第3章 水無月「学校祭の季節です」

第43話「大人の階段のーぼるぅー」

 

「……サーシャ、だめ」

「だまれ」

 能面の男は風子の髪を鷲掴みにしたまま、地面を引きずるようにして持ち上げる。

 彼女は痛みに逆らうことができず、ふらふらと立ち上がった。

 恐怖を抱えたまま彼女はゆっくり目を開けると能面の顔が真横に、その視線の先にはサーシャが立っていた。

 能面男の興奮した息遣いを聞きながら、狂っていると風子は思った。

「ロスケに加担する非国民が」

 興奮しすぎているのだろう。

 能面男の発した声はイントネーションが変になっている。

 風子は殴られた箇所や髪の毛を引っ張られる痛みを感じながら、目を動かし、緑が無事なことを確認して安堵した。

 ――そうだ……とりあえず大人しく動かなければいい、学校の中でこれだけ騒いだら教官達がもうすぐくるはずだから。

 彼女は視線を移す。

 目の前のおかっぱの金髪が逆毛立つのが見えた。

 ――ああ、サーシャ、そんなに怒っちゃだめだよ……今動いたら危ないよ……。

 じりじりと近寄る男達の手には、金属バットのようなものが握られていた。




 ■□■□■


 外出。

 彼らは外出するということが、こんなに特別な事だと思っていなかった。

 生まれてからこの陸軍少年学校に入るまでの間、それは当たり前の権利だと思っていた。

 彼らにとって外出は自由の象徴であり、生きる理由にまでなっていた。

 六月になり、一年生達は個人で外出ができるようになっていた。

 レベルがなんだか上がった気分である。

 五月には一応、引率外出――まるで修学旅行のような上級生との強制団体行動をとらないといけない外出――はあったが、もちろんリフレッシュなんてできない。

 学校の朝礼で個人で外出が可能なことを生活指導教官である二中隊の副中隊長野中大尉が告げた時、男子は叫び声を上げ、女子は拍手をした。

「門限だけは守れよー、守らんと一ヶ月の外禁なー」

 気の抜けた声で野中おっさんは言ったが、誰も聞いていない。

 彼らが入隊して二ヶ月。

 はじめて自由を手に入れたのだ。

 ただし、制服での外出であるため、いろいろと制限はあるのだが。



 上田次郎はあの正門を出た瞬間、これって出所だな、と思った。

 ヤクザ映画のワンシーン。

 出所した若頭が手をひさしにして、その下にから覗く目を細めて、明るい街並みを見る。

 そんなシーン。

 彼は一人でその門を飛び出し、バスに乗った。

 目的地は香林坊。

 初めてのキラキラした都会。

 生まれ育った九州の炭鉱町にはない風景なのだ。

 彼の目的はひとつ。

 『渋いマスター』『JAZZ』『珈琲』が揃うお店で『読書』をして、渋い大人への一歩を踏み出すことだった。

 大人の階段を登りたい年頃なのだろう。

 目的地に向かうバスのなかで、にやにやする顔を必死に堪えながら、街並みをじっくり見ているとバスが止まった。

 バスから降りようとする列の中に、知っている人がいたのだ。

「あ、ジュ……」

 声をかけようとしたが、途中でやめた。

 彼の同部屋の先輩である渡辺潤に手を振る年上の大学生っぽい女性がいたからだ。

 潤が降りた瞬間、走りよった彼女を見て、次郎は彼の彼女だろうと推測していた。

 彼女さんが潤の手つなごうと手を出したが、潤はその差し出された手を優しく押し返した。その代わりに何かをしゃべって、二人で笑っていた。

 ――めっちゃかっこいい。

 次郎は、潤の表情、仕草、そして年上の女子に対しても余裕ある態度を見て感動していた。

 ――僕もいつかは、年上の女性に対してでもあういうことができるようになりたい。

 無理だけどね、と自分でツッコミを入れながら、なんだか寂しくなってしまった。

 それでも諦めず大人になろうと気持ちを鼓舞して潤から視線を外した時、バスが動き出した。

 そうして、高い建物が密集してきたところでバスを降りた。

 次郎はこんな場違いな場所を早く抜け出したい衝動に駆られる。

 テレビなんかで見たことがあるブランド名の看板が大きく目に入ったからだ。

 そこらじゅうにそういものを飾っているお店が立ち並んでいる。

 あまりに場違いな感じがした。

 歩いている人たちが、とてもオシャレに見えてそして大人に思えた。

 子供の自分なんかがいる空間ではないと思ったのだ。

 彼はその場所から逃げるように早歩きになり、違う通りに抜けていった。



 次郎が生まれたあの炭鉱町で喫茶店といえば、おばちゃんとかがやっていて『おしるこ』『カキ氷』とかがメニューにあるようなお店だ。

 もちろん外国の国名や都市と同じ名前の看板が掲げられているようなお店。

 そして、夜は間違いなく居酒屋、スナックとして営業している。

 ――せっかく、田舎を出たんだから渋い大人への一歩を踏み出したい。

 彼は目をキラキラさせながら、通りを歩いていた。

 香林坊から少し離れたところにいくと、すれ違う人々の年齢層が、バス停付近よりもだいぶ下がってきた。

 彼は渋い店を見つけるために、若い人たちがいる場所にいくのは矛盾しているのだが、あまりに場違いなところを歩くには早すぎた。そして、今彼が歩いている場所は白い石が引きつめられた石畳の通りで、若者向けのショップやメジャーなバーガー店があるようなところだった。

 彼は歩きながら、お店の看板と雰囲気を見て目的の場所を探す。

 ――シュタッバか……。

 矢次に注文を聞かれ、ヘキヘキした覚えがある。

 彼はこういう店は経験済だった。

 ちょうど、入隊のために九州から金沢にくる途中の京都でお店に入ったのだ。

 そこはなんとなく落ち着きのない店で、彼が求めているような店ではなかった。

 そう、彼はメジャーなチェーン店に用はなかった。

 ――渋いところ……それにジャズ。

 歩いていると、木製の看板に「珈琲」の文字がある店を見つけた。

 看板だけが出ていて、店に入るにはその細い階段を登るしかないような場所。

 彼は勇気を振り絞り、その細い階段を上っていった。

 途中、ガラス越しに小さな四角い穴があり、そこに瓶に入っている珈琲豆とか、古い木製のミルなどが飾ってあった。

 彼の期待が高まる。

 こういう雰囲気にあこがれていたのだ。

 そしてドアをそっと開けた。

 彼の田舎の喫茶店にあったカランカランンとなるような鈴はない。

 代わりに数歩進むと店員の声が聞こえた。

「いらっしゃいませ」

 次郎は一瞬がっかりする。

 渋くはない女性の声。

 彼はおっさんの登場を期待していた。

「お一人様でしたら、カウンターになさいますか?」

「あ、あっちの席でお願いします」

 彼はとっさに奥の二人用のテーブルを指差した。

 三十台ぐらいの赤い縁の眼鏡の女性は、にっこり笑顔で「どうぞ」と言った。

 白いシャツにほっそりとした黒いパンツ。

 男装的な制服は彼女の魅力を十分引き出していた。

 彼は椅子にチョコンと座り、店内を見渡す。

 思ったよりも明るい、でも落ち着いた感じのするお店だと思った。

 珈琲の香ばしい香りが充満している。

 カウンター近くには、お酒みたいなビンがたくさんある。

 きっと夜はバーになるのかもしれない。

 彼は席に座り、なんともそわそわする気持ちを抑えるために、メニューを開いてみる。そして、固まった。

 珈琲……と書かれた欄の下に『ストレート』『ブレンド』『アレンジ』とあり、『ストレート』にはブラジルやジャマイカなんて国名やキリマンジャロ、ブルーマウンテンといった山の名前がある。

 彼は困惑した。

 そして値段。

 ――高っけえええー。

 ――『ブルーマウンテン千五百円』って何? 缶コーヒーのアレとはどう違うのっ。

 そう叫びそうになったがぐっとこらえ、次に『ブレンド』の欄を見る。

 そこには、金澤や白山といった地名が十種類近く。そして『アレンジ』にはウインナーコーヒー。

 ――大丈夫……いくら僕でもウインナーコーヒーのウインナーはウインナーじゃないことはわかってますよ。

 と勝ち誇ってみる。

 ――……でも何が入っているだろう。

 気になってしょうがない。

 そうしているううちに、さっきの声の女性が来て、次郎の前に立っていた。

 次郎が見上げて目が合うと、にっこり笑顔を浮かべた。

 彼は慌てて目をそらし、自分の顔が赤くなったことを自覚できるぐらい顔に熱を帯びてしまった。

 年上に弱い子なのだ。

 しょうがない。

 女性がグラスに入った水を静かにテーブルに置く。

「お決まりでしたらご注文をお伺いいたしますが」

 と一言。

 彼は上ずった声で「は、はい」と答えてしまった。そして、そのことを気にしてか、ごまかそうと「お、お願いします」とメニューを開いて、如何にも注文する態勢をとってしまった。

 ――や、やばい……ま、まだ決めていないのにいぃ。

 こうなってしまうと、強制的に注文をしなければならない雰囲気なのだ。

 ――ちょっと、お姉さん、初めてなんで急かさないで……。

 そう心での中で叫んでも、もうどうしようもない。

 ――ど、どーしよ……とりあえず安いものにするか、ストレート、よくわからないけど、子供が飲んでいけないような気がするし……あ、早くしないと、お、お姉さん待たせちゃいけない。

「こ、こ、これを、お願いし、します」

 メニューを指差しながらしゃべったが、そのイントネーションが違った。

 九州の言葉の訛りがでていた。

「アイスコーヒーですね」

 彼は返事の代わりに頭を三回縦に振った。

 今声を出すと更に数オクターブ上の声を出しそうになってしまったからだ。

 女性がカウンターの方に戻ると、彼は安堵のため息をついて、深く椅子に腰掛けた。

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