第73話「獅子が兎を狩るにも全力を尽くすことは礼儀です」
――あと、二キロメートル。
黒帽子を被った集団の中で、風子は二回目の休憩が終わったばかりだ。
鳥肌がたった自分の体。
日が照ったら暖かいのに、なんて思っていたが、その態様は一瞬だけ雲の間から顔を覗かせた以外、ずっと分厚い雲に隠れている。
泳ぎながらちらっと、彼女は横を見てみた。
左側面を一人離れて泳いでいる次郎が気になるのだ。
彼は泳ぎが学生の中でも抜群にうまいため、通常は教官、助教が行う左側衛を任されていた。
その次郎がどうもおかしいのだ。
「上田君……」
彼女がそうやって顔色を伺うが、彼は前を向いたまま振り向こうとはしない。
ただ、ひたすら泳いでいる。
それは風子が見ても余裕のない泳ぎ方になっていた。
とにかく、身体を大きく早く動かしているように見えるのだ。
彼女は泳ぎながら右隣を見る。そこには、淡々と泳いでいる山中幸子もいた。
ふと目が合う。
幸子はちらっと見ただけで、また前を向いた。
風子に比べ全身がほっそりした感じの幸子は少し寒そうに見える。そして、唇が光の角度のせいもあるかもしれないが、青く見えた。
「山中さん、大丈夫?」
「ん、大丈夫」
前を向いたまま、彼女はそう答えた。
心なしか、声が震えている。
その時だ。
「くっ」
左横から、呻くような声。
次郎がいる方向から息が漏れるような声が聞こえた。
風子は次郎の方を振り向く。
彼の表情は変わらない。
ただ、集団から少し遅れているのはわかった。
「上田君、大丈夫?」
次郎は風子の方を向く。
「なんでもない」
なんでもない。
風子は、その言葉に違和感を感じた。
大丈夫と聞いて、なんでもない。
おかしい。
もう一度彼の方を見る。
ゴボッ。
無理やり顔を上げて息継ぎをしている様に見えた。
ゆっくりだった。
ゆっくり彼が顔を下げた後、しばらく顔を出さなかったのは。
水面から手のひらだけ出て、それが振られた時、警笛が響く。
一番後ろを泳いでいる教官――
陸地にいる日之出中尉はすぐに反応し黒い旗を大きく振る。それに呼応して、唸りあげるエンジン音が響いた。
鈴や綾部の乗ったボートが、猛スピードで黒帽子組の方へ向かう。
――上田君っ。
風子は悲鳴を上げそうになったが、とっさの事で声が出てこない。ただ、彼女が見たのは、クロールで自分の前を横切る幸子の姿だった。
次に振り向いた瞬間、幸子に後ろから抱え込まれ、頭を出した次郎の姿だった。だが、すぐに二人とも水面から消える。
「山中、手を離せ!」
頭山がそう叫び、次郎の腕を掴もうとする。
溺れた人間を下手に手助けし、幸子まで巻き込むわけにはいかない。
彼は最悪自分ひとりの犠牲にしようと瞬時に動いていた。
頭山の言葉で、次郎の背中に密着していた幸子は体を離すが、手を離すことはなく、彼のもう片方の腕を掴んで浮かんだ。
「離せ!」
頭山がそう怒鳴りつつ、引き上げようとする。
そして、なんとか次郎が顔を出した。
彼は彼で溺れながらも冷静だった。
暴れず脱力することに努めているから二人がかりで簡単に浮く事ができたのだ。
頭山はその状況を見て、これ以上離れろと言わず、幸子と二人でなんとか浮き上がろうとしていた。
そして、二人がかりで抱えているところに、浮き輪が空から落ちてきたのは数秒後のことだった。
「頭山少尉! 浮き輪使って下さいっ!」
綾部がボートの上から叫んでいる。
頭山は少し泳ぎながら手を伸ばし、浮き輪を掴んだ。
歓声があがる。
その瞬間、その場にいた全員がほっとした顔になった。そしてボートの上の綾部が、浮き輪についたロープを力強く引っ張っていた。
次郎が溺れた原因は低体温だった。
低体温による足のこむら返り。
彼はそれが起こったにもかかわらず痛みを我慢していた。そして無理矢理手だけで泳いでいたところ、体力が限界になってしまった。
ボートの上では我慢して限界まで泳いだことを綾部に慰められ、陸に上がったら晶に同じ理由でこっぴどく怒られた。
「溺れてパニックを起こした時点で、あのボートの上の二、三人が命の危険を冒してあなたを助けなければならなかったかもしれない、この意味はわかる?」
きつい口調で彼が怒られているのを、泳ぎ終わった風子とサーシャは見ている。先に泳ぎ終わっていた彼女は次郎から少し離れて風子のゴールを待っていた。
遠め目に見ても次郎の腕が白くなっていた。そして彼の背中もしょんぼりしていた。
「わかったならいい、無理をしすぎないということはこれからの人生でも当てはまることはいっぱいある、これから先はこの経験を活用しなさい」
そう言って晶が去った後、しょんぼりした彼の背中に忍び寄る影があった。
抜き足差し足で砂浜を歩く綾部。
不意を突くように彼の頭に手を回し、いきなりヘッドロックをかける。
彼女には綾部が「スケベ」とか「マゾ」とか「マグナム」なんて言っているのが聞こえる。それはなんとなく、おっさんが次郎にセクハラしているように見えた。
サーシャはずかずかと歩き出す。
おっさんにギリギリ頭を絞められてる次郎の前に彼女は仁王立ち。
「ジロウ」
透き通る声でサーシャは次郎を呼んだ。
「う……サーシャ」
明らかに嫌そうな声を出す次郎。
「何キロでリタイア?」
いつもの高飛車な態度だ。それは二キロメートルを泳ぎきった自信から来ているのだろう。
「四キロちょっとまで……だけど」
「負けた」
しゅんとするサーシャ。
もともと勝てるはずがない勝負だった。
にも関わらず、心底悔しそうに唇を噛んでいた。
そんな二人のやり取りに、援護射撃の声。
「リタイアってことは記録無効じゃない?」
そう言ったのは風子だった。
泳ぎ終えた彼女がいつの間にか近づいていた。
複雑な気持ちもあるけど、今はとにかくサーシャを助けたかった。
「……」
次郎は風子を見て何か言おうとしたが、やめた。
彼にとって、勝負はどうでもよかったからだろう。
それよりも晶の言葉が、ずっしりと彼に突き刺さっていた。
側衛を任せられながらリタイアして、しかもむきになって我慢したから教官や同期に迷惑をかけてしまった。
それに同期の幸子に助けてもらった。
未だにお礼もいっていなかったから、早く言いたかった。
助けてもらった以上に、彼はまだ背中に幸子の柔らかい感触が残っている気もしている。
転んでもムッツリスケベ。
とにかく、彼はここを丸く収めたかった。
そんな彼の気持ちも知らず、サーシャがじっと次郎を見た。
彼も顔を上げた。
「私の勝ち?」
次郎はこくりとうなずく。
「うん」
風子も同意の言葉をかけた。
「やった」
サーシャは笑顔になった。
キラキラして爽やかな表情。
風子が抱き着く。そして、喜びのあまり二人でピョンピョン跳ねていた。
二人が落ち着いた頃、サーシャは一歩だけ踏み出して、次郎との間合いをつめる。
「奴隷」
その言葉を彼女が出した時、一瞬にして悪い顔に変わった。
「ふふふ、服従しなさい」
いつもの高飛車な声。
「そんな約束はしてないっ」
「した」
「いつ?」
「軽歩の時」
「あれはあれ」
「あれはこれ」
「詐欺だ!」
「さあ、何でも言うことを聞きなさいっ!」
サーシャが次郎に右手の人差し指を立てて宣言した。
だが、彼女はすぐにその手を引っ込め、驚いた顔に変わった。
「サーシャ」
風子が後ろからサーシャの腕を掴んだからだ。
「え……」
彼女はその手の方に振り向く。
風子は無意識に手を出していた。
サーシャに肩入れしたかったはずなのに、感情が揺れてしまったからだ。
馬鹿なことだけど、ずっと我慢して泳いでいた次郎に対してあの学校祭の夜からくすぶっていたものがまた出てきたのかもしれない。
――このままでは、サーシャに……。
「あのね」
小さい声。
「サーシャ、あのね」
――なんとかしないと。
ふり絞るように、声を出そうと彼女の腹に力が入る。
「私にも、私にも勝負の取り分、ちょうだいっ!」
風子は自分で言った言葉に唖然となる。
もちろん、サーシャと次郎は目を点にして口を開けたまま固まった。
「あ、うん」
うなずくサーシャ。
次郎が信じられないという表情で彼女を見るが、無視された。
こうして、次郎は勝手に二人の奴隷になることが決定したようだ。
もちろん、いつものように彼は無視するつもりではあるが。
そして、彼女たちも次郎に何をさせようかというプランもなかった。
でも、一応奴隷である。
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