第26話「綾部軍曹は暴れたい」
大吉だった。
次郎を助けようと飛び込んできたのだ。
体重を思いっきり乗せた大吉の蹴り。
だが、クロが一歩だけ左足を後ろに下げて踏ん張った姿を目の当たりにして彼は焦った。
頭の上に抱えた次郎を降ろそうとしない。
完全に跳ね返されていた。
「そこまでだって言ってんだろっ!」
動じた心を落ち着かせるため、大吉は叫ぶ。
声の方に顔を向けたクロは大吉を睨んだ。
鬼の形相。
気負されるように大吉は一歩二歩と後ろに下がってしまった。
それでもビビる気持ちを押さえて口を開く。
「子供相手にムキになってんじゃねえよ、いいから次郎を降ろ……」
途中で言葉が止まった。
クロの手から次郎が離れ宙に浮いたからだ。
次郎は大吉の方に吸い込まれるように飛んでいく。
鈍い音。
大吉は何も考えずとっさに手を伸ばして、次郎を受け止めようとした。
人の重さ。
簡単にキャッチできるはずもなく、そのまま巻き込まれるようにして畳の上にもみくちゃになりながら転がっていった。
下敷きになったはずの大吉が、転がりついでに次郎の上になっている。
「大吉、なんで……って、肘当たってる、痛い痛い」
「二年生とのいざこざでの借り返さねえと……って、
グイッ。
誰かが大吉を引っ張るようにして起こしてくれた。
「あ、ども」
首だけ動かしてお礼を言う。だが、掴んでいるのが誰かをわかった瞬間後悔した。
手や足をバタバタするがもう遅い。
衣服の首根っこと腰の部分をつかまれる格好だ、もうどうしようもできない
ぽいっ。
そんな感じだった。
頭の方から地面に落ちた。
大吉は顔面を守るために、両肘で地面と体のクッションを作るがさすがに痛い。
受身が取れて声を上げるのは情けないので歯を食いしばって耐える。
大吉、一応ヤンキーぶってた男の子である。
邪魔者をぶん投げたクロは、立ち上がったばかりの次郎に照準を定めていた。
間髪を入れず突進。
――二回も同じ手を。
次郎はクロの後頭部を押さえた。
さっきとは動きが明らかに違う。
ルールはお構いなし。
手加減はしない、そう彼は決めていた。
引っ張りこむようにして相手を両手で押さえ、突き出ている顔面に膝を入れようとする。
――まじか。
次郎は血の気が引いた。
完全に自分の膝が相手の顔面を捉えるタイミングなはずだったのに、外れていた。
クロは膝を両手で受け止め、そしてその反動を利用して飛び跳ねるようにして離れたのだ。
自分がそうしてくることをわかっていたような動きだ。
次郎は太ももに対するローキックではなく、相手の膝関節そのものを狙った下段の横蹴りを入れる。
とにかく、相手の足を止めるともりだった。
なぜならあの圧倒的な力で捕まってしまうと、さっきみたいに何も抵抗できないことが目に見えていた。
当たれば大怪我になるようなことでも、もうやってしまうしかない。
――避けられ……。
横蹴りの膝をぐっと上に持ち上げ、そのまま鞭のように回し蹴りをするが、クロは後ろに上半身を引いて避ける。
次郎は間髪を入れず体を回転させながら、一気に間合いを詰めた。そして、左手で裏拳を入れる。
それに対しクロはフットワークだけでは避けきれず左手で力任せに受けた。
――ちょっとは、流すように受けろって、痛ってえ。
次郎は痛みを堪えるが、顔は笑っていた。
狙い通りだった。
手首の付け根を鎌のようにしてクロの手首に絡める。
クロはまさか手を取られるとは思っていなかったため、顔には出さないがギョッとしていた。
殴りあい、蹴りあい、そして掴みあいの経験は多い。
だが、打撃を受けた手を絡め取られるような経験はない。だから、バランスを崩し隙をつくってしまった。
次郎は
そして
――極める。
立ち肘関節。
関節を極めれば、その爪先立ちに反射的になってしまうような痛みでクロは怯んでしまうだろう。
それを利用してぶん投げようと思っていた。
「やめー、やめやめ」
道場内に響く、気の抜けた声。
だが、動作を止めさせるような迫力はあった。
クロは次郎の動作が止まった瞬間を見て、間合いを切るために跳ぶようにして下がる。
「あのな、お前ら」
着崩した制服。
無精ひげ。
綾部軍曹だった。
「新兵も学生もいっぱい入ってきたらよ、人事書類がアホみたいに大量にあってな」
なんの話かわからない学生達は不審な目を向ける。
「事務所、あっこの暗い部屋な、書類、書類、書類の山と毎日格闘してるわけだ……で、ちょっと気晴らしでもやってやろうかってここに来てみれば、なんじゃこりゃ」
通り道にある天井から吊るしたサンドバックを右ストレート入れると道場全体が揺れた。
綾部が出てきたことで、びくびくしていた兵隊達はその音でますます恐怖で硬直してしまった。
「なんだ、なんのこたーない、小谷! 新入生いびって、何やってんだ、ド馬鹿! ド阿呆!」
「綾部さん、さっき走って気分晴らしたんじゃ」
ツッコミを入れる小谷伍長に容赦も慈悲もない脳天チョップ。
確かに午前中は一緒に走っていた。
散々叫んで気持ちよさそうな顔をしていた、なのに、なぜ午後まで来ているのか。
この人、本当に仕事しているんだろうか。
小谷はそう思いながら泡を吹き、膝から崩れ落ちた。
その時だった。
誰もが綾部を見ていた。
次郎も見ていた。
がくん。
揺れた。
横からだった。
タックルお手本ビデオなんてあれば、そのまま使ってもいいぐらいきれいな動作だった。
次郎の下半身は自由を失い宙に浮いてしまう。
――二度も同じことを。
恐怖はない。
ただ、悔しいだけ。
クロの気配を感じ取れなかったから。
彼が気配を消したわけではない。ただ、目の前で次々とびっくりするような出来事が立て続けに起こるものだから、完全に集中力を欠いていた。
意気消沈した彼は持ち上げられた自分がまるで他人事のように思えた。
――間抜けだ。
次郎はなんだか泣きたい気分になってきた。
兵士たちがざわつく。
「あちょー」
気の抜けた声と共に綾部が飛んでいたからだ。
次郎は、彼の両足の裏しか見えない状態だったから何が起こったか分からない。
本当に両足を揃えて真横に飛んでいた。
リアルドロップキック。
プロレス技でしか見れないあれだ。
クロに命中した。
もちろん次郎にも衝撃がくる。
クロは次郎を抱えた手を離し一人だけ道場の端までコロコロ転がるようにしてぶっ飛んだ。
綾部はドロップキックの形をキープしたまま地面に落ちる。そして腰を強打して呻き声を上げるがすぐに立ち上がりクロを追撃する。
「馬鹿チンがああああ!」
うつ伏せに倒れているクロの上半身を引きずるようにして持ち上げながら背中に回りこみ、その首と肩に手を回す。
いわゆるプロレス技のチキンウィングフェイスロック、首と肩の関節を同時に極めている。
「ド馬鹿! 俺が事務所でひーひー言いながらやってんのに、楽しそうに新人いびりなんかしやがって、しかもムきになった挙句やられちまうなんてよ! まったく、いつからうちはこんなギャグ軍団になっちまったんだ」
「綾部さん、やめてください、クロ泡吹いてます」
「やばいっす、もう白目むいてます」
「死ぬ、死ぬって」
取り巻きの兵隊たちが綾部を止めようと近寄るが、触れたら何されるか分からないので声をかけることしかできない。
「ばっきゃろー! 俺にも息抜きさせろ! 副官のねーちゃんにはぐちぐち言われるわ、中隊長にゃ嫌味言われるわ、印鑑もらえないわ、てめーらお気楽極楽脳筋野郎と違って、頭使いまくってんだ! イライラ頂点マックスなんだよ!」
単なる憂さ晴らしだった。
みんな楽しそうにやってなのが羨ましくて羨ましくて混ざりたかったらしい。
「かかってこいやあ!
混ざって暴れたいと素直に言えないおっさんだった。
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