第30話「サーシャはちゃんとスポーツ用をつけるべきである」

 学生達は一列に並んだ軽歩、予め示された番号の器材の前に立っている。

 幸子はまわりを見渡していた。

 ――しっかり、軽歩のデータを持ち帰らないと。

 そんなことばかりを考える真面目な女子。

 一方サーシャは、さっきの休憩時間に整備士のおっさんと仲良くなり、軽歩の中を見せてもらっていた。

 すでに、必要な情報は頭の中にインプットしている。

 ――ま、ちょっとしたお土産にはなるかもしれない。

 彼女は機械に強い。

 機械の外側や乗り込んで中の方を見るだけで、機械がどういう作りかわかるのだ。

 そして次郎。

 サーシャのおっぱいが頭にこびりついて離れない。

 ――賭けてない、賭けてない。

 念仏のように唱えている。

 そういう三人が並んでいる右横に、中村風子はいた。

 次郎は隣の風子をちらっと見てしまう。そして、サーシャのと比べてしまう。しょうがない。一度風子のは触ったことがあるからついつい比べてしまう。

 ――小さい。

 風子はぶるっと悪寒がしたので次郎を睨む。

 すでに次郎は目を逸らしているので、その原因に気づかない。

 それでも彼女は『何か』という冷たい視線を彼に送った。直感で何かとても理不尽な侮辱を受けたような気がしたのだ。

 次郎は次郎で、何でそんな視線を送られなければならないのかと、理不尽に思っていたが、さすがにおっぱい触るような事故起こした後だし嫌われてもしょうがないよな、と思い直す。

 しかし、なんか悔しいので、中村がそっぽを向いた後にまじまじと観察する。

 今は作業服の上衣を脱いで白のTシャツになっているのだ。おかげで上半身は観察しやすい。

 胸はわかった。

 他の部位はどうだろう。

 男は女の子をそういう目で見ることで立派に逆襲できるのだ、そう次郎は自負する。

 えっへん。

 次郎は意味もなく胸を張っていた。

「なんか、汗臭くないですか?」

「気のせい気のせい、すぐ慣れるから」

 風子は指導に当たっている現役の兵士からなだめられ、嫌々、軽歩に乗り込んでいる。

 次郎も乗り込む……いや、彼の感想は入り込むといった感じと言った方がいい。

 とにかく中に入ると、思ったよりも窮屈で視界は狭い。そして、ベルトを締めるというより立ったままぶら下がっているような感覚の方が強い。

 耳元には無線がある。

『通話要領は座学でやったとおりだ、さっきも言ったが『習うより慣れろ』早速歩行訓練を実施する』

 林少尉が無線で放送している。

『要領は簡単だ、重心を腹の下において、ゆっくりと足を出すだけだ……いいか、ただ足を出すだけだぞ』

 右の方から順番に『了解』と答えていく。

 『中村、了解』の後に次郎が同様に『上田、了解』と言う。そしてその声に被せるような感じで『ゲイデン、楽勝です』と彼女は余計なことを言った。

 その後、冷たい声で『山中、了解』と幸子が言う。

『肩の力抜けよー』

 林が放送する。そして号令をかけた。

『歩行開始!』

 シュコーン。

 はじめの一歩。

 ズドン。

 重量物が地面に落ちる音。

 そんな音が数個聞こえると、林はニヤッと笑った。

『自然体だ自然体』

 そう無線で放送するが、肝心の倒れた者達には聞こえていない。

 なにせそれどころじゃないのだ。

 次郎の場合は、モニターに薄暗い地面が写った状態で手足を不器用にバタバタさせている。

 サーシャは『きゃあ』と不覚にも声を出した後、何やら怒りの口調のロシア語でぶつぶつ言っている。

 現役の兵士が近づくと直接会話モードで話せばいいものの、無線でわざわざ飛ばして文句を言う。

『なに、これ、整備不良じゃない』

 怒ってる。

「機械のせいにするな、自分が機械に合わせろ」

 サーシャとバディになっている現役の女性兵士が鋭くつっこみを入れる。

「ゲイデン、郷に従え」

『こんな不良品……』

「ゲイデン、他の者はちゃんと歩いているぞ」

 もちろんサーシャは周りを確認できないが、ガシャンガシャンと歩いている音は聞こえる。

 倒れているのは、サーシャや次郎の他二人ほど、たったそれだけがバタバタもがいていた。

『とりあえず、立ち上がるまで外には出さん、自力でなんとかしろ』

 林は無線でそう宣言した。

 顔は相変わらず笑っている。

 なにせ、数人がこうやって倒れるのはお約束なのだ。

 どうしても軽歩と相性が悪い人間がいる。

 いつものことなのだ。

 その後、午後の時間がぎりぎり終わるまで、次郎達は地面を這いつくばっていた。

 そもそも歩けない人間が立てるはずがない。そういう訳で、最終的にはクレーンで吊り上げられて、当初の立ち姿勢に戻してもらい、それから彼らは無事脱出ができた。

 汗だくになりながらなんとか這い出ると、もう既に他の学生はいない。

「他の者は着替えに行った」

 と整備員の軍曹がニヤニヤしながら言っている。

「まあ、最初はそんなもんだ、みっちり一年鍛えてやるから、早く歩けるぐらいにはなれ」

 ははははと笑いながら、待ちくたびれたような顔をして林は言った。

 次郎はちょっと休もうと思いベンチに向かう。

 彼が汗をぬぐってその方向を見ると、すでに座っているサーシャが、汗のせいでおでこに張り付いてしまっている金髪の前髪を拭きながらぶつぶつ言っていた。

「こんな屈辱」

 次郎を睨みつける。

 ――僕のせいじゃないんだけど。

 彼がそう思っても、サーシャには通じない。

「屈辱」

 苦虫をかみつぶしたような表情とはこのことだ。

「屈辱」

 そういう言葉を三回以上繰り返す。

 このロシア娘は本当に日本語が流暢だ、改めて次郎は思った。

「生まれて初めてだわ、こんな屈辱」

 ――どんだけ挫折の無い人生なんだよ。

 そうツッコミをいれようとするが、これ以上関わりたくないのでぐっと飲みこんだ。

「上田次郎」

 彼女が指を次郎に突きつけながら、フルネームで呼ぶ。

「あ、はい」

 唐突だっため、彼はつい間抜けな声で答えてしまった。

「勝負はお預け、まずは雪辱しなければ……いい?」

「お、おう」

「それにしても情けない男、全然歩けないなんて」

 ――お前もなっ!

 ――あなたもでしょ!

 建物の影からじっと見ている幸子も次郎と同様に反応していた。

 もちろん声に出すとややこしいので、頭の中で反芻させている。

 次郎は目を合わせると話が長くなると考え、思いっきり彼女から目を逸らしていた。

「こっちを向きなさい、男らしくない」

 サーシャにはそういう彼の気遣いは通じないようだ。さらに悪い状況が生まれてしまう。

 次郎はしょうがないという感じで彼女に向かって正対した。

「はいはい」

 心の声が漏れてしまう。

 目の前のサーシャは腕を腰にあて、偉そうに立っている。彼と同様に軽歩で歩けない女だというのに。

 ――ま、僕もだけど……だけど、なんでこんなに突っ掛かってくるのか。

 次郎はその理由を思い出す。

 さっきの勝負だなんだという彼女の言いがかりを。そして、その賭けたものまで思い出していた。

 だから、目がそこに行ってしまった。

 何度も確認するが彼は健康的な男子である。しかもムッツリスケベの部類に入る男子である。

 相手が生意気で面倒くさくて凶暴なロシア娘であっても、健康な男子である彼としてはついつい見てしまうのだ。

 ちらっ。

 ちらっ。

 サーシャは訝しげな目を見る。そのうち、とうとう彼の目線に気づいたのか、慌てて腰に当てていた腕を胸の前で組みそこを隠した。

 ――自意識過剰か、オープンかと思っていたけど……あの子、一応恥じらいはあるんだ。

 相変わらず物陰から見ている幸子はそう思う。

 ロシア女子はそういうことにオープンだと思い込んでいた。

 そうでなければ、あんな恥ずかしい格好のまま男子と面と向かって話す訳がない。

 汗だくの時に、色の濃いブラを付けると恥ずかしいことになる。

 ――そういや、スポーツのときはスポーツ用の付けないといけないだって、だから女は面倒臭いって、姉ちゃんが道場で言ってたなあ。

 シスコン次郎はこういう場面でほっこりしながら、姉の事を思い出していた。

 もちろんその映像と共に。

 そのため、表情が自ずと情けなく垂れてくる。

 決して目の前のサーシャの黒い下着を見たからではない。

 ――うわっ、酷い。

 幸子が端から見て、そう思うぐらい、サーシャの行動は容赦なかった。

「目はだめ、目はああ」

 次郎が顔を伏せ、悲鳴を上げる。

「その痛みで忘れなさい」

 怒りを含ませると共に、少し上ずった様な声でサーシャは次郎を責める。

 彼女は、すばやく彼との間合いを詰めると、右手の五本指を鞭のようにふるって目潰しをしてきた。

 その彼女の人差し指が、彼の目を少しだけかすったのだ。

「目はシャレにならないから、いや、まじに痛てててててて」

「シャレも何も、次郎が悪い……えっちなのが悪い」

 顔を赤くして怒っている。

「たかだか、下着を確認しただけ」

 先月の体育の時間に、飛び跳ねて太ももを露にしていたというのに、それにさっきは前かがみになって、挑発したにも関わらず、どうしてこうも反応が違うのか、そう彼は驚いていた。

「確認?」

 ドゴ。

 彼の太ももにサーシャのローキック。

「淑女の胸をいやらしい目で見るなんて最低、えっち、えっち、えっち」

「ごめん、連呼しないで、なんか変態と思われたら、もう」

 目と太ももを押さえながら悶絶する次郎。

 ――彼は不幸体質ね……いや、こっちの用語でこういうのをなんていったけ。

 幸子は頭の中でメモをする。

 ――ラッキースケベ、だったかしら。

 西側の本で読んだ言葉を幸子は思い出した。

 いろんな面倒ごとを引き入れてしまう、そして、報酬は少しエッチな体験。

 そんな本の主人公を思い出していた。

 ――ああ、やっぱり不幸体質。

 悲鳴。

 更にサーシャの容赦ないローキックを食らった次郎は悲鳴を上げる。

 その声だけが悲しく倉庫の中で響いていた。

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