第25話「黒石上等兵」
屋内訓練場。
もわっとした湿度の高い空間。
防具とかグローブとか、畳とか、そういう道場独特の臭い。
いろんなところに潜んだ雑菌達がせっせとガスを出しているのだ。
そして、こいつらは柔道やレスリングをやる人の耳に感染して餃子を作る。
そんなところに、なぜか次郎はグローブと防具をつけて、道場の畳の上にいた。
しかも、四角い枠の中。
さっきまで、罵声を飛ばしていた綾部軍曹はいない。
変わりに、道着を来た男――小谷伍長――が黙って立っていた。
「さっそく、格闘訓練を行う」
小谷は二十三歳と若い。
しかも一七〇前後の中肉中背、他の教官、助教に比べれば威厳がないように見える。
だが、見た目とは裏腹に、師団格闘競技会で優勝するぐらいの腕の持ち主であった。
「初日だからウォーミングアップな」
肩をぐるぐる回しながら、小谷は説明を続ける。
「ルールは簡単、お前らは、ここで俺らを蹴るか殴るかすればいいだけ、いわゆる組み手だ」
ニコニコしながら学生を見る。
「とりあえず、元気な奴からかかってこい」
学生はしーんとする。
格闘技経験者は少ない。
経験者であっても、いきなり現役の兵隊と殴りあいをしたいとは思わない。
「大丈夫、こっちの現役はインパクトの瞬間は抜くように言っている。ま、でもついつい入ったことも考えて防具は付けるし、ちゃんとお前らも筋肉をぎゅっとしめるように……ま、それだけしとけば怪我はない」
――ちょっと痛いかもしれないけど。
と、ニコニコ顔のまま小谷はぼそぼそっと呟いた。
「やりたい者」
しーん。
空しく、手を上げたのは指導をしている小谷だけである。
すると、彼は学生の列に近づいて行き、一人一人顔をじっと見る。
「いけそうだな、名前は」
「松岡大吉です」
小谷が大吉の目を覗き込み、そしてその腕を握った。
「うーん、やめとくか」
何をもって判断したのかよくわからないため大吉は間抜けな顔をした。
そして、すぐに安堵の顔に変わる。
――せえええーーーふ。
ぐっと拳を握り小さくガッツポーズ。
次郎の前で足を止めた小谷が、笑顔を顔に貼り付けたまま言った。
「どうだ? 名前は」
「上田次郎です、格闘技は……」
次郎の返答が途中で止まる。
小谷がゼロ距離から左足の上段回し蹴りを入れてきたのを咄嗟に受けたからだ。
「決定」
後頭部を避け、左肩と右手のひらで流すようにして受けた次郎はそのままの体勢で、つい動いてしまったことを後悔する。
今の蹴り方は、寸止めするような感じだった。
わざわざ反応する必要はなかったのだ。
「はい!」
次郎はげっそりした顔のまま、気を付けをして返事をした。
こんなことをされてもちゃんと返事をする自分は性格的に優等生だと自褒めしてみるが、まったく気分が乗らない。
「歓迎ってのは体でスキンシップが一番だ、学生も現役も仲良くしないとな」
その時だった、小谷が次郎の拳を持ち上げて、じっとそれを見てからニヤッとしたのは。
小谷は次郎の拳を見て安心していた。
そのタコを見て、とりあえず素人ではないと確信した。
「ドつき合いは初めてです、なんて言わせないからな」
小谷は慣れた手つきで次郎にプロテクターを装着させ、そしてついでのように彼の胴を平手で打った。
派手な音が響く。
小谷は「お約束だ」と言って、もう一度ポンポンと胴を叩いた。
次郎は一瞬血の気が引いた。
叩いた瞬間が見えなかったし、そして防具越しとは言え、当たった瞬間は息が詰まるような感覚があったからだ。
「いいか、本気出すなよ、あくまで歓迎会だからな」
小谷は、次郎と対峙する腕と太ももが異様に太い男――
「お前、馬鹿だからすぐムキになるが、いいか絶対にムキになるんじゃねえぞ……あと怪我なんかさせるなよ」
「オス」
大きな体に不釣合いなぐらい小さな声で答える。
だが、その声質はなんとも重厚感のあるものだった。
「クロ、楽しくやってやれ」
「オス」
次郎の父親は道場で、古流の武術、空手、居合い等様々な武術を教えているような人だ。
幼いころから、その道場で一通りのことを教わった。
父親の事が嫌いになるぐらい、厳しく稽古させられた。
だから、腕には自信がある。
だが、精神はまだ若い。
次郎は人を馬鹿にしたような大人たちの態度に苛立っていた。
小谷が咳払いをして、二人を注目させる。
「えーっと、ルールは、若いのは殴る、蹴る、クロは受ける、クロは隙があれば返しを入れてもいい、自分からは絶対に攻めるな、いいな、禁止事項は、キンタマ蹴るな、投げ技、関節技の禁止、オッケー?」
「はい」
「オス」
次郎は考えていた。
この場を「みんな幸せ」にしてつつがなく終わらせる方法を。
次郎が殴る、蹴る、クロと言われる現役の人が受ける。そして隙を作り、殴られ、ヘタレこむ。
そういうシナリオを作ること、それが一番だと思った。
――さすがにイライラしたけど、僕がムキになっても仕方がない、こういうところで僕を見せる必要はない。
次郎は、プロテクター越しに構えるクロを見て、そう思った。
「はじめっ!」
小谷の声。
クロは、顔面をガードする構え。一方、次郎は開手の中段。
「ほら、若いの、手を出せ」
小谷の声に反応して、次郎はまず、ローキックを入れて、それがクロの太ももを捕らえる。
次はオーソドックスに左右のワンツー、そして、ハイに回し蹴りを入れようとしたが、ワンツーを入れた時点でハイを躊躇してしまった。
嫌な予感。
すごい圧迫を感じたからだ。
次郎は、そのまま止まる。
「若いの、言うのを忘れていたが、こいつはうちの大隊代表のうちの一人なんだ、けっこういける口だからな」
次郎は油断していたことを後悔した。
小谷が言った通り、次郎が仕掛けない限り相手は攻撃してこないという約束を本気で信じてしまっていたから。
クロは仕掛けてきた。
ずんっ。
彼はフェイントの突きを入れて、次郎がそれを払うことに気を取られている隙に、足をかけて来たのだ。
次郎は何とかステップを踏んで、その足を避けたが、少しだけバランスを崩し、ほんの一瞬だが無防備になった。
もちろん、クロはそこを逃さない。
ぐいっと低い重心で肩から体をもぐりこませ、次郎の腰に手を回そうとする。
投げるつもりだった。
さっき、小谷が言い渡したルールはぶっ飛んでいた。
彼にとっても、ありえなかったのだ。
あの次郎の何気ないローキック。クロはまったく反応できなかったから。
だからキレた。
もともと、キレやすい男であるが、あっさりとそこでスイッチが入ってしまった。
「待てっ!」
さすがに、クロの行動に気づいたのだろう、小谷の鋭い制止の声が響く。
だが、小谷が想像していた光景とは違った。
クロが投げていた。
次郎はクロが彼の腰に伸ばしていた右手を左手で握ると同時に手首関節を決めた。
一方右手の平はクロの顎を下から押し上げるように置かれている。
そして、そのまま顎をこねくりまわすようにして時計回りに体を回転させ地面に倒した。
次郎の右足が浮く。
容赦なく踏みつけた。
クロの顔面めがけて。
だが、それは実行されずに、地面を踏みつけていた。
小谷が慌てて次郎に飛び掛り羽交い絞めにする。
お陰で次郎の蹴り足はクロの顔面から辛うじてはずれていた。
次郎の踏み込みで道場が揺れるほど強烈なものだった。
「バカヤロウ! 俺の言ったことを無視しやがって」
羽交い絞めを解いて、小谷が苦言を言う。
次郎がすみませんと頭を下げた時、隙ができていた。
クロが立ち上がると同時に、飛びかってきた。
地面すれすれを飛んでくる鳥の鳴き声のような、そんな鋭い気合が一閃。
前蹴りからの右、左、そして、下半身へのタックル。
捕まった。
次郎は投げられまいとクロの頭を抑えようとするが力負けしてしまった。
浮遊感。
やばい。
次郎はそう思ったが、もう遅い。
ぐいっと上に持ち上げられてしまった。
「そこまで!」
小谷が鋭い声で止めに入るが、熱くなりすぎたクロの耳には一切入っていない。
彼はただ、本能で抱えている人間を地面に叩きつけることしか考えていなかった。
学生達は息を飲む。
次郎は諦めて全身を脱力させた。
とりあえず、怪我をしないことが優先だ。
彼は不思議と冷静に、そう考えていた。
そして、ついムキになってしまう自分の性格に嫌気がさしていた。
――またやってしまった。
そう反省するが、後の祭りでしかなかった。
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