第36話「ふたりの距離」

 中村風子は不機嫌だった。

 相変わらず上田次郎にイライラさせられているからだ。

 軽歩の訓練。

 今日も彼女は次郎のお守り。

 『こういうのも悪くない』と少しでも思ってしまったことを後悔していた。

 ――やっぱりメンドクサイ!

 叫びたい気持ちをぐっと飲み込んで、ため息をつく。

 足をひっぱるバディ。

 実際のところ次郎の腕前は歩けなかった頃に比べれば格段に上がっていた。

 ただ、教育内容も課目の進展に比例して難易度が上がっていっているため、彼の腕前はそれに追いつけず低空飛行を続けている。

 性質タチが悪かった。

 ――どうせなら。

 と風子は思う。

 最初から救いようのないほどセンスがなければ、課目の進捗速度自体を落としてもらえたかもしれない。

 そうすればそもそもバディになることもなっかっただろう。

 彼は下手に努力して、下手に腕前を上げ、下手に通常クラスの訓練についていってしまうからこんなことになっている。

 スタートダッシュの失敗。

 なかなか取り戻せるものではない。そして風子は、そんなものに付き合わされている。

 いい迷惑。

 そんなことで今日も二人はバディで訓練をしている。

 本日の課目。

 搬送訓練。

 何らかの故障で仲間の軽歩が動かなくなった場合、それをどのようにして安全なところまで運ぶかを習得するための訓練だ。

 運ぶといっても、引きずるような形である。

 銃弾が飛び交う中、姿勢を高くできない場合が多い。

 低い姿勢で運ぶ要領を学生達は練成していた。

 運ばれる方は仰向け、運ぶ方が四つんばいになって腰の部分にフックに引っ掛けワイヤーで固定する。そして、シャクトリ虫のようにしてずりずりと引っ張る。

 それだけのことだが、これがなかなか難しい。

 地面をずりずりと這う軽歩。

 次郎はバディの風子を運ぶ役だった。

 ギクシャクした動きが目に見えてわかる。

 ずるっ。

 彼が操縦している軽歩の右足の膝が地面から滑った。

 風子の軽歩に覆いかぶさり、抱き合うような形でもがく。

『なんでそこでコケる』

 無線で風子が抗議するが、次郎はいつものように『ごめん』としか言えない。

 ふたりはなんとか離れようともがくが、腰のフックで固定した状態ではうまくバランスが取れなかった。

『ごらあ! 壊す気かそこのバディ!』

 お約束の如く教官に叱られる。そしていつものように強制筋トレ反省へ移行。

 このとばっちり筋トレのお陰で風子の女子力は一段と低下していた。

 心なしか筋肉がムキッと膨張することを実感できるようになっている。

 乙女の危機であった。

「ごめん」

 次郎がペコリ頭を下げる。

 風子が軽歩から降りたあとの習慣。

「謝る暇あったら練習しよう、今日も」

「ごめん」

「しょうがない……軽歩ではバディだから」

「……」

「びしばしやるから」

 訓練が終わり、食事の時間との間にある三〇分だけを使って復習をしていた。

 先日大騒ぎになった次郎と大吉の勝手な練習は許されなかったが、ちゃんと整備長にお願いして使っている。

 整備長おっちゃんは娘ぐらいの女の子にお願いされるとついついオッケーと言ってしまうものだ。

 そういうわけで二人は復習を始める。

 だが、今日はいつもと状況が変わった。

 急遽入った軽歩の整備が忙しくて、使えないと言われたのだ。

「一日遅れたら、明日の訓練に響くよね」

 風子は独り言のように呟いた。

 次郎は微妙な表情でうなずいた。

「上田君、軽歩ないけど今日のおさらいをやろう……」

 ――私が次の訓練で怒られないため。

 彼女はそう自分に言い聞かせながら言葉を続ける。

「イメージ、イメージをしっかり持つことは大事でしょ」

 彼女の言葉に次郎の目は『?』マークになっている。

 風子が提案したのは、イメージ訓練。

 つまり実際に軽歩に乗っているのと同じように生身で練習をすることだった。

 そういうわけで、風子は次郎に覆いかぶさるように四つんばいになる。

 彼女と彼のベルトはフックで繋がっており、さっきの軽歩と同じ態勢をしていた。

 搬送要領。

「いい? この時の動きは肩の力を抜いて、微妙に右半分を上にずらすように……足の方も同じ、膝じゃなくて足の付け根から動かす、こんな風に……って、重い」

 それはそうだ。

 六五キログラム前後の男子を女子が引きずろうとしているのだから、できるはずがない。

「ぐぬぬぬ」

 叫んでみてもうまくいかない。

 そのうち彼女はあきらめて「今のイメージでやってみてよ」と言うと、繋がっていたフックを外し、次郎の横にゴロンと転がった。

 次郎はしばらく、その状況を見ていたが、風子の「早くして」の言葉でのろのろと動く。

「それじゃ、やってみる」

 そう返事をすると、次は次郎が四つんばいになりベルトにフック繋げた。

 風子は下から見上げるようにして次郎を見る。

 思っていたより肩幅が大きいな、と感じた。

 筋張った首筋、Tシャツの首元から見える鎖骨。

 彼女はそれを見て、少しドキッとする。

 ふと気づけば、目と鼻の先に男子の胸筋があるような経験をしたことがない。

 嫌でも――実際は嫌な感じはしなかったが――男子独特の汗の匂いと熱気が彼女の動悸を早めた。

 そんな慌てる乙女心も知らず、次郎は目をつぶって集中をしている。

「上半身は肩の力を抜いて、微妙に右半分を上にずらすように……そして、足の方は……」

 ぶつぶつと風子が教えたことを繰り返し言っている。

 彼女はさっきのドキドキを誤魔化すため、むすっとした声で言葉を続けた。

「足の方は、人間が歩く時とは違って、足の付け根から動かすように……もう、ちゃんと覚えてよ」

「ごめん……足の方は、付け根から動かすように」

 一歩前に出る。すると、風子は地面に背中をひきづられるようにして動きだした。

「痛てててて」

 背中を擦ってしまった風子はたまらず声を出す。

「ごめん」

「あのさ、引きずるのは無しで」

「うん、ごめん」

 次郎は、手と足を動かす動作に合わせて動く。

 風子は、手と足をうまく使って腰と背中を浮かせる。

 こうして地面との擦れを解消した。そして、浮かした分もっと彼と接近することになっていた。

 匂い。

 肌に感じる体温。

 風子は急に恥ずかしくなってしまう自分の気持ちを堪えて、自分たちの状況を想像した。

 第三者的な視点でみれば冷静になれると思った。

 たぶん、別の角度から見ると、二人は不器用に地面を這いつくばっている蛙のような感じなのかもしれないと思った。

 余裕が出てくる。

 恥ずかしさの次は笑い。

 急にそれがこみ上げて来て、フフっと笑ってしまった。

 十数センチの距離。

 すぐに、笑ってしまったことがばれる。

「こっちは真面目にやってるんだから……笑うなよ」

 むすっとした次郎。

 風子はすぐに「ごめんなさい」と謝る。

 確かに失礼だったかもしれない。

「不器用で……悪い」

 次郎も謝る。

 風子は笑ったのはそこじゃないんだけど、と思った。

 ドキドキは収まっている。

 そうしているうちに、今日最後の復習ということで、風子がまた上になって『コツ』を教えることになった。

「えっと、これは私の感覚なんだけど、操縦はちょっとした人間の動きに反応するのは良くわかってると思うんだけど……特に四つんばいは、体が下をむいてベルトにぶら下がっているような状態だから、足を支えているところに力が入らない、だから、下半身は腰骨をそして上半身は肩甲骨を内側からずらすようにしてちょっと動かすと、その動きに反応するから」

 軽歩の操縦は、人間の体の各部位の微妙な動きに連動する機能を活用して動かすものである。しかし、次郎は瞬発力がありすぎるせいか、過剰に反応してしまう。そのため、バランスが悪く上手く動かせない。

 風子はなかなか上手く言葉で表現できないが、こうして体を使ってその微妙な動きを表現していた。

「ごめん、口ではあまり説明できないんだけど、こんな感じかな?」

 彼女は背中、肩甲骨、首のあたりを微妙に、本当に微妙に動かした。

 連動して股関節、お尻の筋肉も動かす。

「微妙、微妙な動きだから」

 そう言いながら、もう一度彼女はぐいっと体を動かした。その時、床のぬるっとした部分に触れ、その気持ち悪さに慌てて手を引っ込める。

 自分自身の汗が床についていたものに触れた。

 その瞬間、彼女はビクッと過剰に反応して無理な動きをする。

 その反動で足がつった。

 元々はそんなに体力のない風子である。

 気を張っていたから、そんなに疲れていない気分だったが、こうやって人一人を引っ張ったり、自分の体を無理な体勢で浮かせたりすることで疲労がたまっていた。

 バランスを崩し、風子は次郎に覆いかぶさってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る