第76話「綾部軍曹の甘さ」
「ふーこ! ダメ!」
サーシャが動揺を隠しきれないまま大声を上げた。
「余計な事をするな! 死ぬぞ!」
仲居が空気をしびれさせるような声を発する。
風子はびくっと体を震わせた後、その場で固まった。
石を仲居に投げつけていた。
自然に。
サーシャが危ない状況で、彼女はそれがやるべきことだと思ったからだ。
それは不意をつかれた仲居の肩に当たっていた。
もちろん、それで状況が好転するようなことはない。
ただ、仲居の悪意を増幅させただけだった。
仲居はサーシャから目を離すことなく、投げられた石を左手で拾う。そして手のひらのスナップを効かせて石をお手玉の様に真上に投げた。
「ガキは嫌いだ」
そうつぶやくと仲居は体を右足を軸にぐるりと勢いよく回す。
真下に落ちてきた石を掴むと、その回った勢いで風子に投げ返していた。
「次は殺す」
仲居はすぐにサーシャの方を向き、風子達に背を向けたままそう言った。
緑の悲鳴。
幸子が大吉の背中に手をあてる。
仲居は風子の投げた数倍の速さで石を投げていた。それはとっさに風子を庇った大吉の背中に深くのめり込んだ。
転がる石。
呻く大吉。
呆然とする風子は前から大吉に抱きしめられたまま、地面に座り込んでしまった。
「あ、ああ」
「大丈夫か……中村、馬鹿野郎……無茶しやがって」
「大吉君こそ、そんな、無茶」
風子は大吉の苦しそうな息遣いを聞いて狼狽する。
「私よりも、サーシャが……」
風子が声を上げるが、その前に幸子が立った。
「中村さん、いけない……私たちではどうしようも」
声が聞こえたのだろうか、仲居が一瞬だけ幸子を見る。二人は一瞬目があったが、仲居は特に興味がないような目だった。
「おりゃあ!」
その隙を突いて、サーシャが低い姿勢のまま滑り込んでいた。
相手の右ひざ目掛けて横から踏みつける様に蹴りを入れる。
「ふんっ」
仲居は短く呼吸をすると、ステップを踏んだ。
着物に触れるぐらいの僅差でそれを除け、ほうきの柄を下から上に回し上げる。そして地面の小石を彼女に飛ばした。
「……!」
思ってもなかった方法で目つぶし攻撃を受け、サーシャの動きが一瞬止まる。
仲居はその隙を逃さない。
必要最小限の動きだった。
ほうきを手から滑らすようにして、彼女の喉元に向けそれを突き出していた。
「ふんっ」
ほうきの目標が僅かにずれ、地面に突き刺さる。
何かが軌道を逸らしていた。
飛び込んだ次郎。
彼はふわりとした蹴りをほうきに当て、その軌道を変えていた。だが、仲居は止まらない。突き刺したほうきを軸にして、ぐるりと回るようにして跳ねつつ次郎の顔面に蹴りを入れてきた。
蹴り足は届かない。
仲居はそれでよかった。
間合いを切る必要があったからだ。
黒光りするナイフから逃れるために。
それはサーシャを襲っていた少女が手にしたナイフだった。
「……次郎は助ける」
「君は……」
学園祭の夜にキスをしてきた女子。
「ミワ」
少女は自分の名前を名乗ると躊躇することなく敵にナイフを投げつけた。
着物の裾でまくるようにしてナイフを流す仲居。そして、その血走った眼で少女を睨みつけた。
標的が変わった。
ほうきの柄がグンと伸びる錯覚。
遠間の突き。
ミワは距離があったため油断していたのか、流せない。
左腕ではじくように打ち込んで外すのがミワの腕では精いっぱいだった。左腕に感じた苦痛に顔を歪ませる。
ただの竹ぼうきではなかった。
硬すぎる棒。
金属の芯が入ってる棒。
次の攻撃を避けるため転がるようにしてミワは難を逃れる。
こうして仲居の間合いに入っているのはサーシャと次郎になった。
次郎は仲居に地面の小石と土の混じったものを投げつける。
確かに命中しているが、相手はまったく動じない。
仲居は無表情のまま、次郎が反応できない速度で動く。
「おえ……」
膝から崩れる次郎。
突き刺したほうきの柄がが彼の腹部から離れると、彼は地面にうずくまり嘔吐した。
「うりゃあああ!」
サーシャが跳んだ。
竹ぼうきが舞う。
彼女は華麗にステップを踏み、それを避けた。
彼女は探している。
隙を。
仲居は彼女を追い込むように突きを連続して繰り出すが、皮一枚のところで避けられた。
――強い。
避けながら、サーシャは感嘆の声を上げていた。
ロシア本国で格闘を教えてくれた教官以上だと思った。
下段の突き。
彼女は少しだけ体を動かし、その突き出されたほうきの上に足の裏を滑らせるようにして乗せる。そして、力強く踏み込んだ。
ほうきの柄が地面に突き刺さった。
「うらああ!」
気合一閃。
逆足で彼女はほうきを踏み込む。
パリパリ。
竹が割れた。
正確には竹だけが割れた。
彼女の足下には黒光りする棒。
棒が地面から掘り起こされるように振り上げられる。そして大量の土が空中に舞った。
理不尽な力で振り上げられたサーシャは面食らってしまい、辛うじてバク宙で着地しながらバランスをとる。
――やばい、サーシャ。
次郎は動かない体を引きずるようにして、サーシャを庇おうとするが、数センチしか動けない。
だが、絶望する中、彼は信じられない光景を目にしてしまった。
仲居の右手に棒状のものが飛んできて突き刺さっていた。
――棒手裏剣!
道場で父親が投げていたのは見たことがある。
だが、遠距離から投擲してこんなに正確に刺さるものではないことを知っていたから、驚きを隠せなかった。
ドスンと重たい音を立てて、ほうきだった金属の棒が地面に落ちる。
大きく間合いをきったミワが投げたものだった。
仲居は血が噴き出ている自分の右手を顧みることもなく、左手にある白刃を活かそうとサーシャに跳びかかった。
パンッ。
花火に比べれば軽い破裂音だった。
「止まれ!」
鋭く、そして迫力のある大人の声。
仲居の体が大きく揺れる。
脇腹に吸い込まれた銃弾。
だが、敵の踏み込んだ足は止まることなく跳躍した。
乾いた銃声がもう一度響く。
銃弾は外れた。
この二発を撃ったのは綾部だった。
いつものヘラヘラした表情は隠れ、鋭い目つきで敵を睨みつけている。
彼はできれば敵を狙おうとしていた。だが威嚇射撃しかできなかった。
サーシャと仲居の間合いが近かったからだ。
そこまで精密な射撃ができないことを、自分の拳銃射撃能力が未熟なことを綾部は十分承知していた。
綾部は初弾をヘッドショットで仕留めなかった甘さを呪ったが、後悔しても仕方がない。
確実に殺すことになるその一撃を彼は躊躇したのかもしれない。
「離れろ! 撃つぞ!」
そう綾部は威嚇するが、それが虚しいことだということは本人が承知していた。
敵は綾部が撃てないことをわかっている。
細かく切り刻むようにナイフを振るいながらサーシャに肉迫する仲居。
サーシャはなんとか二、三手をかわす。
だが、とうとう左手に数か所傷を負い、血がドクドク噴き出している。
緑と風子が悲鳴を上げた。
ギリッ。
サーシャが歯を食いしばる。
仲居が不意に転がったのはその時だった。
次郎がやったことだった。
彼は苦痛に顔を歪ませながら、身体を転がすようにして相手の膝に足を絡め、膝関節を極めながら倒した。
間髪を入れず、仲居の背中に棒手裏剣を投げ入れるミワ。
だが敵は突き刺さった痛みを感じることなく次郎ともみ合った。
敵は次郎が痛めた腹部を容赦なく肘で圧しながら、右手を次郎の顔面に置いた。そうしながらマウントポジションを取り、左手のナイフを振りかざす。
だめだ。
彼がゾクッと死の恐怖を真近に感じたのと同時だった。
「次郎は死なせない」
ぼたぼたと仲居の右手の指があった場所から血が滴る。
ミワだった。
跳躍し容赦なく敵の指を切り落としていた。
表情を変えることなく。
そしてそのまま、血のりのついたナイフを敵の首に突きこもうとした。だが、その刹那、仲居は指のない手を地面につき、そこを軸として体を大きく回した。
ぐるりと回した仲居の足が少女の首に吸い込まれる。
辛うじて、彼女の細い腕でそれを受けるが、身体は吹き飛ばされるようにして転がった。
仲居は止まらない。
今度は次郎の顔面めがけて右の拳を打ち込もうとしていた。
「止まれ」
静かでそして迫力のある声だった。
仲居が声の方を見上げる。
確実に頭を撃ち抜ける間合いにある銃口。
綾部はそれでも間合いを詰める。
「次は確実に殺す」
学生達が聞いたことがない、低く冷たい声。
次郎はその隙に少女から引っ張り出されるようにしてその場から離れた。
綾部の指が引き金を圧する。
すでに遊びの部分は殺していた。
その彼の微かに震えている指が次郎には見えた。
「全員動くな、そいつを解放しろ」
学生も綾部も聞いたことがない声だった。
花火が打ち上げられ、パッとその場が色とりどりの光に包まれる。
ジャージ姿の女性が法被を着た背の高い男に抱えられている。
女性の頭には拳銃のようなものが突きつけられていた。
「どけ」
仲居と同様に抑揚のない声。
一言一言が学生達を不安にさせるようなトーン。
「銃を渡せ」
男は綾部をじろっと見てそう言った。
敵がふたりに増えてしまった。
たぶん同じような猛者なのだろう。しかも、人質のジャージ姿の女性は日之出中尉。
形成が逆転したということを、ここにいる全員がわかってしまった。
仲居が右手を綾部に差し出す。
相変わらず無表情だ。
綾部は仲居を睨みつけたまま、銃をゆっくりと差し出した。
タンタンッ。
ダブルタップの銃声。
背の高い男が頭から血を吹き出して倒れる。それと同時に、仲居は奪い取った拳銃を手にして綾部との間合いを切った。
――危ないっ。
次郎が口を大きく開けて声を出そうとした瞬間。
キュルキュル。
その場にいた者達の視界が、まぶしい光に奪われる。
一瞬次郎は花火か何かかと思ったが、それは違った。
甲高いエンジン音。
綾部が次郎とサーシャを少女の方に引っ張るようにして、避難させる。
白い軽トラック。
「鈴! 無茶だ!」
叫ぶ綾部。
真田中尉――鈴――が運転していた。
彼女はサイドブレーキを踏んでハンドルを回す。
軽トラはグルリとスピンして、ボディ敵を弾き飛ばしていた。
シュンッ。
風を切る音。
次郎はふと思い出していた。
野中大尉だったか、実戦を経験したという教官が銃声が『シュン』の場合はやばいと言っていたことを。
至近弾だ。
仲居は軽トラにはじき飛ばされる直前にサーシャを狙って射撃していた。
距離は五〇メートル近く。
一般的な軍人でも当てるのは難しい距離だった。
パラリ。
金色のおかっぱから、髪の毛が数本抜け落ちるように地面に散らばった。
彼女は気丈にも、出かかった悲鳴をぐっと噛み殺している。
視線は車にぶつかり転がる仲居から外すことなく。
頭の芯がジーンとしびれる感じを味わいながら。
血の気が引いていた。そして彼女はこれぐらいでそうなってしまうこんな自分が情けないから、必死に歯を食いしばって立っていた。
仲居の前に立っている男の背中。
軍服。
「中隊長……」
加勢に来た敵を撃ったのは彼だった。
銃を倒れた男に向けたまま、その脇腹に蹴りを入れる。
生きているか死んでいるのか確かめているのだ。
次郎はその非日常的な光景を見て、何か夢でも見ているのではないかと思った。
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