第72話「遠泳訓練本番!」

 灰色の空、灰色の海。

 サーシャはトレーニング用の水着姿で準備体操をしている。

 だが、その顔は怒りで紅潮していた。

 ――屈辱すぎる。

 頭の中で、何度も唸った言葉だ。

 原因の男――上田次郎――を睨む。

 彼は何食わぬ顔をして、だいぶ離れた場所で準備体操をしていた。

 遠泳訓練当日。

 陸軍少年学校一年生のビックイベントである。

 上級者――黒帽子組――は六キロメートル、中級者――白帽子組――は四キロメートル、そして初級者――黄色帽子組――が二キロメートル。

 組ごとに分かれた学生は目の前に広がる日本海をその距離だけ泳ぐ。

 そのため、七月も半ばにもかかわらず肌寒い曇り空の海岸で、お揃いのトレーニング用水着を着用し、黒、白、黄色の水泳帽子を被った学生達が体操をしていた。

 サーシャは次郎との会話を思い出す。

『最初から勝敗決まってるのに、泳いだ距離で勝負しろとか、意味わかんねえ』

 腹立たしい言葉だった。

 だが、それはまともな反応しだろう。

 黄色帽子組ひよこさんチームのサーシャが黒帽子組の次郎に遠泳で勝負を挑んだのだから。

 そもそも、泳ぐ距離が違うのだ。

 サーシャもそんな事は承知している。ただ、いつものように次郎には勝負を挑みたかっただけなのだ。

 勝敗なんて関係ない。

 この学校に来てから、そういう二人の関係が出来上がっていると彼女は思っていた。

 でも、肩透かしをされてしまった。

 彼女なりにもっていた、彼との特別な関係というものを壊された気分になっていた。

 ――私に憐みだなんて……。

 あの態度。

 できない人間に対する憐み。

 今ままで、いろいろ勝負してきたが、はじめてあんなことをされた。

 だから腹立たしかった。

 ブンッ。

 ブンッ。

 準備運動で風切り音がするぐらいの勢いで腕を振っている。

「サーシャ……」

「ふーこ、大丈夫、怒ってないから」

 ブンブン。

 声をかけた風子に心配させないようにそう言ったが、身振り手振りは怒りを隠しきれていない。

 そんな姿を見ている風子も複雑な気分であった。

 つい、この間まで次郎のことが気になっていたのに、サーシャに対する態度があまりにもひどかったから、そういうものがスーッと消えてしまった気がするのだ。

 なんとなく、ダメそうなのに、きっちりツボ抑えている感じと、なんだかんだで自分を捨てて助けに入る、そんな彼の男気オトコギを『好ましく』思っていたからかもしれない。

 本当のところ次郎に悪気はなかった。

 彼自身、そこまでサーシャをバカにしていた訳ではない。だが、二人の女子から見ると、すごく高飛車な態度をとったように見えてしまった。

 ――サーシャに謝るように言ってやろう。

 彼女はそう思っていた。

 ウザイ女だと思われるかもしれないと思うと少し怖かった。でも、彼のあんな態度を思い出すと、そんな感情はどこかへ飛んで行った。

 それに、サーシャが可愛かったから。

 とても子供で、なんか純粋で、かわいかった。そして、彼女に対してうらやましく感じていたから。

 もっと近づきたかったのかもしれない。



 ひときわ目立つ赤帽子――教官や助教たち――に四方を囲まれるようにして、サーシャたちひよこさんチームは泳いでいる。

 ほかのグループに比べれば、その平泳ぎはかなり遅いスピードであったが、なんとか全員が固まりになって一キロメートル地点を通過しているところだった。

 ゾゾゾ。

 七月にしては、かなり水温が低いというのもある。

 サーシャが鳥肌を立てているのはそれだけではなかった。

 つい、顔を水につけたとき、足下を見てしまったからだ。

 スタートした時には見えた砂の地面。

 海中は透明な視界がどんどんと狭まり、暗くなって吸い込まれるような世界だった。

 ブルルと身が震える感覚。

 彼女は自分の心臓が一瞬キュッと絞られた感じになる。

 血が引いていく感覚だ。

 ――ダメ……。

 息苦しくなる。

 手と足の動きがアンバランスになってきた。

 息継ぎ……息継ぎしているのに、空気が入っていない。

 ――落ち着け。

 彼女は風子に言われた通り、手と足を延ばし体を一直線にして、ブクブクブクとゆっくり息を吐いてみる。

 ゆっくり漕いでー。

 顔をあげてー。

 足を挟むー。

 繰り返し風子と練習した動作を頭の中で反芻しながら、ひとうひとつを確実に実行する。

 真っ暗な海の底。

 得体の知れない生き物がいるかもしれないその世界。

 絡まる何か。

 そんな妄想のため、足や手に絡まる海藻ひとつで息が詰まっていた。

 鼓動が、そして呼吸が早くなる。

 ――危ないかも。

 サーシャはそんな妄想を振り払うように、練習したことを思い出そうとした。

 ――ふーこ……。

 頭の中で繰り返す言葉。

 風子の声と、繰り返しいった言葉が重なったとき、スーッと頭の中が冷えていった。

 呼吸が元に戻る。

 ゆっくりと顔をあげ、少し海水が口に入ることも気にせず呼吸をした。

 彼女の葛藤を気付く者はいない。

 安全のために彼女たちを囲むように泳いでいる教官たちも気付かない。

 一人、そうやって戦っていた。

 彼女はなんとか恐怖に打ち勝ち、こうして淡々と泳ぐことができていのだ。

 そうやって、しばらくは安定して泳ぐことができた。

 落ち着いてきた彼女は視線を前に向ける。

 そこには大吉がいた。

 彼はうまく足で水を挟むコツを掴めず、力づくで泳いでいたため、消耗が激しかった。

 サーシャのひと掻きに比べると、彼のそれは進む距離が違うため、二、三回は多く漕いでいるのだ。

「ダイキチ、あともう少しで休憩だから」

 サーシャはたまらず、彼に励ましの言葉をかける。

 彼は息継ぎをするときに、パッパッと海水を吹き出すようにして「おう、おう」と答える。

「さ、サーシャ、お、お前も、な」

 なんとか必死に漕いで、顔をあげ、彼もサーシャに励ましの声をかけていた。

 みんな必死なのだ。

 ひよこさんチームは。

 そして、サーシャはなんだかうれしくなっていた。

 そういう空気もいいと思ったのかもしれない。

 ゆっくり確実に泳ぐ黄色い頭の集団。

 ブウウウウン。

 モーターが唸る音が彼らが泳いでいる逆方向から聞こえてくる。

「ボートにつけ!」

 ボートの上から真田中尉がそう指示を出している。

 競泳水着の上からTシャツ、その上に救命胴衣を羽織っている姿の彼女。

 それを囲む様にして黄色い頭がわらわらとボートの左右に張ってあるロープを掴んで、プカプカ浮いた。

「今日は水が冷たいから、腹が減ってるだろ?」

 綾部軍曹が、ひょいっと顔を出し、にやっと笑った。

 差し出される手には包みから取り出した、四角いチョコレートだ。

「あーん」

 彼がそう言うと、大吉は素直に口を開ける。

「野郎にあーんじゃ楽しくねえが」

 と笑いながら、ぽいっと口の中に放りこんで、はははと笑った。

「お、お嬢ちゃんもがんばっているな」

 彼は次にサーシャの前で、同じようにチョコレートを渡そうとした。

 彼女は黙って、口を開ける。

 綾部は彼女の仕草に気付かず、そのまま手に渡そうとした。

 サーシャは一瞬、驚いた顔をした後、赤面しおずおずと手で受け取る。綾部もさすがに女子の口にそのままチョコレートを投げ入れるのは遠慮していた。

「あ、ありがとう」

 恥ずかしさを紛らわせるようにして、大きな声でお礼を言った。そして、すぐにチョコレートを口にする。

 少しねとっとしたそれは、口の中ですぐに溶けた。そして甘さが広がる。同時に彼女はその甘さを貪欲に体が吸収しているように感じた。

美味しいフクースナ

 自然と国の言葉がでた。

 そんな彼女の黄色い帽子を綾部は撫でる様にポンポンと叩いた。

「あと半分だ、がんばれ」

 綾部はそう言って乾パンをひとつ渡す。

 ぽりぽり。

 チョコレートの甘さが残った口のなかで、その素朴なゴマの風味が聞いた乾パンはすごく美味しいとサーシャは思った。

 一キロメートル地点。

 あと半分。

 体は冷え切りっていた。だから、食べ物を食べただけで身体の芯の部分が温かくなったような気がした。

 それから、何個かチョコレートと乾パンを食べた時、隣の大吉と目が合う。

「口の端、ついてる」

 ぶっきらぼうに彼はそう言った。

「え?」

 不思議そうな顔をするサーシャ。

「さっき食べた、チョコがついてる」

「あ」

 彼女は海水で拭い「んっ」と言って大吉を見る。とれたかどうか聞いているのだろう。

「大丈夫」

 彼はそう言って目を伏せた、口がとがっている。

 ――俺は風子さん一筋、俺は風子さん一択。

 口の中でぶつぶつそう言っていた。

 サーシャの仕草が反則すぎた。

 一方彼女は彼のそんな葛藤を知ることもなく、プカプカ浮いて一息ついていた。

「休憩終了ー」

 真田中尉がボートの上からそう声をかける。すると、黄色い一団は練習通り、ロープから手を放しまた隊形を組んで泳ぎ始めた。

 休憩中に体が冷えてしまったのだろう、ほとんどの者が思ったよりも体が動かず、泳ぎ始めは少し動揺していた。

 今日は本当に気温と水温が低いのだ。

 そのため学生、特に男子の冷え方はひどかった。

 体脂肪率がもともと低い大吉なんかは唇が真っ青になっている。

 筋力を使ってさっきまで動いていた分、止まった時の冷え方が激しかったのかもしれない。

 後一キロメートル。

 ついこの間まで泳げなかった彼らには、遠い道のりであった。

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