第37話「バディ」

「痛てててて、つった、つった」

 彼女は彼の胸の上に頭を密着させたままそう唸る。

「お、重い」

 下から聞こえるくぐもるような声。

 次郎は次郎で必死だった。

 女子に抱きつかれるような格好である。

 さすがに、男子とは違う柔らかい肌、そして女子の匂いを間近で感じてどぎまぎしてしまう。

 近づくのと触れるのでは数倍違うのだ。

 風子の胸は男子的な状況なので、あまり意識しなくて良かったが触れると別である。

「痛ててて、ごめん、今どけるからって、重い? 失礼! ひどい!」

 もがく風子。

「息が……息が……」

 もがく彼女の腕が喉元を圧迫しているため、彼は息苦しかった。

「痛っ、男が、弱音を……てて」

「だから、ちょっと……どいて」

 二人して絡み合うように――もちろんえっちな意味でなく――もがいている。

 食事の時間が来たことを知らせる信号ラッパ――通称メシラッパ――が鳴り響いた。

「あ、やば」

 風子は同部屋の先輩達と待ち合わせていることを思い出す。

 いつもこの訓練が終わったら、ご飯を一緒に食べにいくのだ。

 ――先輩達に見られたら、大変なことになってしまう。

 冷やかしの種になるという意味で。

 それはやばい。

 カツン。

 床のタイルにいつも以上に響く足音。

「ふーこちゃん……え、ええっ?」

 聞こえてきた声は先輩達ではない。

 三島緑ミシマミドリだった。

 それはそれで最悪なタイミング。

「あのね、緑ちゃん聞いて、これはね」

 緑は口を押さえて、目を見開いている。

「三島さん、これは事故で」

 次郎も援護射撃。

「だって、ふーこちゃんと上田君が……」

 そう言っている間に、走ってくる小さな影が一つ。

「ああうあうあわ!」

 良くわからない声を上げながら走ってくる男子。

「次郎! お前は! お前は……」

 松岡大吉マツオカダイキチだった。

「大吉、違う! あのな、違うんだ」

「お前! 俺が! 中村さんのこと!……知ってる、くせにぃ」

 膝から崩れ落ち天を仰ぐ大吉。

「寝取られた……寝取られた」

 ぶつぶつ物騒なことをしゃべっている。

「それは違う」

 次郎ががきながらツッコミを入れる。

「え、何? 大吉君、どうしたの?」

「中村さんと次郎が……そんな、ちんちんかもかもしているなんて……」

 絶望の大吉。

 ちんちんかもかもと壊れたスピーカーの様に繰り返し呟いている。

 裏切られた友情。

 裏切られた純情。

「ばか!」

 大吉の言っている意味を理解した風子は、罵りながら、なぜか器用に安全靴を脱ぎ取り投げつける。

 ぐふん。

 そう唸り声を上げた大吉は正座をしたまま仰向けに倒れた。

「松岡大吉、俺の青春、グッバイ」

 涙を流しながら意味のわからない言葉を呟いている。

「馬鹿っ! こんな公衆の面前でこんなことをするわけないでしょ」

 風子がそう言い訳するが、大吉の反応はない。

 そして緑は一歩下がってしまった。

 いわゆるドン引き。

「これは……今日の復習で、バディだから」

 次郎もそう言って言い訳をしていると、また新しい声が風子の背中の方から聞こえてきた。

「ほうほう……青春してるね、若人達……でも、昼間から男の子におっぱいのせるとか関心できないなー」

 風子と同部屋で先輩の純子が楽しそうにいっている。

 ベリーショートの髪型が挑発的な態度を助長していた。

「いや、違うんです先輩、練習中に、あれです、足がつって」

 顔を向けることができいないので、背中越しに話している。

「そうです、滑って転んで……です」

 声を出して笑う純子。

「あー、下の子が例の彼ね」

 と、余計なことも言う。

 風子はその言葉に更に慌てた。そして、その態勢から無理矢理抜けようと動き出す。

 彼女は体を上に伸ばしながら、回転させるように動いた。

 でも、逆効果。

 フックでつなげていたロープが悲しい具合によじれて、さらに悪い状況を作りだす。

 ゴロンと、体勢が変わり今度は逆になった。

 風子が下で次郎が上になっただけではない。

 見事にさっきよりも密着してしまった。

 更に悪いことは続く。

 態勢がずれて、次郎の顔が彼女の胸の部分に乗っていた。

 彼は上に乗っている状態だが、ベルトやフックが絡まって顔も動かすことができない。

 ぱっと見た感じは、次郎が抱きついている状況。

「顔、顔痛い」

 次郎が悲鳴を上げる。

 風子の胸骨の部分が頬に当たっているのだ。

「痛い、痛い」

 クッションが少ないせいか風子も痛い。

 次郎が大吉に助けてくれと言おうとそっちに目を向けると、その先の自販機の横に顔を半分だけ出してじっと見ている女子と目が合った。

 冷たい眼差しにドキッとしてすぐに目をそらす。

 ――本当だった……共和国で教えてもらった通り、帝国の男女関係は乱れてる。

 そう言いながらメモを取っているのは東の共和国からの留学生である幸子。

 長い髪を後ろで束ね、細長の目をさらに細め、ふたりを見ている。

 ――不潔……不潔。

 彼女がやや興奮気味なのはおいて置く。

 次郎が幸子から目をそらし、落ち着いてフックにかかっているロープを解こうと思った時だった。

 純子が息を飲む音が聞こえた。

 緑が口を押さえた。

 大吉は男泣きしていた。

「ぎゃふん」

 次郎がそう言って体をくの字に曲げる。

「ばかちんがあああ!」

 そうマニアックな日本語を叫ぶロシア娘が彼を蹴っていた。

 わき腹につま先キックを一撃。

「信じられない! こんなに乱れてるなんて……」

 二撃、三撃。

 ぶつぶつとロシア語で何かを呟いている。

「やられた! ふーこはこんなに積極的じゃないと思ってた! 油断していた、ガッデム」

 このロシア人、外来語まで習得している秀才だ。

 だが思ったことが言葉に出てしまう、痛い子である。

「いきなり、蹴るって、この暴力金髪!」

 さすがに痛かったのか、次郎が抗議の声を上げる。

「うるさい! このえっち男」

 興奮すると語彙力が低下するらしい。

「俺が何をしたっ」

 一瞬のことだった。

 次郎の後頭部にのったふんわりした感触、次いで重みを感じる。

 首に何かが巻き込まれた。

「な、っぷ」

 次郎の言葉が続かない。

 サーシャは彼の頭を抱え込み、そして後ろから締めに入ったのだ。

 間一髪指一本を隙間に入れたため、なんとか頚動脈は守り失神は防いだが、容赦なくぐいぐいと締められる。

「もういい、落とす」

「あ、かっ、お、前の」

「男なら、はっきり言いなさい」

 とサーシャ。

 そうは言っても締められているため次郎は言葉がでない。

「サ、サーシャ……乗らないで、潰れる潰れる」

 と風子。

 下の方で二人分の体重に耐えながらもがいている。

 そのうち、次郎の反応がないのに飽きてしまったのだろうか、サーシャは少しだけ腕を緩めた。

 むせる次郎。

「げほっ、お」

「さあ、お詫びの言葉を言いなさい」

「お」

「お?」

「おっぱいを押し付けるなんて、ち、痴女が」

 ごん。

 次郎を締めていた腕は完全に解かれた。

 だが、容赦のない拳が脳天に突き落とされる。

 真っ赤な顔をしたサーシャはもごもごとなにかをいう。

 この子は口よりも手が出る性質だった。

 のっけたのはサーシャなのに理不尽な仕打ちうける次郎は不憫なのかもしれない。

「サーシャ、降りて降りて」

 ――いいからどいてよー!

 潰れて声がでないから、じたばたする。そして、悪い状況は更に悪い状況を呼んでいた。

 喧噪に誘われるようにしてやってきた大人。

 こういう場面を一番見られてはいけない大人は『部内恋愛(ナイレン)禁止』を宣言している中隊長の佐古少佐である。

 だが、目の前にいるのはそれの二番目。

「何を騒いで……ちょ、ちょっと、あなた達」

 やや低いが響き渡る声。

 中隊副官の日之出中尉参上である。

「こ、公衆の面前で!」

 ひとまわり違う子供たちが絡まっている姿を見て、少し赤面しながら、彼女はビシッと言った。

 その声を聞いた取り巻きは、蜘蛛の子を散らすようにその場から離れ散っていく。

 サーシャも日之出と目が合った瞬間、脱兎の如く逃げ出した。

 防衛本能。

 そういう危機管理能力は高い学生たち。

 そんな感じで、ぽつんと残された二人。

 その後たっぷりと説教を受けることになった。

 清い男女交際のあり方について、くどくどと述べられる。

 ――そんなんじゃないんだけど……。

 二人同時にそう思っていた。

 先に次郎だけが解放される。

 日之出は風子と二人きりになった途端、優しい口調になり、女性としていろいろなものを大切にしなければならないのかを教えられた。

 かなり古風な女性観だと風子は思った。

 そして純情である。

 自分のあの母親とは大違いだ。

「大切にしなきゃ、ね」

 と風子の頭に手を置いて別れた後、一人ため息をついた。

 そして、急に恥ずかしくなる。

 ただ、復習をしていたのにも関わらずまわりからは付き合っているとか、いちゃついているとか、それにそういうことをしている最中だとか思われたことに対して。

 疲れた。

 とにかく疲れた。

 彼女は次郎が絡むとろくなことが無い。

 ほんと、あいつに関わると。

 ――はやく、この訓練終わらないかな。

 彼女はそう思う。

 そして、次郎に触れていた肌をすっと撫でた。

 ――明日またバディで訓練をして、復習しないといけない。ああ、めんどくさい。

 しばらくして、彼女は首を傾げた。

 上田次郎。

 出会った時の当たり障りのない感じの男子。

 なんでもできそうな優等生。

 そして、ダメな部分。

 そんな姿を思い出していると、彼に対して昔より嫌悪感が沸かなかった。

 そういう自分に気づいていた。

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