第87話「スーパーお嬢様に悩みはない」
ドスン。
ドスン。
板ばりの部屋に響く音。
神棚のある道場。
その音が聞こえる度に、天井から吊るされた重くて硬そうなサンドバックが床を擦りながら少しずつ動いていた。
ハイ、ロー、ミドル。
短パン姿の女子が、リズムよく蹴り分けている。
体の体重を下半身にどっしり乗せ、捻り込むような廻し蹴りだ。それを、一発一発丁寧に打ち込んでいる。
「サーシャ」
まだ薄暗い朝。
西の端にある長崎の夜明けは遅い。
次郎の声にも反応することなく、彼女は蹴り続けていた。
――サーシャが
昨日の水族館の時から感じていた違和感。
あのはしゃぎっぷり。
――サーシャが変。
風子がぼそり、次郎に言っていた。
水族館で注意深く見ていると、やはり違和感を感じた。
それが今確信に変わっている。
何かあったんじゃないか……いやあったんだと。
「なあ、サーシャ」
彼女は黙々と蹴り続けている。
バチン。バチン。バチン。
音が変わった。
左右にテンポを区切ることなく、速度を増しながら蹴っている。
体重はさほど乗っていないかわりに、だんだんと加速する蹴り。
鞭の様にしなる彼女の白い足。
足の甲の部分が赤くなっていた。
ドスン。
最後の一撃。
鞭の様にしなりながら、最後は骨盤をひねるような形で体重を乗せた。
彼女は打ち込んだ状態で止まる。そして、サンドバックに食い込んだ右足をゆっくりと下ろした。
ギュッとサンドバックを掴み、それを体重をかけて引っ張るようにして元の位置に戻す。
それを吊るしたゴツイ鎖がギリリと唸った。そして、クルリと彼女は回る。
おかっぱ金髪がふわりと浮く。
「おはよう」
彼女は何もなかったかのようないつもの顔で次郎に声をかけた。
「……おはよう」
「えっち」
「……な」
「女子のトレーニングをチラチラ見るなんて、スケベ」
「なんじゃそりゃ」
「汗ばむ金髪美少女を見てハアハアするとかド変態」
「するわけねえっ!」
いつものサーシャだ。こんな理不尽なことを言ってくるなんて、いつもと変わらないじゃないか、そう彼は思った。
心配することなんかない。
――いや……なにか違う。
「昨日、何があった?」
「次郎の家って、道場まであって……ほんと日本的よね」
会話が噛み合っていない。
ちなみに彼女が日本的だというのは、そういう道場のある家に居候たちが転がり込むようなアニメの影響である。
彼女の日本文化に関わる知識はその方向から吸収していた。
男子が水を被ると女子に変わったり、倉庫の魔法陣から英霊が召喚されたり……。
「だーかーらー」
「でも庭に池がない」
「パンダにでもなるつもりかっ」
「……けっこう古い漫画見てるよね」
「姉ちゃんの本棚にあった」
「……う」
あの姉と同じ漫画本を読んでいるという事実に、少しサーシャは戸惑ったようだ。
「悩みってのはさ……」
「悩みってのは、何?」
「あれだよ、あれ、なんというか一人で抱え込まない方がいいっていうか、中村も山中も心配しているというか」
「悩みなんかない」
「でも、おかしい」
「おかしくなんかない、昨日もあんなに楽しんだ」
「……」
「でも」
「でも?」
「ちょっと、
グーを突き出すサーシャ。
「ちょっとまて、女子がそれを言うって」
「あーやだ、女性蔑視発言」
「あ、いや」
「じゃあ、あれね、ルールは寸止め」
「寸止め」
「そう寸止め」
「寸止め」
「ジロウ……なんで、そこを強調する」
顔を伏せる次郎。
まさか、えっちなことを考えてしまったなんて言えなかった。
「だ、だって、ぜったい当ててきそうだから」
「そんなことはしない」
「あの時は……」
「あれは、挨拶代わりだったし」
はじめて二人が会った時のことだ。
次郎がサーシャに襲われたと言ってもいい。
あの理不尽な攻撃に対し、次郎はブラのホックを外すことで意趣返ししていた。
「今日はホックないやつだから」
「そんなことは聞いてない」
「だって、さっきからおっぱいばかり見てるし」
「見てねえー!」
その瞬間だった。
一瞬にして間合いを詰めたサーシャが次郎の目に指を突き出す。
「はい、おしまい」
固まる次郎。
視界が影のある肌色に覆われた状態だった。
瞬きすれば、彼のまつ毛が彼女の指の先に触れるような距離。
「ねえ」
「な、何?」
「弱っ」
「不意打ちですからっ」
「戦場じゃ、不意打ちなんて言えないし」
「ここは戦場じゃない、道場だから」
「うまいこと言ったつもり?」
「さすが、サーシャさん、いろんな漢字を知っていますね」
「ゲイデン家のスーパーお嬢様って知らなかった?」
お嬢様なら語学堪能とかそういう問題なんだろうかと次郎は思うが、面倒くさいことになりそうなので、何も言わない。
彼女は汗を垂らす次郎に向かって鼻で笑った。
「汗かいたから、シャワーを使う」
そう言って、彼女はクルリと踵を返し道場を後にする。
「人の家なんだから、借してぐらい言えよお」
次郎はぼそりと言ってみた。
やられっぱなしだったから。
「日本語難しいからわかんない」
クルリと振り向いた彼女はそう言って、すたすたと廊下を歩いていった。
ため息をつく次郎。
しばらくして、彼は道場の壁にかけてある
ブオンと空気を斬る音。
四つほど居合の型を彼は繰り返す。
汗が噴き出た体。
彼は額を拭うと、もう一度ため息をついた。
どうも、キレが悪い。
そういう表情だった。
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