第59話「ほどけない手 」

「ちゅう?」

 気の抜けた声を鈴は出した。

 次郎は固まったまま唇を離した女子を見上げた。

 彼女は無表情のまま、ペロリと自分の唇を舐めている。

「許してくれる?」

「へっ?」

 間抜けな声の次郎。

「お母さんにこれをしたら許して貰えるって聞いたから」

「許すって、え? 僕たちを襲ったこと……」

 こくんと無表情のまま頷く少女。

「ちゅ、ちゅちゅちゅちゅ、ちゅうですよ」

 彼の常識の範疇に、許しを請うようなことでちゅうをするような文化はない。

「ゴメン、もう襲わない、契約切れた」

 彼女はぼそぼそと言った。

「許すもなにも、契約とか、こっちは命を……」

 彼は立ち上がりながら、強い口調で目の前の女子に言葉をぶつけようとした。

 が失敗した。

「どおりゃあ」

 そんな声とともに理不尽な邪魔が入ったからだ。

 サーシャだった。

 彼女が目の前の女子に何かしようとしていると思ったから焦る。

 ――ちょ、ちょっと謝ってるんだし、暴力は……。

 そう思ったものの、サーシャのことだ容赦なくぶちのめすに違いない。

 彼は咄嗟に女子を庇おうとして一歩踏み出そうとする。

 ――間に合わないっ。

 緊張が走る。

 ごぼっ。

 次郎は衝撃と痛みを感じた。

 ――あ、僕か。

 サーシャの跳び蹴りが彼の右肩に当たっていた。

 彼女は次郎を蹴った足で踏み台にして、飛び跳ね、女子と彼の間に着地した。そして、女子に対して、ファイティングポーズをとって立ちはだかる。

 そのまま次郎に話しかけた。

「いまっ、パンツ見た?」

 なら、跳び蹴りなんかしなければいいのに、と風子は外野からツッコミを入れたかったが、とりあえず黙っている。

 次郎は固まっていた。

 あまりの理不尽さに混乱を極めていた。

「サーシャちゃん、お兄様もかっこいいけど、あなたもかわいいわねー」

 落ち着いた女性の声。

 サーシャも含め、まったく気配がなかったので誰も気づかなかったが、いつの間にか一人の女性が近づいていた。

「うわっ」

 サーシャが声を上げるが、女性の胸に挟まれてしまったからだろうか、それ以上は声がもごもごとなっていた。

 次郎はサーシャを挟んでいる大きなおっぱいを凝視する。

 ――あの時の!

 おっぱいでわかる洞察力。

 次郎のむっつりは伊達ではない。

「こんばんは、瓜生って言います、お昼に二回ほど会ったわね」

 サーシャを抱きしめたままそう名乗る女性は、あの昼間に次郎が胸とごっつんこした母親だった。

「娘の三和ミワもお世話になっちゃったね」

 鈴はその異様な雰囲気に危険を感じたため、咄嗟に瓜生母を掴もうと手を伸ばす。

 だが、女性はするりとサーシャを離しながら鈴の手を通り抜け、次郎を抱きしめていた。

「ごめんなさいね、商売だからしょうがなかったんだけど、そのお詫び」

 むぎゅーっとされた次郎はやわらかい感触に包まれた。

「あんまり気が向かないお仕事だったんだけどね」

 もごもごと次郎は何かをしゃべろうとするが声にならない。

「三和も私も、もうあなたたちを襲わないから」

 瓜生母はそういうとチラッと後ろの方に目を動かす。

 その方向には、ロシア帝国海軍の制服を着た男が立っていた。

 男は冷たい視線をサーシャに向けていた。

「愚かな妹よ」

 流暢な日本語。

 そこは兄妹共通である。

「……」

 サーシャは睨み返すが、いつもの勢いはない。

「情けないことだが、ボディーガードを雇った」

「そんな、勝手……」

「他人を巻き込み、怪我させるような奴が口答えをするな」

「う……」

 そう言うと、ミハイルはさっさと体育館を出て行った。

 今日の学校祭で来賓として招かれているため、まだ酒宴の席があるというのもある。それよりも、あまり長いこと妹といっしょにいると、自分が保てなくなるのだ。

 ――くそう、サーシャのあの凹み具合、あの表情がかわいすぎるっ。

 ミハイルは口元が緩みそうになるのをぶるぶる震えながら押さえるのに必死だった。

 この兄もこじらせていた。そして素直になれないのは、この家の血なのかもしれない。

「あんなかっこいい人に愛されて、嫉妬しちゃう」

 そういって瓜生と名乗る女性はサーシャをからかった。

「愛されてなんか……」

 ぶーくれるサーシャ。

「と、いうことで雇われちゃったから、よろしくね、お嬢様」

「なっ」

 どうも、兄が言っていたボディーガードなるものは、目の前の母と娘のことらしい。

「今後はサーシャお嬢様の護衛をすることになったから」

「あの人が、そんなこと」

「以後お見知りおきを」

「ちょっ」

 瓜生はそう言うと、ピョンっと窓に飛びつき、そこから「ばいばい」と手を振って飛び降りた。

 二階である。

「サーシャは護るけど、次郎とはもう一度戦いたい」

 三和がそう言って、次郎の手を握った。負けたことを根に持っているようである。

「負けた男には見も心も捧げなさいってお母さんに言われてたけど、今ちょっと気になる人がいるから」

 どんな教えを娘にしてるんだ、仕事人の母親よ。

「ちゅうで、許して……また勝負して負けたら、好きにしていいから」

 平然と言ってのける三和。

 何を言っているのか理解できない次郎、緑、風子。

「なんなのよ……」

 風子がかすれた声を出す。

「昼間はサーシャと二人きりで密会しようとするし……変な男に囲まれるし、殺そうとした人を許したと思ったら笑顔でさようなら……」

「え、密会、ええ?」

「変なおばさんのおっぱいに騙されてるし」

「だ、だまされて……」

「殺されかけた女の子とちゅーするし」

「無理矢理だし」

「なんか、おかしい」

「うん、おかしいことは認める、うん」

「意味がわかんないよ、顔を殴られるし、そんなやつらと仲良くできるなんて」

「仲良くしていないし、だいたい、この人達は殴った奴らと違うし」

「違わないっ」

 彼女の声がどんどん大きくなっていく。

 赤く上気した顔がその興奮度合いを物語っていた。

「仲間じゃない……あれは別、ただの馬鹿」

 三和が能面男達のことをさらりとけなす。

「あなたもおかしい……だって、さっき、お昼に殺そうとした相手なのよ」

「うん、殺そうとは思ってなかったけど……もちろん途中で殺しちゃってもいいかもって思ったけど」

 次郎は刃物を持っていたから。

「うんって……なに、もう」

「だから、仲直りのちゅーをした」

「変よ……」

 彼女は三和から視線をずらして次郎を睨んだ。

「殺そうとした相手でも、言い寄ってくる女の子だったら許すなんて、どんだけ、むっつりなの、上田君」

 彼だって意味がわからない。腕に怪我をして、今でも痛いのをやせ我慢している状態だ。それなのにむっつりすけべだの好き勝手に言っている彼女にカチンときた。

「中村だって、余計なことに顔を突っ込むから、怪我をしたんだろう」

 それでも自分の怪我のことが彼女のせいだとは言わない優しさは残っている。

 彼女は頬のすこし腫れた部分を押さえた。

 異様な雰囲気にふたりが包まれるなか、三和が一歩前に出て、次郎に手を差し出した。

「踊りましょう」

 場の空気を読めない、いや、読む気もさらさらない感じで三和は唐突に言った。

「ジロウは怪我をしているからダメ」

 サーシャは三和が差し出した手を払う。

「痛くしないから」

 金髪娘の妨害をもろともせず、三和は次郎の右手をぐいっと引っ張った。

 彼はそのまま立ち上がる。

 少しでもはやく風子から離れたい、そう思ったから。

 でも、立てなかった。

 弱々しい力で次郎の服が引っ張られていたからだ。

 動けなかった。

 彼は振り返り、自分を引っ張っている手を見た。

「あれ?」

 そんな声を出したのは風子だった。

 次郎の上着の裾に手を伸ばし、引っ張っている風子。そして、当の風子の方がびっくりした顔で掴んだ自分の手を見ている。

「お、おかしいな」

 彼女は服を掴んだ手をぶんぶん振って、離そうとする。だが、ぶんぶん手を振っても離れなかった。

「ご、ごめん、ほんとごめん」

 最初、次郎は訝しげな表情をしていたが、だんだん神妙な面持ちになっていった。

 彼女の顔が青ざめて、体が小刻みに震えているのがわかったからだ。

「あれ、なんでだろう……なんだか、急に、怖くなってきて、あれ? さっき、怒っていたのに変だよね」

 涙目の彼女は、笑おうと努力するが、顔がひくひくと引きつるだけだった。

「なんか、いろいろ思い出したら、急に変になっちゃって、あれ? あれ?」

 そして、息が荒い。

「ははは」

 笑っていない彼女の顔から笑っているような声がでた。

 次郎は彼女の肩に手でも置いて慰めようかと思ったが、みんな見ている前である、思わず踏みとどまった。

「はーい、女の子を泣かさないよーに」

 そう言ったのは、真田中尉だった。

 右手でぐいっと三和を掴み、左手でサーシャを巻きこむ。

 くるっと回りながら粘着テープ付のローラーみたいに、取り巻きを剥ぎ取っていった。

「女の子同士踊るのも楽しいから、みんなで踊りにいこー」

 彼女が『女の子』を強調しているのは気のせいではない。二十代後半とは見えない若々しさを保つにはいろいろと努力がいるのだ。

「はい、逃げない」

 真田はぐいっと緑を懐に抱えこむ。

「はいはーい」

 くるくると鈴は三人の女子を無理やり回しながら、二人から離れる。そしてダンスの輪の中に入って行って見えなくなった。

 サーシャはむすっとしながら。

 ――しょうがない。

 そんな意味のロシア語で呟いていた。

 しばらく何も言葉が出ないふたり。

「……」

「……」

「ごめんなさい」

「うん」

 謝る彼女。

「中村は踊らない?」

「顔の痣を人に見られたくない……」

 小さな声。そして、涙目で彼を見上げた。

 ――反則だ。

 次郎はそう思った。

「上田君は踊らない?」

「怪我してるから」

「……そうだったね」

「うん」

「もうちょっとこのままでいい?」

 彼女は俯いたまま、次郎の服を握る自分の手を見ていた。

「……とりあえず、座ろうか」

「うん」

 次郎はそんな彼女をはじめてかわいいと思った。

 遠くで会場の盛り上がった声が聞こえているように思えた。そして彼は自分の服を握る彼女の手に体を寄せる。

 会場の盛り上がりはしばらく続きそうな雰囲気。

 そんな中、少しだけ違う時間をふたりは過ごしていた。

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