第70話「海、特訓そして、お約束」

 特訓。

 それは文字通り特訓だった。

 泳げる黒帽子が、休む暇なく黄色や白い帽子の子を教えている。

 おしゃれな水着なのに、練習の時だけはその帽子と水泳ゴーグルをつけているため、なんともシュールな光景であった。

 そんな中、黄色い帽子の松岡大吉は目のやり場に困っていた。

 目の前にはビキニ姿の風子。花柄の胸の下まで布地があるタイプとはいえ、お腹とか太ももとか露わになっているからだ。

 そんな大吉の葛藤を知ることもなく、風子は彼の手を引いて下半身の挟み込みの練習をひたすらさせている。

「もっと力を抜いた方がいいかも」

 いろんな意味でカチコチになってしまっている大吉へのアドバイス。

 そんなことは百も承知の彼であったが、その柔らかい手を握っていると、ドギマギしてしまうのだ。

 だから、煩悩を払うためにも必死に泳ぎの練習をしていた。

 プールに比べたら体が浮く。

 何度も繰り返すうちに、水を掴むような感覚もわかる。

 彼が足で水を挟むようにすると体が前に推進するとともに、ふわぁと浮くことがわかった。

 足を漕ぐたびに、風子は彼の手に押されるようにして後ろに受け流す。

「あ」

 風子がそう言って立ち止まった。

 それは大吉にとって不意の出来事でもあった。その瞬間、彼の中でラッキースケベの警報が鳴り響く。

「(ぼがぼがごが……)」

 回避するために、自分を犠牲にした大吉は大量に水を飲み込みもがいていた。

 視界に風子の下半身がいきなり入ったため、衝突を回避しようとしたのだ。彼はその時、めちゃくちゃな泳ぎ方でブレーキをかけたため、大量に水を飲んでしまった。

 もちろん、水を飲んだ原因は彼女のお腹と、三角形の布が目の前でドアップになり慌てふためいたせいもある。

「ま、松岡くん、ごめん」

 風子も状況を飲み込んだのだろう、もがく大吉を慌てて抱える。彼女の首に抱き着くような形で彼はなんとか平静を取り戻した。

 いや、平静を取り戻したかのように見えた。

「あ、その、うわあ」

 直に彼女の肌に触れ、しっとりした感触に包まれる。

 大吉は湯気がでるぐらい顔を真っ赤にして硬直した。

 風子は彼がなぜそこまで慌てるのかわからず不思議そうな顔をする。なぜなら、彼女はただ単に溺れていた人を助けただけ、という感覚だったからだ。

 そんな中、大吉はふと幸子と目が合った。

 なにか視線を感じていたから見た方向に彼女はいた。そして、すぐに視線を逸らされてしまった。 

 ちなみに風子が立ち止まった原因は彼女がよそ見をしていたからだった。

 その視線の先には次郎とサーシャ。

 風子は彼女が顔をあげた状態で平泳ぎまでできるようになっている姿に見入ってしまった。

 ――泳げるようになったんだ……。

 あれだけがんばったのだからうれしいことなのに、なぜか彼女は素直に喜べなかった。

 次郎の教え方が上手だから泳げたのだろうか……そんなことを思ってしまう。

 その葛藤の中で、ぼーっと彼らを見てしまった。

「休憩ー」

 鈴が特訓中の学生に声をかけた。

 真っ赤な顔をした大吉を不思議そうに見ながら、上がろうかと声をかけ、風子は陸に向かった。

 ばしゃばしゃと学生達は一斉に海から上がる。

「小山先生特性のレモンのはちみつ漬けね」

 彼女はそう言いながら海から上がってくる学生に開けたタッパーを差し出し、はちみつの中に浮いているレモンの輪切りを配っていく。

 それにしても、準備がよすぎる小山である。

 風子もレモンを口に頬張る。思ったよりも酸っぱくて、目を閉じブルルと体を震わせた。

「すっ」

「ぱいっ」

 サーシャが横で同じようにブルルとしながら、同じ言葉を言っていた。

 すると、お互い目が合う。

 彼女たちは自然に笑顔だった。

「ふーこのおかげで、足と手がちゃんと動いて、浮くようになった」

 恥ずかしそうに少し下を向いたままサーシャは言った。

「よかった、上田君の教え方がうまかったからじゃない?」

 つい、そんなことを言ってしまう。

 すると、サーシャは眉間に皺を寄せ、不満な顔になった。

「次郎はぜんぜんダメ、教え方が下手、言っている意味がわかんないから、ふーこが言ってたことを思い出して練習していた」

 それは本当のことだった。

 風子に気遣っての言葉ではない。

 次郎は何をやらしてもできるものだから、できない人間の気持ちがなかなかわからないという弱点がる。

 そういう人間というのは人に教えるのが下手なことが多い。どうしても、スタートの感覚が『できる』視点からであり、できない理由を理解できないからだ。

「まだ、顔がつけないから、息継ぎはできないけど……」

 まただ。

 風子はそう思った。

 もう、これだから、この子はたまらないのだ。

 うつむき加減に不機嫌そうな顔――きっと恥ずかしいのだろう――をするサーシャを見て、抱きしめながら頭をガシガシと撫でたい衝動に駆られた。

「大丈夫、プールより海は鼻に入ってもツーンってしないから」

「怖いかも」

 風子はその一言にびっくりした。

 なぜなら、あのサーシャが『怖い』と言ったからだ。

 今までの彼女の言動から考えて、そういう弱音は吐くはずがなかった。

 素直。

 頼る相手ができて、そうなったのかもしれない。

「上田君に言って、休憩のあと顔を付ける練習した方がいいよ」

「ふーこに見てもらいたい……」

「うん、でもくじで決まったことだから」

「そっか……」

 心細そうな表情で風子を見上げるサーシャ。

 風子はまた、あの衝動に駆られたがなんとかそれを抑えることができた。

 


「だから、顔をつけないとダメだって、何回も言わせるなよ」

 次郎がきつい声色でサーシャを叱っている。

「……」

 サーシャはキッと睨んで口をつぐんでいた。

 言えないのだ。

 風子には言えるが、どうしてもこの次郎だけには弱いところを見せられない。

 その時、大きな波が二人を飲み込むようにして押し寄せてきた。

 波がサーシャの頭の上までかかる。

「げほっけほっ」

 海水を少し飲んでしまったのか、せき込みながら必死に顔にかかった水を拭うサーシャ。

「まさか、水、顔にかかるのが、嫌?」

 次郎はサーシャをバカにしているような口調でそう言うと、意地悪そうな表情でサーシャを見た。

「……違う」

「人を散々、挑発してきて水が怖いとか」

 次郎にしてみれば、彼女とはじめて出会ったその日に足蹴にされそうになるわ、ぶん殴られるわ、そして奴隷扱いをうけるわ、高飛車な印象しかない女子なのだ。

 それが顔に水がかかるのが怖いとか、もう笑うしかない。

 にやにやしながら小バカにした視線を向けた。

 黒い軍用ボートに乗っている金髪の兄貴が次郎の方を向く。

 何やらボートの上で慌てた感じだ。

 ボートも彼らの方を向いた。

 その時だった。

 次郎の後頭部に衝撃が走る。

 口をあんぐり開けた大吉が彼の視界に入った。

 振り向くと、鬼の形相の風子。

「誰だって弱みはあるんだから、馬鹿にするとか、最低」

 勢いまかせに介入。そして、つい激高してやってしまったこと後悔した。

 なぜなら、次郎はついこの間、学校祭の夜に泣きついた相手なのだ。

 気になる男子であった。

 できれば、自分のことを良く見て欲しい相手なのだ。

 ――でも、そんなの関係ない。

 風子はキッと次郎を睨むと言葉を続ける。

 漢気オトコギが乙女心に勝った。

「教え方が下手、教えるんだったら、ちゃんと相手の弱点をちゃんと把握して、そこを修正できるようにするべき」

 そりゃその通りだが、次郎には酷な話ではある。

 サーシャは素直に次郎には弱いところを話していないし、話すつもりはなかったからだ。

「い、いやでも」

「でもじゃない」

「そ、そんなのわからないし」

「わからなくはない」

 もう、ここまで来ると引き下がれない。

 ブウウウンン。

 二人の沈黙の中エンジン音が響き黒いボートは何事もなかったかのように、また沖の方に離れていった。

 未だにボートの上の金髪兄貴はハラハラしながら妹の方をちらっちらっと見ているが、風子が入ってきて安心したのかもしれない。

「あーら、弱ってるサーシャちゃんもかわいい」

 ぎゅ。

 ボリュームのある肉厚が風子を後ろから包む。

 気付いたら彼女は絵里に挟まれるようにして抱きしめられていた。

「へっ? えっ?」

 声にならない声を出しながら一体何事かと風子は戸惑う。

 絵里は妖艶な笑みを浮かべながら、風子の背中をこちょこちょっと撫でた。

 一方次郎と大吉は、そのきわどい水着と大人の色気を前に硬直している。

「こんな時、男なんてなーんの役にも立たないから、ここはちゃんと女の子同士の友情で泳げるように練習した方がいいと思うの」

 そう一言告げると、どぼんと水面に潜った。

 今度はざばんと水しぶきを上げ、顔を次郎の前で勢いよく出る。

 次郎は顔をそむける。

 もちろん胸もぼよんと跳ねるのを次郎はチラミしているのだが。

 ムッツリスケベは伊達ではない。

「お仕事もあるんだけど、サーシャちゃんをいじめちゃだめよ、あの子のお兄様も冷や冷やしてるみたいだから」

 ウインクして次郎のおでこをはじくと、また水の中に潜り、すごい速さで泳いで離れていった。

 波が大きくなっていく。

 次郎、大吉、風子はプカプカ浮き、サーシャはつま先立ちになってなんとか水面から顔を出していた。

 大きな波が連続で打ち寄せてくる。

「陸の方に移動しよう」

 風子がそう提案して、陸の方へ向かおうとした。

 ばしゃーん。

 陸の方は波が打ち返しのものと重なり、うねるような感じだ。

 大きい波が続く。

 プカプカしていると、サーシャの頭を超えるような波が一気に四人を飲み込んだ。

 ザザーという音とともに、波が戻っていく。そして、太ももぐらいまで水が引いた。

 その時だった。

「きゃ」

 響く悲鳴。

 風子だ。

 胸を両手で抱え込むようにして体を小さくし、首まで水の中に入っている。

「中村、どうした!」

「だめっ!」

 何事かと思い風子に近寄ろうとした次郎は制止の声の理由を察することができた。

 ブラの部分が無い。

 風子の水着がさっきの波でとれてしまったのだ。

「だ、大丈夫見てないから」

 そんな励ましにも何にもならない言葉を向ける大吉。

 今日数度目の赤面である。

「ふ、風子、水着は?」

 サーシャが聞くが風子は頭を振ってわからないという表情をする。

「あ、あった」

 フラフラと泳ぐブラ。

 大吉の前に漂っているものを、何も考えず彼は手を伸ばそうとする。だが、もう一度きた波に飲まれ掴むことを失敗した。

「あ、だめ」

 風子はそう言って赤面する。

 彼女にとってブラの部分を男子に触られるなどもっての他のことであったからだ。

 泳ぐブラ。

 水面下を漂う。

 男子も潜ろうと思ったがやめた。

 潜ると水の中で風子の今の状態を見てしまう可能性が高いことに気付いたからだ。

 すると思いっきり息を吸う音が風子の耳に入った。 

「え、サーシャ?」

 風子が驚きの声をあげる。

 どぼん。

 サーシャが鼻をつまむことなく水に頭を潜ったのだ。

 しばらくして水面に顔を出す。

「待ってて、ふーこ」

 そしてすぐに水に潜る。

 それを数回繰り返しているうちに、サーシャは右手に花柄のブラを掴んで浮き上がってきた。

「あった」

 必死な顔をしたサーシャ。

 その表情に水に顔をつける恐怖はなかった。

 風子はびっくりした顔をしている。

「サーシャが顔を! 水! 水の中に入れてるし」

 喜んでいた。

 その姿に指をさして興奮する彼女は、自分のブラがあったこととかどうでもよくなっていたようだ。

 だって、あのサーシャが潜ったんだから。

 だが、すぐに目の前の現実に彼女は戻ることになる。

 彼女と目が合って慌てて後ろを振り向いた男たちに気付いたからだ。

「あ」

 勢いよく上半身を水の中に沈めると同時に、両手で胸を隠す。

 ――ああああああ、絶対見られたー。

 目のあたりまで顔を付け、ぶくぶくぶく息を吹き出し、叫びたい衝動を必死に抑えた。

 そんな風子の状態を見て、一連の行動を理解したサーシャは、躊躇なく大吉と次郎に近づき、目をついた。

「何見てんだごらあ」

 サーシャ名物、理不尽目突きであった。

 男子達にとっては、本当の意味で事故だった。

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