第75話「襲撃」

 彼らは仲居に連れられて、裏山のあぜ道を歩いていた。

 女性にしては、どんどんと前を歩いていくな、と次郎は思っていた。

 車が一台通ることができるぐらい狭い木々に囲まれたあぜ道だ。

 暗い道を懐中電灯頼りに歩いている。

「もうすぐです、ちょうど音楽も聞こえて花火もよく見れる、そんなとって置きの場所があるんです……あ、見えました、向こうの広場に」

 彼女はそう言うと、そこで足を止めた。

「仲居さん、ありがとうございます、学生も喜んでいますので」

 付き添いできている晶がお礼を言っている間に、その広場の向こうに広がる、キラキラと瞬く星空に向かって学生達は走りだしていた。

 サーシャが真っ先に丘の上にたどり着くと、日本海と海岸、そして星が見える美しい世界だった。

 一九時五〇分。

 花火が始まる時間まであと一〇分。

 すでに空は暗く、海岸の提灯の光がまばらにあって、それが海面に反射してキラキラしている。

 ロシアとは違い小さい風景だ。

 日本で言う箱庭。

 この美しさはそういう感じなんだろうと彼女は実感した。

 その瞬間、ゾクッとした。

 美しい風景を見たからではない。

 丘の下を見たからではない。

 彼女が訓練で身につけた、防衛本能だった。

「やっと、捕まえ……」

 無表情な少女の声。

 サーシャは後ろから首に腕を回された瞬間、体を躊躇なく地面に転がすようにして、その腕ごと相手を投げ飛ばす。

 投げられて転がる小さな体の手には、黒い物体が握られていた。

 カーボン加工がされているナイフ。

「来るなっ!」

 彼女がそう叫んで学生達を制する。何事かわからないが、その鋭い声に大吉達は立ち止まる。

 そんな中、一人だけ動いた学生がいた。

 次郎だった。

「お父さんもお母さんも勝手な事をして……」

 意味不明な言葉を乱暴な息遣いのまま吐く少女。

 その声は明らかにサーシャ達が聞いたことのある無表情な声ではなかった。

 苦虫を潰すような負の感情にあふれていた。

「この女さえ、やっちゃえば、すべてうまくいったのに」

 少女はそう言って、姿勢を低く左手に得物を構えた。

 最初の一撃で決めないと、手ごわい相手だということを少女は知っている。だから、恨み言がこぼれていた。

 次郎が何か叫ぼうとする。

 だが、サーシャが先に動いた。

 少女はほんの一瞬だけ驚いた顔をする。

「素手で得物に向かうとか、バカっ!」

 次郎がそう叫ぶ。だが、サーシャは既に少女との間合いに入っていた。

 少女は小さくナイフを動かしサーシャの腕にプレッシャーをかける。その細かい動きは隙がなく、一旦間合いを詰めたものの、サーシャは後ろに一歩、また一歩と下がり始める。

 サーシャもまた、相手が玄人であることに気付いて、間合いを不用意に詰めたことを反省していた。

「次郎とチューした子っ!」

 サーシャが声を上げる。

「あの子、確か、仲間になるって」

 風子が言葉を漏らす。

 もう襲いません。

 あの母と娘は後夜祭でそう宣言したのだ、サーシャの兄に雇われたとか確か言っていたはずだ。

「また裏切ったってことか」

「違う、裏切ったわけじゃない、これはあれとは別! わたしが決めたこと!」

 左右に掻くように得物を動かす少女から布一枚の差で見事に避ける。

「同じ」

「違う」

「お前なんかに、恨まれることなんか」

「ロシアが悪い」

 少女は上下することなく一気に間合いを詰める。

「は?」

 サーシャはそう言いながら、得物の左手を右手で押し下げるように制し、肩と肩を密着させうようにしてせり合いを始める。

「お父さんを戦場に連れていくロシアが悪い」

「言っている意味がわかんない、頭悪い?」

「うるさいっ、あんたさえ死ねば、日本はロシアを助けない!」

 少女が思いっきり体をぶつけて間合いを切ろうとしたところを、サーシャは力を抜くようにして体を倒し、スルーした。

 つんのめった少女の膝を曲がらない方向に蹴り崩そうとするが、彼女もバランスを崩し、そのお尻を蹴ることしかできなかった。そして、互いに転がるようにして間合いが離れた。

「なんで死んでくれないのっ」

 少女は立ち上がり、泥に汚れた顔を拭おうとせず、雄たけびを上げた。

「なに、それ、ガキ?」

 子供が駄々を捏ねるような声を上げる少女に対し、サーシャは呆れた声を出す。

 まったく話が噛み合わないのに、命を狙われているのだからたまったものではないのだが。

「まって、ほら、落ち着けって、俺と仲直りのチューしたんだろう」

 二人の間に割って入る次郎。

「よくわかんないけど、ほら、サーシャだって生意気だけど、恨みあるかもしれないけどさ、俺だって今は奴隷扱いされてるとか意味わかんない状況なんだけど」

 少女は彼を無視して立ち上がり、視線をサーシャに向けている。

「けっこうちゃんと話せばいいやつなんだって、サーシャは……ほら一時の感情でそんな物騒なことをせずに」

 まったく的外れの彼の説得に対し、彼女は見向きもしない。

 すっと彼の横を何も無いものかのように素通りして、サーシャに向かおうとする。

 ――くそ、正気に戻さないと。

 考えた。

 次郎は必死に考えた。

 昔から、こういう場合ショック療法が効くということを、漫画雑誌やドラマで見たことがある。

 相手はサーシャを本当に殺そうとしている。

 でも、正気ではない。

 そう、正気に戻れば。

 ――ええい、ままよ!

 彼が行動に移す前に浮かんだのは、白雪姫の一場面だった。

 すっと彼女の目の前に飛び入って、首に手をかけぶちゅっとキスをした。

 もちろん慣れていないからガツンと歯が当たる。

「あっ」

 とサーシャあんぐり口を開け。

「いひっ」

 と緑が喜び。

「うそっ」

 と幸子が手で顔を覆い。

「ええっ」

 と風子が驚き。

「おおおお」

 と大吉が叫んだ。

 ばちん。

 思いっきり次郎は少女に平手打ちをされる。

 そりゃ、そうだ。

「痛い!」

 その時だ。

 一瞬にして、緊張した空気が場を覆う。

「ジロウ!」

 サーシャが叫び声をあげた時、くぐもるような声を上げて次郎は膝から崩れ落ち、そして悲鳴を上げずに少女が転がっていった。

 それも一瞬だった。

「さて、邪魔者もいませんし」

 竹ぼうきを持った人間がサーシャの前に立っていた。

「仕事をさっさと済ませますか」

 竹ぼうきを片手で一回転させると、竹とは思えない重量で空気を切り裂き、ブオンと不吉な音が鳴った。

 それと同時に花火が破裂し、目の前の人間が照らし出される。

 竹ぼうきを持った女性は、さきほど案内してくれた仲居だった。

「君が死ねば、この国とあの国の関係が悪くなるからね」

 もう一度竹ぼうきが風を切って振り上げられた時、花火の重厚な破裂音が地面を揺らしていた。

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