第85話「近くて遠い国の予感」
「だから本当に……私たちはただのクラスメートですから……」
正確に言えば同じ中隊の同期という言い方だが、一般的ではない。だから風子はあえてそう言った。
「上田君はサーシャと幸子ちゃんのホームステイ先を提供しただけの間柄ですから」
だけ……ではないが、目の前の面倒くさそうな次郎姉――
「……ほんと?」
聖が念を押すように聞く。
すると風子だけでなく、次郎、幸子、大吉、そしてサーシャまでもがぶるんぶるん首を縦に振った。
この姉を敵にまわすと、せっかくの長崎観光が台無しになることがわかっていた。
粘着質かつ破天荒。
そういう印象だけで十分である。
と、いうことで彼らは長崎のペンギンで有名な水族館に向かう途中の車内である。
九人乗りのワゴン車。
次郎父が運転し、その隣に妹の
一番後ろの右の窓際に次郎が座り、それをガードするようにして聖が座っていた。
聖にガードされるようにして座っているのは大吉だ。
彼女は男同士がくっつくのも許せないようだ。そして、真ん中のシートには女子三人が座っていた。
「聖姉ちゃん……腕、腕」
次郎がコソコソと小声で拒否している。
あまり女子に聞かれたくない内容だ。
もちろん女子達にその声が聞こえてるから残念であるが。
「なーに?」
聖はそんなことを言いながら、胸の前で拘束している彼の左腕をギュッと抱きしめるようにした。
「いいかげん離してよ」
「やだ」
「……」
当初、女子達は冷たい目で次郎を見ていたが、まんざらでもない表情の彼を何度も見ているうちに、無視することにしていた。
シスコンというものに対して、この女子達の意見は一致している。
嫌だ。
なんかきもい。
ということで。
「弟さんって、ずっと前からむっつりスケベなんですか」
風子がそんな質問をする。
「うん」
即答。
「っちょ、姉ちゃん」
「人がね、着替えているときはよくチラチラ見とったし」
ニコニコしながら答える聖。
「あーそういえば、どさくさに紛れておっぱいば触っとったもんねー」
と母親がかぶせる。
「そ、そんなことしてないって」
ぶるんぶるん顔をふる次郎。
「やっぱり、むっつりなんだ」
と、スマフォをいじりながらサーシャ、先ほどメールでも着信したのか着信音が鳴っていた。
ちなみに幸子は無言。
「……ふーん」
風子はうなずきながら話を続ける。
「学校でも、そんな感じなんですよ」
「そ、そんな感じって」
サーシャが手を挙げる。
「ブラのホック外された」
「ええっ」
「まじで」
「……破廉恥」
風子、大吉、幸子の反応はそれぞれだ。
軽蔑、羨望、軽蔑。
「いてててててててて」
不意の激痛に次郎は襲われる。
ぱしぱしっ。
次郎がタップしているが、悲鳴は収まらない。
「大丈夫? じーろちゃん」
聖の胸に抱きしめられた彼の腕がピーンと伸びている。手首がダメな方向に曲がっていた。
「きまってる、きまってる、シャレにならないからっ」
悲鳴のような声で次郎は訴えるが、聖は笑顔のままである。
彼女も次郎と同様、父親の道場で古武術を習っていた。黒帯はもちろん指導員の資格を持っている。
くいっと次郎の手首関節を返している。
「じーろちゃん、お姉ちゃんは離れていたから寂しくなったとね、ちっちゃいころからおっぱい好きやもんね、だからサーシャちゃんのおっぱいを……」
寂しそうな顔で聖は言っているが、次郎の関節は更にダメな方向へ。
「違う、サーシャが先に暴力振るってきたから腹いせにっ」
「押し倒されて……」
サーシャは苦渋に満ちた声を出しているが、表情は意地悪な顔でニヤリ笑っていた。
目を見開いて驚くその他の男子女子。
「次郎……お前」
「そ、そんなことがあったなんて……」
大吉に続き、風子もかすれた声を出していた。
「次郎もさっそく大人の階段登ったとねえー」
母親が関心している。
「そこっ! 反応がおかしい」
息子がツッコミをいれるが、母は何度かうなずくだけである。
「サーシャちゃん、息子ばどうかよろしくお願いします」
「あ、はい」
サーシャもどう反応していいかわからずうなずいた。
「ひどかっ! お姉ちゃんだけだって言ったけん、させてあげたのに……」
「やめて、そんな誤解を生むような話、ほら同級生いるし、お父さんもお母さんもいるしっ」
「別に
「だから違うって、お母さんなんか言ってあげて、このままじゃ息子が変態にっ」
「姉弟が仲良かことは、親として嬉しい限りよねえ、お父さん」
「……」
父親は無言で運転。
「不潔」
幸子の一言が重い。
「やっぱり次郎、てめえ俺たち義兄弟の契りを……」
大吉や次郎、そして男子学生数名で共通目的のため義兄弟の契りを結んでいた。
目的は男子学生の生活向上のためである。
一、女性経験がないこと。
一、エロ本は共有し、かつ折り曲げたり、汚したりしないこと。
一、
そんな閉鎖空間でエロ本を共有するために結んだ義兄弟同盟である。
「裏切り者っ」
大吉は顔の前に手を組んで、狭いシートの中でお尻をふりふりしながら上目づかいで次郎を見た。
「違う、違うんだ、大吉」
「このスケベ!」
「スケベじゃない」
「ピュアだと信じていたのに」
「俺はピュアだー」
車内に響く悲痛な次郎の叫び声。
そんな彼の隣に座っている聖は相変わらず腕を握ったままであった。
しばらくそんな喧噪を続けながら車はペンギン水族館を目指して走っている。
『……続いて、ヘッドラインニュースです』
車内はFMラジオの音楽番組の合間のニュースが流れていた。
『東西ロシアの国境問題です』
山間部の道路を抜け、さっと風景が広がった。
『ヴォルガ川の停戦ラインで起きた一連の衝突をめぐり交渉が続けられているところですが、東のソ連……書記長が……』
曇り空のせいで、海も灰色だが学生達は窓の外のその風景に嬉しそうな顔をする。
『ロシア帝国のいかなる挑発に対しても民主主義の正義の下、断固たる対応で臨み、帝国国内の
「ソ連はいつも同じような事を言う」
次郎の父親が独り言ちに呟いた。
「ほんと、そんなこと言わんで、はやく仲良くすればよかとに」
次郎母がそんなことを言う。
「お母さん」
次郎が非難するような声を出した。
「なーに、次郎」
天真爛漫な返事をする母親に対して、次郎はため息をついた。
サーシャがいるのにそんな無責任な発言は失礼じゃないかと彼は思ったのだ。
だが、肝心のロシア帝国貴族のサーシャは窓の外の風景を黙って見ている。
「……なんでもない」
彼はむすっとしてシートに深々と座った。東西が分裂したロシアや日本、当事者の女子が二人もいるのに、母親がそんな簡単に物事を言うことが恥ずかしくてたまらないのだ。
母親のこういう軽々しい言葉が嫌いだった。
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