな。

 そんな風に思った。

「確かに、しょうがないな」

 彼はそう口に出した。

「言えないでしょ」

「そりゃ、ね」

 そう言って頷く次郎。

 彼はそのまま考えるようなそぶりをする。

 その横に座る大吉。

「だいぶ工夫したけど、まだあいつにはわからないかな」

 大吉が次郎に合わせた。

「押しつけがましいから無視されてるのかも、松岡君のは」

 風子は笑った。

「でも、確かに、工夫はしていると思う」

 練習メニューを考える役の大吉は図書室でトレーニング関係からスポーツ障害の本まで引っ張り出し、必死に読みこんでいるのだ。

 積極的に教官室も出入りして、知恵を借りている。

「今日のサーキットトレーニングとか、素人の私でもすっごく管理的だってわかるから」

 そんな風子の言葉を聞いて喜ぶ大吉。

 実際彼は工夫していた。

 『計数的』『個別的』を念頭に置いて練習方法を考えていた。

 サーキットトレーニングは、プッシュアップやシットアップといった八種類の全身を鍛える種目を準備して、三〇秒で何回回数ができるかを計る。そして、練習ではその八種目を順番にやっていく。

 回数は最大値を二倍したものであり、八種目を三回繰り返す。

 その一連の動作はタイムを計測し、三〇(秒)×八(種目)×三(周)=一二(分)の八割をきることを目標に行う。

 目標に到達すれば、また最大値の測定をするといった具合だ。

 つまり、みんなで同じことをやるがそれぞれの実力にあった負荷と目標ができる練習メニューであった。

 もちろん、大吉一人で考えついたわけでなく真田中尉や林少尉の知識を拝借したものだが。

「ただ、手を抜こうとしたら手を抜けるんだよなー」

 彼が顔を上げてぼやくように言う。

「それは大吉本人の事だろう」

 ベンチの後ろから大吉の首に手を回し絞めに入るのは宮城京だ。

「……っ、まった……げほ」

 力が入っている腕とは裏腹に、顔はクールなままで話す京。

「ったく、こいつ途中で根を上げて、この前よりもタイム落ちやがった、偉そうなこと言っているくせに」

 このサーキットトレーニングは二人一組だ。

 酸欠状態で運動していると、その回数や次に何をやるかも忘れるため「次はジャンプスクワット!」と言ったふうにびッたりくっついて必要なことを伝える。

 それに大吉のように途中でヘタレる人間もいる。だから延々とそれを煽る存在も必要なのである。

 びったりとバディにくっつき「ハイ次、ハイ次」と煽られるのだ。

 そして、京が言ったように正しい数値が記録に残る。

 前回のタイムなども記録に残るので、比べられる。だからタイムが前回より上がらず落ちた場合は『手抜き』と判断されるのだ。

「……だって、っきっつくて……やばい、まぢ入った、まぢ、まぢ」

 『じ』が苦しいのか『ぢ』になる大吉。

「大吉くん、本当にたいしたことないね」

 そんな大吉を見て笑う風子。

 次郎も京も笑ったいた。

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