第83話「姉降臨 上」

「ダイキチ! 靴をそろえる、お行儀悪い」

 玄関でサーシャに怒られる大吉。

 ロシア人に履物の置き方で説教されるなんて日本人として情けなくないのか。

 ――まったく西の人間は。

 と幸子は思う。

 そんな彼女は靴を脱いだ後クルリと背を向け、ちゃんと靴をそろえた。

「お邪魔します」

 出迎えに来た次郎母にぺこりと頭を下げた。

「お邪魔なんて思ってなかけん、ゆっくりしてちょうだい」

 ニコニコしながら次郎母が応える。

 幸子は一瞬固まって、そして笑顔でありがとうございます、と答えた。

 少しだけ北海道の母親を思い出してしまった。

「こらー、次郎! 手洗いうがい!」

 次郎母が振り向いて先に上がった次郎に声をかけているのに対し、彼は無視してずいずいと廊下を進む。

「洗面所でよーく手ば洗わんと」

 顔を赤くした次郎がひょっこり顔を出し「わかってる」と口を尖らして言い返した。

 同級生を前に子供扱いを受けると恥ずかしくなるお年頃。

「次郎ー! お友達を洗面所に案内せんねー!」

「はい、はい」

「返事は一回!」

「ふぁい!」

 あくまで抵抗する次郎。

 それがお子様なんだと、ここにいる女子は思った。

「お姉ちゃんがお風呂入ってるかもしれないから、男子は気をつけるとよ」

 ぞろぞろと手を洗おうと廊下を進む少年少女に対して母親が笑いながら声をかけた。

「へっ、ね、ねーちゃん」

 急に次郎が立ち止まる。

 サーシャは前を歩いていた彼の背中に顔をぶつけた。

「な、ジロウ、危な……」

 文句を言おうとしたサーシャが固まる。

 け反って。

「じーろちゃんっ」

 甲高く、かわいらしい声が廊下に響く。

「な……」

 なんだろうと、ひょこっと首を出した風子が絶句した。

「どーした……って、うわ」

 前の方を見ようとした大吉は急に視界が真っ暗になりもがく。

 一番後ろにいた幸子が前の状況をいち早く感知したため、後ろから大吉の目を塞いだからだ。

 彼女は大吉に「だめ、えっちだから、だめ」と言っている。

「パ、パンツ!」

 サーシャが叫ぶ。

 そう指さして叫んだ先には、小さめの赤いパンツだけを履いた女性が次郎を抱きしめていた。そして、そのぷりんとした胸で次郎の顔を挟んでいる。

「もごっ」

 次郎はなんとか脱出しようともがくが、パンツ一枚の女性に、腕を組むようにして関節をきめられ動きがとれない。

「破廉恥っ!」

 サーシャが目を吊り上げて糾弾する。

「ちょ、何が」

「だ、大吉くんは見ちゃだめ」

 幸子は後ろから大吉に抱き着くようにして目を塞いでいる。

 密着するふたり。

 だが彼女は目の前のありえない光景に動転し、恥ずかしさを感じることなく目隠しを続けていた。

 大吉は思ったよりも弾力のある優しい感触を背中にうけているが、何が何だかわからないため堪能する暇もない。

 むぎゅっ。

 女性が女子たちの存在に気づいたと同時に、その腕に力を加える。すると次郎は「おげっ」と潰れた声で唸った。

 スー。

 彼女の歓喜の顔がみるみるうちに無表情になり、そして、その目が座った。

「……何、この女達」

 声のトーンが一オクターブ下がっている。

「じーろちゃん、ねえ、何?」

「……っ、ちょ、ちょ」

 もがく次郎。

「わたしのじーろちゃんが女子と遊ぶとか……そんな破廉恥ばするなんて、破廉恥ばするなんて、破廉恥ばするなんて」

 念仏のように唱えながら、女子達を睨みつけ圧倒している。

「は、破廉恥とかしてませんからっ」

 風子が叫ぶ。

 じっと風子を見た後、女性は視線を逸らす。

 無視。

「ねえ、かわいいじーろちゃん、お姉ちゃんにいに戻ってきたとよね、ねえ、いとしのじーろちゃん」

 ぱく。

 次郎の耳たぶを唇で挟む。

「え、えええ、は、破廉恥! 破廉恥すぎるっ!」

 サーシャ本日二回目の破廉恥宣言だった。

「じーろちゃん、あんな髪の毛を脱色した不良と仲良くしとると?」

「地毛だっ!」

 今にもとびかかりそうなサーシャを、風子が羽交い絞めにして止めている。

「なに、いい年したおばさんがパンツいっちょで人前に立ってるなんて」

「うるさかねー、不良」

「不良じゃないっ! 地毛! ロシア人」

 サーシャが金髪を逆立てながら反論する。

「不良からお姉ちゃんが守ってあげるけんね、じーろちゃん、ねえ、じーろちゃん」

 ぎゅう。

「ごぼっ……た、たちけ……」

 息ができない次郎の命は風前の灯。

「このお!」

 サーシャが跳んだ。

「ジロウは私の下僕だっ!」

 ひどいことを言いながら次郎の首に手を回し、引き離そうとする。

 次郎の顔が、女性の胸から離れた。

「ぷはあ」

 彼が安堵するのもつかの間、今度はするりと回されたサーシャの腕が首に巻きつく。

「げほっ」

 パンパンパン。

 入った! 入った! と叫びたいが声がでないため、次郎は必死にタップする。

「は、早く、は、破廉恥なんだから、か、隠しなさいよ」

「じーろちゃん、そんな不良に騙されとると? かわいそうに、だからお姉ちゃんは、心配で心配で」

「不良じゃないっ!」

 サーシャはむきになって否定、猫が威嚇するかのようにフシャーと言って半裸の女性に向き合っていた。

 いっぽう風子は身動きできずににいた。さっき、大吉に告白され心が揺れているのに、戻ってきたら裸の女性が次郎に抱き着いているのだ。

 男子がいるのに半裸姿を恥ずかしがる素振りもみせない。

 目の前の状況にただひたすら混乱している状態だった。

「へ、変態……」

 だからこういう言葉が自然と出てしまう。

「ああああああああああ!」

 サーシャの腕をほどき、次郎が叫んだ。

ヒジリ姉ちゃん、いい加減にしてくれっ! なんで帰って来てるんだよ! つうか、服着ろよ!」

 その剣幕に、聖と呼ばれた女性が一歩後づさる。

 上田聖、二十三歳大学院生。

 次郎の八つ離れた姉である。

「だって、電話したって出らんし、メールしたって出らんし、わたしのじーろちゃんが、不良になってないか心配で心配で……」

「着信拒否してるって言ってたでしょ!」

「ひどか、こんなに愛しとるとに」

「俺は愛してないっ」

「結婚ばするって約束したことは嘘?」

「それは幼稚園のころっ」

「一緒にお風呂入ってたのに」

「それは中学生までっ」

 げし。

 サーシャが彼の背中を蹴った。

 次郎はその反動で四つん這いになりつつ、恐る恐る金髪娘を見上げた。

「シスコン」

 汚物を見る目とはこのことかもしれない。

「……あ、いや」

 そんなサーシャとは対照的に聖は満面の笑だ。

「寝る前にちゅーしないと眠らなかったのに」

「あれは無理やり」

 次郎が振り向くと、女子達は死んだマグロの目をして彼を見ていた。

 この瞬間、もう二度と昔には戻れないと彼は痛感しながら涙する。

 絶望次郎。

「こんなに愛しとるとよ」

「だから、姉弟きょうだいとして」

「じーろちゃんの、オムツ変えてやったのに、かわいいちんちんがチンってついてて」

「あーはいはい」

「今はあんなに成長して……ああ、それにじーろちゃんのはじめてもらったのに」

「ちょ、ちょっと誤解生むような発言やめてっ」

 次郎は振り向かなくても、背後の女子から凍るような視線を感じている。

「足にもちゅうしたし、手にもちゅうしたし、おへそもちゅうしたし……」

「あああああああ」

「今でもじーろちゃんはかわいかし」

 聖の視線は次郎の股間に向けられる。

 その目は潤んでいた。

「やめてえええ」

 げし。

 風子がお尻を蹴った。

「シスコン」

 彼女の声は氷点下である。

「上田君……」

 幸子は同情の声だった。

「強く生きよう、シスコンでもまだやりなおせるわ」

 こういう称号レッテルに対しては、どこまでも優しい彼女である。

「違う、違うんだ」

「だって、おっぱいもよく触ってたし」

「そ、それは幼稚園」

「中学一年生」

 しれっと、やばいことを言う姉である。

「次郎、お前……」

 この場の空気では声にだして言えないが、心のなかではうらやましくてしょうがない大吉。

 彼は男兄弟しかいない。

 少しだけ羨望の眼差しを向けていた。

 四つん這いになった次郎の太ももにローキックをいれるサーシャ。

 彼女にも兄はいるが、こんなにイチャイチャするような兄妹ではなかった。

 だから理解どころか、異様さしか感じない。

 実際のところ、あの妹好きツンデレ兄はそういう態度を一度もとったことがない。彼女自身はそんな兄の愛情をまったく感じたことがなかった。

 これはこれで、こじらしている兄妹愛なのだが……。 

「シスコン、変態」

「変態じゃないっ」

「シスコンは認めるんだっ」

「そういうツッコミはやめてよっ!」

 次郎はそんな悲鳴に似た声で反論しながら立ち上がり、聖を風呂場の脱衣場に押し込もうとする。

「え、いっしょにお風呂に入ってくれると? お姉ちゃんうれしかー」

「違う、早く消えて……」

「だって、この前いっしょに入ったのは一年前……」

「サバ読むなっ! 三年前!」

「不良と付き合うから、お姉ちゃんに対して、こんなに扱いが雑になっとるとね……」

 彼は聖の言葉を無視し、ぐいぐいっと脱衣所に押し込みドアを閉めた。

 押し開けようとするドアをお尻で抑えている。

「シスコンだ」

 とサーシャ。

「うん、シスコン」

 と風子。

「……ナマシスコン」

 幸子がつぶやくように言う。

 こんな姉と弟の関係は漫画の世界だけだと思っていた彼女。

「そういう言い方はやめて」

 次郎は泣きそう声で訴えるが女子三人は無視。

 相変わらず冷たい視線を彼に向けたままひそひそ話しをしている。

 ぽんっ。

 大吉が肩を叩いた。

 次郎が見上げ二人の目が合う。

 彼は目を細めて無言でうなずいた。そして、思いつめた顔で口を開く。

「……お前、童貞じゃなかったんだ……」

 みるみるうちに次郎の顔が真っ赤になった。

「違うわっ!!」

 家中に響くような大声で次郎は叫んだ。

 こんな理不尽なことがあっていいのだろうか、と天井を仰ぐ。

 遠くから叫ぶ、母親の「やかましかっ」と言う声が響いていた。

 ――絶望すぎるっ。

 嘆いても、次郎は不幸な星の下に生まれているからしょうがない。

 そうやって、姉事案は落ち着いていった。

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