第56話「小山先生と佐古少佐は仲が悪い」

 次郎は凶器を持った相手に容赦なかった。

 地面に這い蹲る男の手首を踏み込み、ナイフを振り落とす。

 ナイフを手放したその男の手首は無残にもあらぬ方向に曲がっていた。

 風子は、その光景を見て、つい見惚れてしまっていた。

 なんというか次郎の動きが滑らかで、液体の様だと思った。

 だが、目を奪われてしまったため、彼女は背後の人影に気づくことができなかった。

 ゴツゴツして臭い手が急に彼女の口を塞ぐ。

 あの緑の手とは明らかに違う嫌悪感。

 風子は首が動かせないため、視線だけで周りを確認した。

 隣で緑も捕まっていることを確認する。

 能面男は増えていた。

 全部で八人。

 後から来た四人のうち一人はビデオカメラを持っていた。

 彼らの活動報告用である。

 ふたりは抵抗しているが引きずられるように、サーシャ達の前に連れて行かれる。

 能面のリーダーはサーシャの怒りの表情を見て、人質として活用できることを確信した。

「動くな!」

 濁声だった。

「ガキども……まずはその警棒とナイフを置け」

 サーシャは怒りを隠すこともなく能面を睨んでいる。

 同様に、いつも何かしら冷静にしている次郎も体を震わせ激怒していた。

 ――だめ、私なんかで怒ったら、冷静にならないと……。

 風子は自分達のせいで危ない状態になっていることを理解していた。

 なんとかしなければならない。

 そう決断した彼女は動いていた。

 暴漢に襲われた時の対処法、中学生の時に学校でどっかの道場の先生から教わった護身術。

 相手の足の甲を踏み込む。

 彼女は相手が怯んだ瞬間を利用して、腰を横にクの字に折り曲げ、力いっぱい拳を振り下ろして股間に一撃を入れようとした。

 足を踏まれた能面の腰が引けた。

 思いっきり拳を……。

 その刹那、彼女は耳の近くで破裂音を聞いた。

 熱い。

 彼女はパニックを起こした脳を必死に呼び戻そうとする。

 さっきまで見ていた風景が変っていたことに気づいた。そして、目の前には土と、短い雑草があった。

 ――ああ、なんだか痺れる……耳の奥で変な音が聞こえる。

 顔が熱いと彼女は思った。そして、その場所を手で触る。

 ぬるっとした感触を覚えた。

 なぜか風子は笑いそうになった。

 鼻血。

 彼女は誰かが叫んでいるのがわかった。だが、それが誰だかはかわからない。

 頭がぼーっとしていた。

 ――男に殴られて……殴られる前は……足を踏んで……しようとして……なんでそんなことしようと思ったんだっけ……。

 彼女の視線の先には、黒い髪の毛が落ちている。

 ――カツラ取れたんだ。

 ぼーっとしたままの頭で彼女はそう思った。

 ――せっかく、緑ちゃんが作ってくれた衣装なのに、汚れちゃったかも。

 その視線の先。

 ゴトン。

 ――なーんだ、サーシャこっちを見てるし。

 ――警棒を、投げ捨てるんだ。

 ――……。

 ――……だめだよ、サーシャ、そんなことしたら、私、私のためなんかに。

「……サーシャ、だめ!」

 悲鳴のような声を風子があげる。

「だまれ!」

 能面の男は風子の髪の毛を鷲掴みにして、引っ張りあげる。

 彼女は必死に悲鳴を上げないようにしながら、ふらふらと立ち上がった。

 緑は恐怖で涙を流しながら震え、声も出せずにいる。

「ロスケに加担する非国民が!」

 サーシャは髪の毛が怒りの波動で逆立ちするぐらい感情が高ぶっていた。

 金属バットを持った能面が彼女に近づいていく。そんな彼女の前に立ちはだかる次郎を無言で蹴り飛ばす。

 じっと睨む次郎。

 能面はもう一度前蹴りを入れるが、一歩も下がろうとしない。

 抵抗もせず、歯を食いしばりじっと睨んでいた。

 すると、サーシャが次郎を制するようにして、一歩、また一歩と前に出る。

 あまりに気持ちが高ぶり、怒りを通りすぎたのかもしれない。

 冷徹な顔になったサーシャがそこにいた。

「ゲス野郎」

 高貴な感じがするその冷徹な表情から出た言葉はあまりにも庶民的だった。

 そのギャップが逆に彼女の美しさを際立たせ、そして相手を気圧した。

「ロシア帝国のイヌに天誅を下す」

 能面がその内側にベトベトした汗を掻きながら金属バットを振り上げる。

 そして振り下ろした。

 風子も緑も声が出なかった。

 あの、綺麗な顔は目を閉じることなく、能面を睨みつけている。

 そしてバットが止まった。

 差し出された腕。

 彼女の目の前にそれがあった。

 次郎は彼女を後ろから抱きしめるようにして左腕を差出した。それがバットを受け止めたのだ。

 鈍い音が風子や緑にも聞こえた。

 彼は一言も悲鳴を上げることがなかった。だが、歯を食いしばる音とその表情は、離れている女子二人には歯がギリギリと擦れる音が聞こえるような気がしていた。

 能面が二人がかりで次郎を抑える。

「おい、この生意気な夷狄の顔、しっかり撮っておけ」

 ビデオの能面がだんだん近づいていく。

 能面達は、風子が吐き気を催すような、気持ちの悪い熱気を帯びている。

「すぐ、泣き顔に変わる」

 金属バットを振り上げる男は自分の台詞に酔っているのか抑揚が変になっていた。そして、ビデオの能面がスキップをするようにして近寄ってきた。

 スーツ姿の男が、低い姿勢のままその場に飛び込んできたと思うと、理不尽な力でビデオと警棒の能面を持ち上げ、そのまま後ろに投げ飛ばしたのだ。

 逆さになったまま空中に投げ放たれた能面達は頭から地面に落ちて動かなくなった。

 同時に悲鳴が起こる。

 男の情けない声だった。

 風子を捕まえていた力がふっと抜けた。彼女はそのまま力を入れることもできず膝から地面に崩れ落ちた。そして、見上げるとフラフラしながらボケッと立っている能面、その後ろに短い軍刀を鞘のまま振りかざした男がいた。

「相変わらず間が悪い」

 小山は相変わらず筋肉がスーツを着たような姿のまま軍服の男に言った。

「やかましいわ、筋肉バカ」

 そう言うと、佐古少佐は短い軍刀の鞘ごと振り回し、フラフラしている能面の腹を突いた。

 能面は腹を押さえるようにして、その場に崩れ落ちる。

「子供に怪我させるなんて、管理者失格だな」

 小山は立ち上がろうとした能面の顔面を当然のように踏みつけた。

「まったくその通りだ……お前こそ、子供にまかれるぐらいの追跡能力でよく教師ができるな」

 ナイフを持った別の能面が佐古に突進すると、鞘つきの軍刀を使って、締めの効いた払いで受け、その獲物を弾き飛ばした。そして、軍刀は無駄のない軌道を描き相手の喉を突いて昏倒させた。

「このハゲ、いち教師の俺にはそんな能力はいらん、お前ら軍人と違って野蛮ではない」

 小山はネクタイを直しながら言葉を続ける。

「だいたい、お前が目を離すからこんなことになってしまう」

「こっちは、こんなくだらない過激派のクソどもの相手じゃなくてな」

「中隊長の癖して、部下も連れずにおめおめ来たんだろ、その時点でなってない」

「ごちゃごちゃうるせえ、筋肉バカ」

 二人は罵り合いながら、警棒やナイフを持った能面ぶん投げ、軍刀でぶち殴り、場を沈黙させていった。

「三島! 中村!」

 おどおどする女子二人。

「なんでお前達もここにいるんだ」

 三角関係を見たくて跡をつけたなんて言えない。

「この売国奴があぁ」

 くねくね地面で這いつくばる能面男は振り絞るように、まったく威厳のかけらもない声で唸った。

「どうでもいいが、顔を隠してる時点でクソ以下だ」

 佐古はそういうと鉄鞘で能面の腹を突き落とした。そのまま崩れ落ちる能面に前蹴りを入れ、邪魔だといわんばかりに突き飛ばした。

「あ、ありがとう、ございます」

 次郎が、うずくまった状態のまま顔を上げて、大人達に礼を言う。

 サーシャは険しい顔を大人二人に向けたままだ。

 佐古はため息をついた。

「ゲイデン、君を狙っているのはこんな奴らじゃない」

 小山はうなずく。

 サーシャはそんな二人の態度を見てハッとした表情になる。

 その瞬間だった、佐古と小山にビリッとした緊張感が走る。

「こいつらは……本命じゃっ!」

 風子はゾッとした。すごい速い何かが緑と自分の間をすり抜けていったからだ。

「ないっ!」

 佐古は軍刀を抜いた。

 金属音が響く。

 歯を食いしばり必死の形相で佐古はそれを受け止めていた。

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