第21話「命短し恋せよ……」
その時だ。
「ごおおらああ!」
教壇から教室全体を揺らす様な低い声が響く。
風子が教壇を見ると、筋肉先生の目が赤く光った。
もちろん錯覚であるが。
――やばい。
――でるぞ。
――死ぬ。
そういう声にならない声が教室を包み込む。
「そこぉっ!」
教壇から鋭い気合とともに何かが飛んでいく。
確かに光ったように見えた。
錯覚だけど。
風子の前に飛び出す影。
彼女を守る態勢でサーシャが右手、次郎が左手をかざしていた。
そして次郎の右手に消しゴム。
消しゴムが煙を上げている。
――レーザービームが出たぞ。
――あれが噂の小山ビームか。
――愛ゆえの諸行か。
ガヤガヤと学生たちが騒ぐ。
もちろん、光ったり煙があがって見えたのは錯覚である。
風子はそんな緊張感の中、同部屋二年生の先輩であるユキから聞いた噂を思い出していた。
――小山先生の消しゴム飛ばし、通称『小山ビーム』は気をつけてね。噂じゃ一昨年の卒業生はこれをくらって三人が失明したという。
――いや、失明させたら、この人教壇に立ってないでしょう、ユキさん。
聞いたその時はありえない馬鹿話とユキの話を聞き流していたたが……。
今はツッコんだら負けだと思うほど、ツッコミどころが多い。
たった今、噂の実物を見てしまったから。
しかも、それが自分に向けられたものだった。
「でしゃばり」
サーシャが次郎にボソッと言った。そして、彼の手をぎゅっと握る。
「な、何を」
不意を疲れた彼がバランスを崩しサーシャのペースに巻き込まれた。
「むっつりのくせに」
サーシャがそう言ったまま、次郎の手を離さない。
「な、ななな」
次郎が慌てた。
「え、えええ」
風子も破廉恥と思ったので声を漏らした。
サーシャがおもむろに自分の胸に次郎の手を抱え込もうとしたのだ。
「いきなり、手首を極めようなんて」
暴力女め。
そう次郎は思った。
「いきなり、おっぱいタッチさせようなんて」
破廉恥な。
風子は思った。
次郎と風子が互いの言葉を聞いて向き合う。そして、すぐに目を背けた。
ごほん。
地面を揺らすような咳払い。
もちろん錯覚だが、小山はそのぐらい大きな音を立てて注目をひかせた。
「授業中だ、静かにしろ」
――あんたがだろう。
そんな学生達の心のツッコミほどでは小山の進撃を止めることはできない。
サーシャと次郎が手首のつかみ合いをしているところに割って入きた。
ギッと次郎が小山を睨みつける。
「確かに騒いだのは申し訳ないと思います、サーシャが悪いです」
軽く、サーシャを売り飛ばす。
確かに次郎は何も悪くない。
「でも先生、女子にそういうのはよくないと思います」
鬼の形相の小山。
教壇からゴゴゴゴゴゴという音が聞こえる。
そういう錯覚に襲われた。
「フェミニストぶって気持ち悪」
サーシャが口を尖らせて非難する。
「うるさい」
負けずと口を尖らせ対抗する次郎。
「上田」
静かだが迫力ある声が響いた。
小山の一言で教室が静まりかえる。そして、ギョロっと上田を睨んだ。
ズン。
ズン。
教壇から一歩、二歩。
近づく筋肉。
小山が進むと、その両脇の机が自然に離れ、道ができていく。
ズン。
数メートル離れているにも関わらず、次郎は目の前に立たれた感覚を味わってしまった。
スッと右手が挙げられる。
筋肉が発達している口が開いた。
「上田、中村が好きか?」
「はあ?」
「ゲイデン、上田が好きか?」
「へ?」
小山はうんうんと頷く。
「命短し恋せよ! 少年! 少女!」
筋肉が効果音で「ドーン」と音がしそうな勢いで彼らを指さした。
ズンズンズン。
踵を返し、教壇に戻る。
黒板が削れるような音を立てながら、チョークを横にして、『恋』と大きく書く。
「どっかの馬鹿が『
どっかの馬鹿というのは、中隊長の佐古少佐のことである。
「恋と青春は化学反応だ! 爆発だ! 歴史も動く!」
堂々と言い放つ筋肉。
普通の人だったら赤面するような言葉を。
聞いている学生の方が恥ずかしくなりもぞもぞしている。
「恋だ! 恋はいい!」
ドーン。
黒板を拳で打ちつける。
壁に掛けている時計が揺れて落ちるんじゃないかと、風子はハラハラした。
「恋は自分を磨く! 恋をして自己を練磨せよ!」
じっと、小山は学生たちを見渡した。
そして、立ったまま固まってしまった三人を見る。
「サーシャ」
「はい」
「お前は、日本史が面白くないだろう」
「はい」
即答のサーシャ。
「中村」
「は、っはい」
「お前も、日本史が面白くないか?」
「え、ええ、割と」
彼女は嘘をつくのもなんか怖かったので、あいまいに答える。
「俺は、お前らがこの国に『恋』をするために日本史を教えている」
めっちゃ暑苦しい。
「歴史はなあ、お前らのご先祖様が命を燃やして創ってきたものなんだ! だから好きになってほしい、自分が今ここにいることを奇跡と思って欲しい!」
口調が柔らかになる。
「サーシャ達留学生は、自分の国を誇りに思っているだろう……お前らの国と違って、この日本の歴史はわかりにくいと思う、なんとなくちまちましてて貧乏臭くて、そして、回りくどくて効率的ではない」
彼は教壇に両手を置く。
「だからこそ知ってもらいたい」
筋肉が熱をもっているのか、教室内の温度が上がった。
これは錯覚ではない。
彼は黒板に向かい、そしてチョークをぼきぼき折りながら『君が代』と書いた。
「知らないものはいないと思うが、この国家の歌詞だ」
――君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで。
今度は丁寧に書いた。
「この詩は、元々万葉の時代に作られたという説がある……『読み人知らず』で古今和歌集に載せられた、このあたりは万葉集や古今和歌集は中学で聞いているだろう……それが、明治に今の曲がつけられ、国歌として扱われるようになった……ところで、君たちは日本以外で考えたら、どの国の国歌がいいと思う?」
「松岡!」
松岡大吉が指名され、彼は慌てて立ち上がった。
未だ坊主頭が茶色。
「えーっと」
「松岡! まず返事は『はい』だ! 馬鹿野郎!」
「はいっ! 俺はアメリカの国歌が好きです」
「なんでだ?」
「音楽がノリノリです!」
「なるほど、それはあるな」
「俺も、若いころはフランス国歌やアメリカ国歌が頼もしく聞こえた……それに比べわが国の国歌の静けさ頼りなさが嫌だった、しかしっ、その歌詞の中身と君が代とを比べて、私は君が代が好きになった」
「ここで、君達に考えてもらいたい、わが国のこの歌詞の意味を」
「上田!」
「はいっ!」
「答えろ」
「天皇陛下の治める帝国が永久に栄えることを願う意味だと聞いています」
「なるほど、それはどこで教わった」
「小学校で」
「そうか」
「次、中村」
「は、はい」
「やりなおし!」
女子にも容赦ない小山。
「はいっ!」
と風子は返事したが、ぼけーっとしていたものだから、答えに戸惑る。
「質問に答えろ」
「上田君と同じです!」
結局風子はベタな答えをする。
自分でそう答えてしまったのだが、どうも頭悪い子のような気がしたため、彼女は自己嫌悪で顔をしかめた。
「三島!」
大人しそうに座っていた三島緑が慌てて勢いよく立ち上がった。
「は、はい」
「声が小さい!!」
「はいっ」
「小さい!!」
「はいっ!!」
「よし、質問に答えなさい」
小山は容赦しない。
「わ、私は、なんか昔の人がすごく切なく、大切な人を想っている詩に感じます」
そう言って、彼女は顔を真っ赤にして座った。
「ありがとう。いろいろな意見を聞かせてもらった」
小山そう言うと、おもむろに黒板にでかでかと字を書いた。
『愛』と。
日本史の授業なのに、黒板は『恋』とか『愛』とか書かれている。
風子は、その異様な雰囲気に目をパチパチさせている。
「俺の考えは、三島が言った意見に近いと思う、一説には愛し合う二人の間に詩われたものだということもある。つまり『愛するあなたよ、二人の絆は離れれば離れるほど積み重ねあう巌のようになり』つぎに苔だが、岩に別の生命である苔が生す、つまり『二人の間に新たな命が生まれる』という意味があるとも言われている」
一同赤面。
小山はいつになく優しい声で、しかもかなり熱く語っている。
「もちろん、三島の言った、切ない恋心……そうだな愛し合う二人が防人の任のため離れ離れになる時に歌った歌であるという説もある」
小山はまったく恥ずかしがる素振りも見せず、真面目な顔で続ける。
「つまり、俺が言いたいことは、わが国の国歌がいろいろ説はあるにせよ、恋文の様な歌詞を使っていると言うことだ……なかなかロマンチックだろう」
「サーシャ、ちょっとはロマンチックな日本が好きになってもらえただろうか?」
ロマン。
筋肉の塊の先生がロマンチックと言った。
変だ。
風子はそう思った。
サーシャは返事をできずに固まっていた。
日本人は変だ。
筋肉とロマンと恋なんて変だ。
そう思った。
ドーン。
教壇を打ち付ける音で教室が揺れる。
「だから、君達の中隊長が、ナイレン禁止どうのこうのいっているが、みんなしっかり恋をしなさい! 失恋もいっぱいしなさい!」
筋肉教師は、言い放った。
「恋をせよ! 俺は、応援する!」
学生はただただ固まるばかりだった。
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