第82話「大吉の勇気、そして」

 五人が歩いていると、階段と階段の間にちょっとした広場とベンチ、そして駄菓子屋を見つけた。

 彼らはそこで休憩。

 お店には正座したまま動きそうにないおばあちゃんと、駄菓子が並べられている。

 原色系の体に悪そうな菓子をそれぞれ買っていた。

 風子はジュースだけを自販機で買ったため、先にベンチに腰掛けていた。

 いっぽう大吉は長方形のビニール袋に入ったいちご味のかき氷を買って店を出る。そして、すらっと伸びた風子の足に目を奪われる。

 が、すぐに頭を振って視線をずらした。

 ああいう風に次郎に言われた後で目のやり場に困ってるだけだ、と大吉は自分自身に言い聞かせた。

 そんな空間に響くだみ声。

「にゃあご」

 猫にしては低い声だった。

 毛並みは悪く、元々白と思われる毛は灰色に汚れている。また、耳を半分ぐらい無くしカサブタが盛り上がってますます風体を醜悪に見せていた。そして、何より目つきが極悪な感じである。

 大吉はその極悪猫が風子を襲うのではないかと警戒した。

 のそり、のそり。

 猫は威嚇するようにして一瞬止まった。

 風子はスッと手を出す。

 スルスル。

 汚れた毛を手に触れることを嫌がらず彼女は頭に触れた。

 極悪猫は体を寄せ、彼女のすねに体をぶつける様にして甘えだした。

「しっぽ、曲がってるんだ」

 風子が頭を撫でるとしっぽが曲がったまま、ぴょこんぴょこんと動く。

「中村……大丈夫?」

 大吉がたまらず声をかけた。

「何が?」

「いや、その猫汚いし」

「うん、でも可愛いよ」

「ひっかかれたら、ばい菌」

「大丈夫、この子はそういことしないと思う」

 よしよし、といいながらごつごつしたその猫の背中を風子は撫でている。

「綺麗な子より、こういう感じの子の方が好きなんだよね」

「あ、そう」

 複雑な表情で大吉が曖昧な返事をする。

「野良の世界も生きていくのは大変なんだね、よしよし」

 風子は猫に話しかけながら、喉を撫でている。

 大吉もぼけっと立っとくのも変だと思い、風子の近くに行こうと歩き出す。するとその足音を聞いて、極悪猫が一瞬にして逃げ出してしまった。

「あーあ、松岡くんの事嫌いだって」

 そう言って風子が笑いだす。

「……あ、いや、ごめん」

「謝ることじゃないよ」

「いや、だってかわいがってたし」

「ここは野良猫王国でしょ、ほら、時間はあるし、いくらでも遊べるみたいだから」

 風子は昔から野良猫に好かれる体質なのだ。

 野良猫に触れることは慣れているが、さすがにここの多さにはびっくりする反面、心躍る気分もあった。

 金沢は冬がきついせいもあるのだろうか、野良猫がいないのだ。

「ああいう子、ほっとけないんだ」

「さっきの、汚いやつ?」

「うん、中学でも、ああやって悪ぶってるっていうか、家庭の事情で拗ねてる女子とか、男子とか」

 舞鶴にいたころ、風子はいじめに対して断固たる態度で対応したため孤立していた。その反面、そういうひねくれた後輩女子男子に慕われ『姐さん』扱いを受けていた。

 旅のせいもあるのだろうか、そういうことをぽつりぽつりと大吉に話していた。

「あー、その意外だった、もっと中村って社交性あるから、友達いっぱいいるような女子だって思っていた」

「なんか、後輩の男子でも、不良っぽい子が寄ってくるから、同級生の女子も男子も敬遠されちゃって」

 トホホと言った顔をする風子。

 大吉は急にぐいっと顔を背ける。

「お、次郎、俺と同じかき氷買ってきたんだ」

 急に話題を変えた大吉の表情はムズムズと動いていた。

 ――やべえ、めちゃかわいい。

 あの極悪猫を撫でている慈悲深い顔。

 初めて会ってキツイ表情で睨んできた顔、そしてトホホと力が抜けた感じの顔。

 自分にあんなに穏やかな顔を向けてくれたということが、大吉はうれしかった。

「大吉、早く食べないと半分ぐらい水になっちゃってるって」

 次郎は大吉が手に持っている袋入りかき氷がタプンタプンとただの赤い液体になっているのを見て笑っている。

「もしかして、俺が帰ってくるの待ってた?」

 そんなんじゃないって、と大吉は言おうと思ったが、まさか風子に見とれていたから食べるのを忘れていたなんて言えるはずもなく、曖昧に相槌を打つだけだった。



「夕日すごいの見れるから」

 午後七時になる時間になっても、まだまだ蒸し暑い。

 蝉も暑さに負けるかと言わんばかりにわんさか鳴いている。

 山の上の見晴らしの良い公園で、北向きに長崎湾を見下ろすような形で立っていた。

 次郎の言葉通り、長崎市を一望できるそこは夕日が港の水面や、船、ビルに反射してキラキラ美しく光っている。

「もうすぐ、空が真っ赤になるから」

 太陽を背にして立つ、稲佐山いなさやまの緑が赤く染まっていた。

「ジロウ、あの山のてっぺんに鉄塔がいっぱいあるけど、何?」

 サーシャが指を差して次郎に質問した。

「ロケット」

「真面目に答えなさい」

 サーシャが訝し気な目で次郎を睨む。

「ごめん、小学生のころは本当にあれがロケットだと思ってたんだ」

「……頭悪い小学生」

 少しバカにした感じで風子が笑う。

「悪かったね、馬鹿で……あれはただのアンテナ、こんな山に囲まれているから、あそこにいろんな電波塔が立ってるらしいよ」

 次郎が口を尖らしてしゃべった。

「あ……」

 幸子が、感嘆の声を上げた。

「なんか、すごい……」

 彼女は北海道の内陸部の牧場地帯に住んでいた。そのため、こんな狭い土地の夕日なんか、あの広大な大地の風景に比べれば大したことがないと思い込んでいたのだ。

 紫色とオレンジの空、見下ろす地面には長崎特有の密集した建物から人工の光が輝き、昼と夜の境目がない時間が一瞬だけ演出されている。

 稲佐山に沈む夕日は大きく、港の水面を真っ赤にしていた。

 次郎は次郎で毎日見ていたこの光景を久々に目にして、やっぱりすごいものだということを確認していた。

 離れてわかる、生まれ育った町の毎日見ていた、何気ないなんともいえない風景。

 五人とも時が止まったかのように、じっと夕日を見ている。

 陸軍少年学校に来て五ヵ月。

 金沢という、遠く知らない土地に行き、そして今は長崎という、また知らない場所に立っている。

 旅行とかでもそんなに遠くへ行った経験のない少年少女達は、そのなんともいえない不思議な感覚で心が震えていた。

 しばらく、誰もしゃべることもなくじっと夕日が沈む光景に魅入り、そして紺色の空になったころ、ぽつりぽつりと歩きだした。

「きれいだった」

 と風子。

「うん」

 と幸子。

「モスクワの夕日も綺麗だから、みんなに見せたいな」

 サーシャがぼそっと言う。

 大吉は無言。

 じっと、思いつめたような雰囲気だ。

「あ、さっきの野良ちゃん」

 風子が、薄暗い路地で立ち止まり、極悪猫が塀の上に座っているのを見て立ち止まった。

 次郎とサーシャ、そして幸子は風子が立ちどまった事に気付かず歩き続けている。

 入り組んだ路地をすでに曲がった後だったからだ。

「中村……」

 大吉はそれに気づいて、止まっていた。

「目つきが悪い子なんだよなー、食べ物買っておけばよかった」

 そんなことを言っている。

 塀の上に手を伸ばすと、極悪猫がその手にすり寄った。

 大吉もさっきのこともあったからだろう、ゆっくりと風子に近づく。

「あ、あのさ」

「ん?」

 風子はいつになく、モジモジしながら話しかける大吉のことを不思議に思った。

 でも、とりあえず、その時は目の前の野良猫に集中していた。

「お、俺」

 かりかりと喉を撫でる風子。

「中村と付き合いたい」

「ふーん、そーかー」

 かりかりと喉を撫でる手が止まる。

「ええっ!?」

 彼女が驚いて大声を出したため、極悪猫が塀を反対側に飛び降りて逃げ出してしまった。

「本気なんだ」

 じっと目風子の目を見て大吉が言った。

「俺は中村が好きだから」

「ちょ、ちょっと」

 風子は中学で告白されたことはある。

 だが、それは親しい間でもなく、自分のことを憧れた後輩の男子とか、女子とかで、なんとなく今の大吉の真剣さとは違う空気があった。

 大吉の声。

 大吉の喋り方。

 それはとても真剣だというのは、風子にも実感できるものだった。

 だからこそ緊張した。そして驚いた。

 心臓がバクバクいっている。

「あ、悪い……いきなりこういうこと言って、あ、でも言っておかないと、気持ちが落ち着かねえっていうか」

 大吉もしどろもどろになっている。

「あ、ああ、うん、あの、なんていうか、付き合うとか、そういうのわかんなくて……ごめんなさい」

「あ、いや、いいんだ、わかってるから、中村は好きな男いるってのも」

「ち、違う……本当にわかんないの、人を好きになるとか恋をするとか、そういうの」

「いいって、気遣いしなくて……」

「……本当、本当にわかんないから」

 ――松岡くんのことは好きか嫌いかでいうと、好きだし。

「うん、ありがとう……ごめん、俺ばっかりスッキリして、その友達は続けて欲しい、あー、ごめん、こういうこと、この旅行が終わってから言えばよかったって、俺ばっかだなあ」

「あ、うん」

「ま、気遣いなんてしなくていいからさ」

 そういうと、大吉は歩き出す。

 緊張のせいだろうか、手足がしびれているから、なんとなく変な歩き方になってしまっていた。

「本当にごめん、私、恋とか好きとかそういうの、ごめん、わかんな」

 ――いから。

 なんだか、とても悲しくて、風子は声にならなかった。

 そういう感情がわからない自分が、人間として欠陥品じゃないかという気もするからだ。

 誠実に真正面から告白した大吉に対しても逃げてしまった。

 いや、正直彼女はその気持ちを伝えただけだが、そう捉えらえたかもしれない。

 そんな風子はとぼとぼと歩くことしかできなかった。

「どうした、大吉」

 もう暗くなった夜空の下、玄関の前の街灯の下でいつもと雰囲気が違う大吉に次郎が気付く。

「なんか、この町、猫のしょんべん臭いから、目にしみた」

 彼はごしごしと右ひじで目をこすっていた。

「あー、そんなん明日には慣れる」

 次郎はそう答えた。

「たまんねえ、ほんと」

 大吉はそう言うと、空を見上げた。

 一番星。

 男の子はこのくらいじゃへこたれない。

「今日も山中寝ぼけてくるかな」

 ぐいぐいっと次郎の脇腹を突く大吉。

「ばっか、聞こえるって」

「女子が隣で寝てるってのに、何もできないっての」

「覗きは犯罪だからな」

「覗かなきゃいい」

「アホ」

「あーあ、俺も次郎みたいにラッキースケベの星の下に生まれたかったなー」

 はははと笑って、玄関をくぐる。

「ばっか」

 後姿を見て、次郎はつぶやいた。

 長崎二日目。

 大吉にとって、長い一日だった。

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