第4章 文月「夏だ! 海だ! 訓練だ!」

第60話「お風呂の花子さんと風子さん タレちまえっ」

 仲居の格好をした男は竹箒の様な凶器を振りかざし、サーシャに詰め寄っていた。

 誰よりも冷静で、誰よりも自分を捨てている、そんな男。

 右手にナイフが突き刺さり負傷している手。

 それをまったく気にもしていない動き。

 無表情。

 それに対し、彼女はひるむことなく横にステップを踏んだ。

 だが、男の動きから逃れるほどのスピードは出せない。

 そういう生業なりわいのプロフェッショナル。

 彼女はギッと歯を食いしばる。

 それでも怯えることもなく、目を見開き相手の攻撃の軌道を読もうと神経を集中させている。

 ナイフが彼女の鼻先をかすめようとした瞬間、銃声が響いた。

 


■□■□■



 女子学生用の大浴場。

 年季の入った古い建物。

 浴場はところどころタイルが剥げ、シャワーは目詰まりしてる。

 お世辞にも清潔感漂う場所とは言えない。

 それでも、学生たちが入れる大浴場はここしかないので、しかたなく入っている。

 慣れればなんということもない。

 綺麗だろうが汚かろうが、風呂は風呂である。

 それは風子も同じだった。

 彼女は浴場でいつものように、髪を濡らしシャンプーを始める。

 学校に入ったばかりのころは毎日大浴場で裸のお付き合いをすることに対して抵抗があった。

 もちろん今はない。

 おずおずと脱衣所から浴場までタオルで隠していた頃が懐かしいぐらいだ。

 今は足を伸ばして、先輩たちとおバカな話をしながら、ゆったりと入浴できるこの時間はなくてはならないものだった。

 今日も同じ部屋の先輩である純子、そしてユキといっしょに入浴。

 風子はショートカットの髪を泡立て丁寧に撫でていると、いつもの気配を感じていた。

 ――凝りもせず……。

 彼女はぎゅっとぎゅっと髪の毛の端をつまんで、シャンプーの泡が目に入らないようにする。そして、首をぐるんとまわすと同時にクワッと目を見開いて純子の方を振り向く。

「先輩、永遠のシャンプーしようとしましたね」

 永遠のシャンプー。

 髪を洗い流す時、ひたすら上から隣の人がシャンプーをかけることで、いつまでも泡が残ってしまうという技である。

 若い一年生がやるようなイタズラ。

「な、何言ってるの?」

 純子は音を立ててそれがバレないように、わざわざプッシュ式のシャンプーを別の容器に入れ換えるほど周到に準備していた。

 それがまさか、やる前からばれてしまうとは。

 ――いや、まさかそんなはずはない。

 純子は風子の頭に向けていたシャンプーを横に振り出す。

 クラシックコンサートの指揮者の真似らしい。

 有名そうな曲っぽいメロディ、そしてちょっとテンポが違う鼻歌も奏でるから間抜である。

「先輩、ばればれですから」

 そう風子が頭を泡だらけにしながら抗議すると、純子は深いため息をついた。

「最近、ふーこちゃんがツンツンしているのは、先輩としていかがなものかと思うんだな」

 しょうがないから説教モード。

 先輩というものは面倒くさい生き物である。

 そんな純子の言葉に反応したのはユキ。

「でもこの前は、一年のアノ男子とデレデレしていました」

 ユキはそんなことを言いながら、体をゴシゴシ洗っている。

 泡だらけになったその体のたわわな胸が揺れるから、風子は目のやりばに困った。

「そりゃーツンツンふーこちゃんがデレデレしちゃったら、男はコロリでしょ」

 ユキの言葉に被せる純子はなんとなくおっさん臭い。

「いっちゃいません」

 風子は強い口調で否定すると、髪の毛を猛烈な勢いで洗い流し『ぶるるる』と犬のように髪の水気を払った。

 威嚇。

「そんなことよりも、そのユキさんのおっぱいの方がけしからんと思うんですが」

 と、風子が反撃。

「そうかなー、男の人寄ってこないし、なんつーか邪魔?」

 と余裕の返答をするユキ。

 風子は自分の胸と見比べて、むぐぐとほぞを噛んだ。

「ふーこちゃん」

 ふふふと笑いながらユキが手を伸ばして肩から背中にかけて指でなぞってきた。

「うひゃいっ」

「このすべすべした若いお肌はうらやましいわ、ほんと歳なんかとるものじゃ……」

 長崎ユキ、十七歳。

 今の言葉を聞いたら、真田鈴も日之出晶といった教官も怒り狂うような言葉である。

「それよりやばいのはこの二の腕ですよ、嫌でも鍛えられるから、最近ムキムキに」

 そう言いながら力こぶをぐいっと作る。

 確かに毎日の腕立て伏せのお陰で、無駄な肉がだいぶなくなり引き締まっていた。

「ほうほう、どれどれ」

 そう言いながらニヤケつつ風子の二の腕に手を置く純子。

 風子は嫌な予感がしたが、もう時すでに遅しだった。

「うひゃうっ」

 つい、変な声を出してしまった。

 鳥肌総立ち。

「うーん、まだまだ鍛え方だ足らないなあ、クーパー靭帯もっと鍛えて、ふくらませて、もんで、柔らかかくしないと」

「じゅじゅじゅじゅ純子さん、どこ触ってるんですか?!」

「おっぱい」

「二の腕です、二の腕の話です」

「成長するから、うん、大丈夫」

 風子は自分の母親が言っていた言葉を思い出していた。

 ――男には気をつけなさい、いーい、男は童貞もヤリ男も関係なく女がおっぱいは触られると気持ちよくなるもんだって思い込んでる勘違い野郎が大半だから。

 ――ちゃんと「気持ち悪い」っていってやりなさい

 と言っていた。

 風子の母親は男性不信になるような性教育ばかりをしていた。

 よく、あんな母親で対男子恐怖症にならなかったものだと、風子は自分を褒めたくなるぐらいに。

 ――そういう気分とそういうシチュエーションになって初めて気持ちよくなるものなの、男はエッチな本や動画の見すぎで、料理とか、家事とかしているところに現れてはおっぱい触ることがスキンシップだとか、それで感じさせているとか勘違いしているのが多いから、しっかりと「気持ち悪い、触るな、こっちはお前の相手してる暇はない」って言う。

 ――とくに先っちょを摘もうとするような奴がいたら、逆に男のアレをぎゅっと摘み返せばいい、そうしたら気持ちがわかってもらえるから。

 だが、今もみもみしている人は女子である。

 さきっちょはない。

「せ、先輩、も、もう、わたし……」

 涙目で抗議する風子

「ごめん、言い過ぎた」

「どちらかと言うと触りすぎですよ純子さん」

 ツッコミをいれるユキ。

 純子はさっきにも増してニタニタしながら胸を張って言った。

「ふーこ……オレのテクがそんなによかったのかい?」

「よくありません」

 風子はやや大きい声で言い返す。

「大丈夫、前に言ったかもしれないけど、何もしなくても大きくなったから」

 ユキはフォローするつもりでそう言った。

 風子にとっては余計なお世話である。

「ちっ、先輩よりも大きくなりやがって、一生肩こりに悩ませられちまえばいいんだよ……ちくせう」

 やさぐれた嫉妬心の赴くままに純子は発言した。

「もう、気づいたときにはこのぐらいだったから、慣れました」

 にっこり笑顔で返すユキである。

「タレちまえっ!」

 純子は怨嗟の言葉を放つが、むなしく水音にかき消されていった。

 体を洗い終わり三人は同じタイミングで湯船に向かった。一応、ユキも風子も先輩である純子のタイミングに合わせているから、自然とそうなるのだ。

 ところどころ青色のタイルがはげている湯船。

 三人は湯船につかって、のびのびとしていた。

「あのね……ふーこちゃんがアレだから言う話じゃないんだけど……『お風呂の花子』さんって知っている」

 そんな話を始めたのは純子、さっそく夏の風物詩である。

 が、その便所に住み込んで居そうな誰かさんの名前を風呂で聞くと、なんとも間が抜けているものである。

「あー、あの、夜誰もいないお風呂で遭遇するアレですよね」

 とユキが頷く。

「ここの話なんだけど……脱衣所に胸パットが片方だけ落ちていて、それを見てしまったら、女の子の幽霊が」

 純子は続ける。

「もう片方の胸パットを探し続けて成仏できない幽霊」

「はい、質問いいですか?」

 手を挙げる風子。

「何、ふーこちゃん、いいわ、なんでもお聞き」

 なぜか女子教師モード――純子の中の女子教師、お風呂の淵に座って足を組んでいる――で返す。

「なんで、幽霊になったんですかね、その子」

「わからない、でもとても無駄な理由だと思う」

「なんで、胸パットを探してさまよう幽霊の話をするんですかね」

「わからない、でもとても些細な理由だと思う」

「なんで、私の胸をさっきからチラチラみるんですかね」

「心配なのよ、先輩として」

「……」

「もし、ふーこちゃんがお風呂で滑って転んで死んじゃって、間違ってお風呂の花子さんみたいな幽霊になって、私たちみたいな『ある』方に恨み持つ子になったらどうしようかと思って……祟っても意味ないよーって伝えたくて」

 と、純子は真剣な顔で言っている。そして、彼女は自分よりも『ある』ユキの胸に手を伸ばした。

「痴女」

 ユキは慣れた手つきで純子の手を、チョップで払う。

 そんな動作でいちいちバイーンとなるものだから、風子は目を細くするしかない。

 まったく嫌味な胸だと、ため息をつきながら思うのである。

 思春期。

 いちいち、身体の事に関しては無い物ねだりである。

 ――ああ、恨みたい、祟りたい。

 風子は頭の中でそんな風に唸っていた。

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