第86話「素直になれないのはペンギンのせいではありません」

「ペ、ン、ギ、ンっ!」

 サーシャと花が入場早々水槽に向かって走っていく。

 小学三年生レベルのはしゃぎっぷりだ。 

「ねずみはダメなのに、ペンギンはいいんだ」

 次郎はぼそっと呟いた。

 そんな言葉も無視するほど、彼女は目の前の生き物に魅了されていた。

「ヒゲペンギンかわいいいいい」

 金髪女子が張り付かんばかりに水槽にすり寄ってるものだからいやでも目立つ。

「サーシャお姉ちゃん、ペンギンが驚くからダメ」

 そう忠告するのは花だ。

 この少女はこの家族では珍しくしっかり者であった。

「だって、だってかわいいんだもん、ああマカロニー」

 マカロニペンギンの黄色い羽根飾りに大興奮している。

 風子が彼女に近づくと、必死にどのペンギンが何で、このペンギンがあれでと詳しく説明された。

「あ、うん」

 説明書きに書いてあるから……と彼女は言い出せず、目をキラキラしたサーシャの説明を延々と聞かされていた。

 少し離れたところに幸子と大吉がいる。

 幸子はテンションが高いサーシャに近寄り難く、そして大吉はあんなことがあった後なので、風子から距離を置いていた。

「北海道とか、野生のペンギンがいっぱいいそうだけど」

 大吉が幸子にぼそっと話しかける。

 幸子が眉をひそめてペンギンを見ているのを気にして、軽い冗談のつもりで言った。

「いるわけないでしょう」

 冷たい声で返される。

「あ、うん……ペンギンとか嫌い?」

 ますます眉をひそめる幸子。

「嫌いじゃない」

「いや、でも……怒ってるし」

「怒ってなんか」

 彼は彼女に気を遣って声をかけたつもりだった。それに対して不機嫌さを含めてに言い返されたものだから一瞬ムスっとなってしまう。

 ――いや、気を遣うってこと自体が、なんか、俺、変かもな。

 そう思うとムスッとしていた彼の心がスーッと抜ける。

 改めて彼女を見ると、どことなくペンギンを見て楽しんでいるように見えてきた。

 ――けっこう好きだったりな。

 大吉はそう思いなおすと、彼女に対してなんとなく気持ちの余裕ができたように思えた。

「ペンギンってかわいいよな」

 彼が彼女にそう話しかけるが、不機嫌な態度は少しも変わっていない。

「そうかな」

 そんな反応だが、ちょっと大人になった大吉はにっこり笑いかえす。

 素直になればいいのにといった表情だ。

「キングペンギンッ!」

 二人が微妙うな会話をしているとき、その向こう側でサーシャが歓喜の声を上げた。

 彼女の目の前を高速で泳ぎながら、キングペンギンがいったりきたりしているのだ。

 涎を垂らさなんばかりに、サーシャは興奮している。

 その時だ、大吉が幸子の微妙な表情に気付いたのは。

 彼女は一瞬だが、頬を緩ませ、泳いでいるペンギンを目で追っていた。

 ――やっぱり好きなんだ……素直じゃねえ。

 お前もな。

 なんて誰かに言われそうだなっ……と、大吉は頭の中で思っていた。

「みんな! ペンギンに餌をやろう」

 サーシャはアジが十匹ほど入ったバケツを右手に、左手で次郎の手を引っ張り、イベント会場へと向かう。

 後ろを付いて行く風子、そして次郎。

 ――どんだけ、ペンギンが好きなんだよ。

 次郎はそう思うが、何も言わなかった。

 幸子と大吉もそれに続く。

 そんな中、次郎は気になることがひとつあった。

 車の中でチラッと目に入ったサーシャのスマフォ画面に映っていたロシア語のメール。あれが届いてから、サーシャのテンションがおかしいのだ。

 二、三度メールのやりとりをしていたのを次郎は見ていた。

 何か嫌なことでもあったんじゃないだろうかと思うのだ。

 そんなことを思い出しているうちに、同期たちはペンギン達がいる場所に向かっている。

 彼女たちが向かった先はすでに先客たちで賑わっていた。

 寒くないところに生きている種類のペンギン達に餌を直接渡せるイベント。

 そんな中、アジが十匹ほど入ったバケツを手にしたサーシャを先頭に、ぞろぞろと会場に入っていった。

 彼女の周りにくちばしを上にしつつ翼をパタパタさせる十羽以上のペンギンが寄ってくる。

「かわいいいっ」

 サーシャの顔がみるみるうちに上気する、そして、声が震えてた。

 アジを掴みペンギンの前に手をやると、パクッとペンギンがアジを食べる。

かわいいプりリェースナヤ

 地が出ているのだろう、ロシア語で感嘆している。

「ダイキチ、ほら」

 ぽいっと大吉に餌を手渡しし、投げろと催促する。

「お、おう」

 ペンギンが全然いない場所にポイッと投げてしまう。

「下手」

 ぷぷっと幸子が笑った。

「違う、わざとだ」

 大吉がふくれっ面でいい返す。

 よちよちとペンギンが餌に向かって歩いている姿を見て「うわ、大吉性格悪っ」と次郎がちゃかす。

「ほれっ」

 大吉はもっと遠くに投げると、水槽の中にぽちゃんと落ちた。

「あ、ひどい」

 幸子がぼそっと言った瞬間、ペンギンたちがぴょいっと水に飛び込み、地上とは見間違えるほどのスピードで水の中を泳いだ。

 そのペンギンは一瞬で餌を咥え、そして飲み込んだ。

「こ、こえええ」

 大吉が声を上げる。

「かわいいいい」

 歓喜の声を上げるサーシャ。

「すごい」

 この光景には、風子も感嘆の声を出した。

「あーあ、餌もこれで終わり」

 ほんとうに寂しそうな声を出すサーシャ。

「はい、ハナ」

 次郎の妹に餌の入ったバケツをみせる。

「最後はハナがあげて」

「……うん」

 恐る恐る花がアジを摘み、バケツの中から取り出す。すると、最後のエサと知ってか、ペンギンたちが突撃してきた。

「うわっ」

 その圧力に一歩二歩と少女が後ずさりしてしまう。

「花は怖がりだなあ」

 意地悪いことを言う兄。

「違う、怖くなかもん……うわっ」

 ぱくり。

 花が抗議をしている間に、ぴょんと跳ねたペンギンが餌を咥え、それを飲み込んだのだ。

 不意だったため、花がバランスを崩し、後ろに転びそうになったが、兄の次郎がひょいっと抱える。

「まだまだ子供だなあ」

 花は不機嫌な表情のまま次郎から顔をプイッとそらす。

「えー助けたのに、なんで怒ってんの」

 次郎がオロオロしている姿を尻目に大吉が皮肉っぽく笑った。

「あいつ、本当に、馬鹿だな」

「鈍感もあそこまでいけば有害ね」

 幸子も被せる。

「もう慣れた」

 と風子。

「罪深いジロウにお許しを」

 と十字をきるサーシャ。彼女はロシア正教徒である。

 こうして、彼らはペンギン餌やりイベントを終え、会場を後にした。

 この間、次郎は花の代わりに同級生達から、女心がわからないことに対してナジられていたことは言うまでもない。

「ペンギンっ」

 今日はペンギンかかわいいしかしゃべっていないサーシャ。今度は売店のマスコット――巨大ペンギンのぬいぐるみ――に目を奪われていた。

「もふもふしてるっ、リクチャンの百倍かわいい!」

 リクチャンとは帝国陸軍公式ゆるキャラである。

 古代エジプトの神にシーツを被ったような姿のものがあるが、それを緑色にして軍服着せただけのものである。

 目力だけあってあまりかわいくないゆるキャラだ。

 それとは正反対にかわいいデカいペンギン。

 サーシャはぺたぺた触っていた。

 そうしているうちに一番前に並んでいたサーシャと次郎はカキ氷と巨大ペンギンのぬいぐるみを手に入れ、先に土産物売り場に移動していた。

 次郎は二人になったことを確認して、気になっていたことをサーシャに話しかけてみることにした。

 すこし重い口調で声を出す。

「サーシャ、はしゃぎ過ぎじゃない?」

 彼女は屈んでぬいぐるみのお腹を触っている。そして、特に笑顔を崩すことなく口を開いた。

「だって、ペンギン好きだから」

「いつもだったら『そんな子供じみたことっ』なんて言い返すだろう、ずっと変なんだよ、なんか」

 ――車の中で携帯が鳴ってから。

 と言う言葉は飲み込んだ。

「ほら、ジロウもさすって」

 巨大ペンギンの腹を指さす。

「……だから、何があったんだって」

「ジロウらしくない」

 彼女の声のトーンは変わっていなかった。

「は?」

「なんで、こういうところは鈍感にならないだろう」

「また、鈍感とか……」

 彼女が振り向いた時、スーッと表情が一瞬だけ消え、そして笑顔に戻った。

 もちろん彼はそれを見逃さない。

「なんにもないんだよ」

「なんにもなくないだろう」

 彼女は巨大ペンギンの脇の下に手を入れてさすっている。

「楽しもうよ」

「なんで……」

「楽しまなくちゃ」

「だから、なんでそんなに無理してんだよ」

 彼は彼女の近くで中腰になり、顔を近づけるようにして声を出す。その声は自然に荒くなった。

 彼女は振り向かない。

 次郎はため息をついて、反応のない彼女をじっと見ていた。

 彼女は彼女で、うつむきながら、彼の妙な勘ぐりに対ししゃべりたくなる衝動を抑えている。

 ――本当に、たまーにこうやって人の弱いところに入り込んでくるからたちが悪い。

 彼女はそんなことを思っているが、どことなく心が暖かくなる感じも受けていた。

 ――だから……。

 その時だ、むにゅっとした感覚が次郎の後頭部にのしかかったのは。

「じーろちゃん、ずっと会えなかったからお姉ちゃん寂しかったなあー、ねえむぎゅうしようむぎゅう」

「もうされてるしっ」

 聖がのしかかるようにして後ろから次郎に抱き着いていた。

 前言撤回。

 サーシャは冷たく座った目でシスコン野郎を見上げた。

「ちょ、ちょっとこんなところで」

 かき氷を抱えた風子が声を上げた。そして、その後ろでは幸子と大吉が大仏のような顔で次郎の方を見ている。

「ち、違う、俺じゃなくて姉ちゃんが」

 次郎は中腰だった体をしゃんと伸ばし、聖も足を地面につける。

「じーろちゃん、じーろちゃん、ああよか匂い」

 くんくん次郎の首筋を嗅ぐ聖。

 異様な光景ではある。

 次郎が困った顔のまま顔を上げた。

「上田君、もしかして喜んでいる?」

「喜んでないっ」

 げっそりした顔の風子に対し、顔を赤くして否定する次郎。

「ええー、素直になったらよかとにー」

 聖が被せる。

「素直です」

「うそつきー」

「うそじゃないっ」

 素直になれない。

 それぞれの思いが、素直になればこじれることもない。

 そんなわかりきったことなのに、できないから彼らは少女であり少年であるのかもしれない。

 ムスッとした顔をした父親の横で、母親がニコニコ笑っている。

 ああ、青春だなあとでも思っているかのような笑顔だった。

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