第44話「大人って難しい」
とりあえず乗り切った感があり、彼は持ってきていた文庫本を開いた。
表紙には『武士道』と書かれている。
ふと、彼が開いたページには『勇……如何にして肝を鍛錬するか』『人に勝ち、己に克つために』『サムライは、感情を顔に出すべからず』と書いてある。
彼はさすがに苦笑した。
あまりにタイムリーすぎたからだ。
これの百分の一でもあれば、渋く、大人的な注文がとれたんじゃないだろうかと思った。
ため息をつく。
今更後悔してもしょうがない。
せっかくだから、優雅で渋いひとときを過ごさなければならない。
しばらく本を読んでいると、女性の「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。
「お一人様でしたら、カウンターになさいますか?」
「あ、あっちの席でお願いします」
入り口の方で、ガタンという音。
「あ、大丈夫ですか」
「へ、へーき、ちょっとつまづいただけ」
彼は顔を引きつらせる。
彼が知っている女の子の声に似ていたからだ。
似ている。
確かに似ているが、いつものその声は自信が溢れた声なので、なんとなく違う感じにとれたのだ。
しかも、いつもよりだいぶうわずっていた。
声の主の足音が近づいてくるの彼は感じると、脳内で危険信号が鳴り響いた。
――こんなところで、あの金髪ロシア娘だけには関わっちゃだめだ。
彼は本を立てて、その小さな文庫本に体を隠すように縮こまる。
彼女は彼と同じ並びであったが、その反対側の奥の方に座った。
安堵。
ちょうど視線から外れるような場所に座ったため、こっちに気づく可能性は低いと思ったからだ。
しかし、気になってしょうがない。
なんだがすごい圧力を感じていた。
がさがさとメニューを開き、メニューに驚く気配、そしてそわそわする気配。
――おロシア国の貴族の癖に、肝が据わってないな……。
女性が水を持ってきて、彼の時と同じように「お決まりでしたらご注文をお伺いいたしますが」と一言。
サーシャは「は、はい」と言って、なにやら慌てて「ア、アイスティーで」と言った。
とっても日本語的な発音だった。
――ほんとこの留学生、日本語上手いよな。
と彼は思う。
女性が戻ると、彼女はメニューをもう一度開いて、如何にも「しまったー」というような仕草をする。
メニューを開いたり閉めたり、落ち着きがない。
彼の頭の中でアラームが鳴り響く。
ビーーーゥン。
ビーーーゥン。
あの映画とかででてくるような効果音。
危険すぎる、お互いにこんな状況をみてしまったらバツが悪い。
ぜったいに絡まれる、と焦った。
彼の場合は「恥ずかしいなあー、たはは」で終わるが、相手は粗暴な性格なだけに、暴力行為をお見舞いされるに決まっている。間違いない。そう思ってびくびくしていた。
きっと彼女のこの
――なんにしても夜道は歩けない。
まあ、門限あるから夜道を歩くことはないが。
女性がグラスに入った冷たいコーヒーと透明の入れ物に入っているシロップ、そしてミルクを置く。
「お待たせしました、ご注文は以上ですね」
落ち着く声と笑顔。
「
ここまでは事務的なお客様モードな感じだったが、急に口調と表情が変わり、暖かみのある声で聞いてきた。
「は、はい、そうです」
と次郎は答える。そして、もじもじしていた。
「たまに、この店にもあなたたちと同じような制服を着た子が来るのよ」
とサーシャの方をちらっと見る。
「ゆっくりしていってね、学校は厳しいと思うけど、がんばって、応援しているから」
彼は小さな声で「ありがとうございます」と答えた。
――やっべー。
冷や汗が垂れる。
気づかれた。
今の会話でこっち気づいてしまったのだろう、サーシャが次郎の方向をじろっと睨んでいた。
お店の中で、他のお客にそんな目つきで睨むのは、ヤンキーぐらいだろう。
仕方がないので、次郎はそっちを見てぺこりと頭を下げると、彼女はなぜか視線をそらした。
彼は不思議に思いながら本をいったん置く。
ストローの紙を破ってアイスコーヒーに突っ込んだ。
そのままストローに唇を付けコーヒーをゆっくり吸う。
苦い。
苦いけどコレが大人の味だろうと思った。この味になれることが大人への一歩だと思うと、不思議とおいしく感じた。
でも苦いものは苦い。
サーシャの方にもアイスティーが運ばれてきた。
彼は本を開き続きを読む。
『サムライは寡黙であれ』
彼は一人頷きながら、なるほど、渋い男は寡黙に限ると思った。
そうしていると、女性が彼のところで立ち止まる。
「あの留学生の子、どこから来たのかしら?」
と彼は聞かれた。
「ロシアだと聞いています、あまり関わっていないから知りませんが」
関わっていない、を強調しながら答え、ちらっと女性を見上げる。
彼はその男装的な制服にも関わらず、ずいっと出た女性の胸に目が釘付けになってしまった。
「すごくかわいい子よね」
女性は思春期の男の子のそんな視線にも気づかずに話を続けている。
「はあ」
彼はあんな子よりもあなたの方が綺麗です、しかもカッコいいです。
そう言いたかったけど、もちろん言えなかったため、ぶっきらぼうに答えた。
「俺、あの人、あまり知らないんです」
と繰り返した。
女性が「へー」と意味深げな微笑を浮かべ、カウンターに戻る。すると、彼にとってはデンジャラスゾーンである方向から声がした。
小さい声だ。
「ねえ」
無視した。聞こえないふりで乗り越えよう。
「ねえってば」
彼はこれ以上無視するのも挑発になるかもしれないと思い、ゆっくりと首をそっちに向ける。
あまりの恐怖のためだろう。
ガクガクガクといった油の切れたような感じで首が小刻みに動いた。
固まった笑顔。
お店の中ではやめろ。
いつものようなちょっかいはやめろ。
暴れるな。
と、念じた笑顔だった。
サーシャは目が合った後に視線を落とし、じーっと紅茶を見ながら口を開く。
「言っておくけど、私は最初から紅茶が飲みたかったの」
と言った。そして、ちゅーと音を立てながら、すごい勢いで彼女はアイスティーを吸い込む。
その後なにかをぶつぶつ呟いていた。
「メニュー、なんでロシア語がないのかしら、日本語で珈琲とか紅茶とか書かれていいてもわからないんだけど」
とメニューに書かれた日本語を正確に読みながらぶつぶついっている。
流暢な日本語でぶつぶつと。
彼はツッコミを入れたかったが、ぐっとこらえた。
これ以上、ややこしいことに首をつっこみたくはないのだ。
そうやって、少年少女は半歩ずつ大人の階段を登っていった。
――まったく、この国といい、ロシアといい、お子様すぎる学生が多くて恥ずかしい。
そんなふたりを見ながら独り言をこぼしている女子。
店の奥、いつもお団子にしている髪を結ばず、肩の下まで自然にしている山中幸子がいた。
留学生は自国の制服か少年学校の制服を着るか、どちらかを選べるがサーシャと違い、自国の制服を着ていた。
男女平等意識の高い共和国の陸軍幼年学校の制服は、男女ともに紺色の詰襟の上着にスラックスだ。
そんな制服を着た幸子は、目の前に置いてある小さなカップに入っている真っ黒な液体を睨んでいる。
――共和国の学生は、みな意識が高い。
この国の高校生はレベルが低い。
軽蔑した眼差し。
喫茶店で珈琲を飲むくらいで、ギャーギャー騒ぐ次郎とサーシャを見ていたのだ。
ふん。
鼻で笑う。
その後、エスプレッソの濃厚な香りを楽しむ様に目の前の小さいカップを近づけた。そしてぐいっと液体を口の中に流し込んむ。
目を白黒させる彼女。
砂糖も入れずに飲んだため、苦すぎたのだ。
少し咽る。
「ちょ、ちょっと埃が喉に入っただけだから」
心配してお手拭を持ってきた女性にそう言って強がっていはいるが、彼女の顔は蒸気している。
強がる幸子。
それもひとつの大人の階段なのかもしれない。
こうして、ちょこっとだけ幸子は外国で大人の階段を上っていた。
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