第20話「最凶のシビリアン小山先生」

 陸軍少年学校。

 そこで学ぶ少年少女の一日は忙しい。

 午前は高校生としての勉強、そして午後は軍事教育。

 特に午後は体を使った野外訓練や体育がほとんどである。

 したがって、まだまだ体力がついていない一年生にとって、午前のお勉強は散々たる状況になっていた。

 中村風子にとっても例外ではない。

 例外どころか、彼女は酷い状況を醸し出していた。

 涎。

 十五歳にして女子力が皆無。

 一度カクンといってしまったら最後。

 彼女はそのままコウベを垂れ、だらしなく半開きになった口の端から光る液体が出ていた。

 幸いなことに誰も気づいていない。

 なぜなら、強大な恐怖が目の前に存在していたからだ。

 自分のことで精一杯である。

 風子の気持ちよさそうな寝顔など、見てる余裕がないほどに。

「中村!!」

 教室を揺るがすような大声。

 いや、怒声と言った方がいいだろう。

 電気が走ったように風子は文字通り飛び上がった。

 彼女は居眠りこくぐらいだから、肝っ玉はどっしりしている。

 だが、さすがに気持ちい眠りを怒鳴り声で覚まされたものだから、びっくりしてしまった。

 飛び上がるぐらいに。

 そんな彼女よりも更に高く飛び上がりそうになったのは周りの学生である。

 緊張感いっぱいの授業でビクビクしていたところに、超巨大な喝である。

 自分が怒られていないにしても、電気が走った。

「眠いなら、立て!!」

 言われなくても立っている風子に向かって、教壇に立っている野太い声の主が言い放った。

 教壇の主は小山岩男コヤマイワオ

 日本史の授業を受け持っている男性教諭。

 ちなみに軍人ではない。

 文民シビリアンである。

 春先のまだ涼しい時期にも関わらず、ラガーシャツにハーフパンツ。

 しかもムチムチに体のラインがわかるような筋肉もりもりなスタイル。

 どう見ても体育教師だが、その格好のまま堂々と日本史を教えていた。

 風子はそれを見て犯罪的だと思っていた。そして、恐る恐る見上げると、鬼の形相の筋肉先生と目が合った。

「涎は拭け、レディーの嗜みだ」 

 風子は慌てて口の辱を手の甲で拭う。

 慌てたついでに椅子を蹴ってしまい、後ろの学生の机に勢いよく当った。

 ガチャンと音が響く。

 彼女はその音に弾け飛ぶようにして後ろを振り返り、後ろの席の学生に頭を下げた。

 彼女が我に帰った瞬間、眉を潜め「げっ」と声に出しそうな表情に変わる。

 いや、心の声は確かに漏れていた。

 後ろの席が上田次郎だったからだ。

 彼は思いっきり目を背けていた。

 ちょっとムカつく笑顔とともに。

 ――こ、の、や、ろ、う!

 風子がイライラした感情を一瞬だけ剥き出しにした時、その背中に圧倒的な圧力を感じた。

 ズドオオン。

 教室が激しい衝撃波とともに揺れた錯覚に襲われた。

 教室にいる学生全員がその音に反応して揺れる。

 小山の分厚い左手が風子の後頭部に振り下ろされた音だった。

 がくんと風子の目線が三〇㎝ほど下がった。

 彼女はたまらず、頭一個分ぐらい体勢を低くする。

 膝をガニ股に開いて頭を両手で押さえ「いったああああ!」と悲鳴を上げながら、涙目と抗議する目つきで小山を見上げた。

 顔にも筋肉がついているんじゃないだろうかと思うような、筋張った鬼瓦が口を開く。

「仮にも軍人の端くれだろう! 文民シビリアンの一撃を受けたぐらいで悲鳴を上げるとは何事だっ!」

 ――いや、無理だって。

 学生達は、その無駄に蒸気でも噴出してそうな筋肉を見ながら誰もがそう思った。

 いや、なにかわからない湯気は幻想でもなくでているのだが。

 小山先生の必殺技。

 脳天チョップ。

 学生の間から『シビリアンチョップ』と呼ばれている。

 悲鳴を上げる学生に対し「それでも軍人の端れかっ!」と喝を入れられるのが特徴。

 また、その効果については「ライフが一つ減る」とか「半径一メートル以内には十から百のダメージ」などと分析されている。

 ちなみにライフが何だとか、ダメージって何とかそういうことはよくわかっていない。

 一撃を見舞った小山は教壇に戻り、引き続き話を進めた。

 授業は南北朝。

 風子は苦手意識どころか、興味もない。

 なに、南北朝って、何で天皇が二人いるの? 上皇ってなに? 法皇ってなにそれ偉いの? 美味しいの?

 そういう状態だ。

 一人だけ教室でぽつんと立っている風子は思考停止。

 さすがに眠気は去ったが、やる気が明後日の向うに走って行ってしまっていた。

 彼女はげっそりした顔のまま黒板を見ている。

 むずむずっ。

 風子は声を出しそうになった。

 なんとも言えない悪寒がお尻を走ったからだ。

 プレッシャー、なんだかお尻のあたりにそれを感じる。

 彼女はさっきの件もあったので、後ろを振り向くこともできず、立ったまま、教科書を上にしたり下にしたり落ち着かない。

 ――あいつだ。

 彼女の直感がそう言った。

 上田次郎。

 奴だ。

 奴がお尻を見ているに違いない。

 ぴきーーーん。

 変な音が頭の中で鳴った。

 ――プレッシャーを感じる。

 彼女は第六感が走っていた。

 実際はプレッシャーどころかスカートを引っ張られていたのだが。

「っつ!」

 彼女は気付いた。

 バッと教科書を持っていない左手でスカートを抑える。それと同時に、小山に咎められないように一瞬だけ後ろを振り返り、次郎を睨みつけた。

 だが、またスカートを引っ張られる。

 ――変態行為っ!

 風子が顔を上気させ、怒りの感情が暴走しようとする。

 もう一度、小山の動きを気にする。

 彼が黒板を向いたその隙をついて、次郎を睨みつけた。

 すると、次郎は頭をぶんぶん横に振って『違う違う』というジェスチャーをするが、小山が振り返ったので、スッと動きを止める。

 妙に背筋の伸びた姿勢で。

 彼女は次郎を軽蔑した。

 さすがに、痴漢行為だけはしないだろうと思った。

 そうだ。胸だ。

 あのとき、私のおっぱいをもんだから、それでこんな痴漢行為をしてもいいと勘違いしているんだ。

 そう思った。

 ――ゲスの極み!

 心の中で叫んだ。

 声に出したら、文民チョップの餌食になるとわかっていたので、我慢したが。

 やはり、母の言うとおりだった。

 ――男はすぐ図に乗るからね、一度お触りさせたら最後。

 ――手を握ったら、抱きしめてくる、抱きしめたらキスしてくる、キスしたら揉んでくる、その後は押し倒してアレよアレ。

 そんな母親の言葉を思い出しながら、風子は考えた。

 ――確かにすでに押し倒されるところまでいっているレベルなんだけど。

 彼女の言う押し倒しと母親の言う押し倒しのイメージは天と地の差があるのはおいて置こう。

 もやもやとそういうことを考えているうちに、今度は背中になんとも不思議な刺激を受けてしまった。

「うひゃいっ」

 油断してしまったのかもしれない。

 声が出てしまった。

 慌てて手で口を押さえる。

 背中をさすられ、ゾゾゾッという感覚。

 しかも、すごくエッチな触れ方をされた。

 彼女は人一倍そこが感じてしまうことを、恥ずかしいけど自覚していた。

 ――くっそー! 変態め。

 後ろをバっと振り返る。

 次郎はさっきよりも更に大きく顔をぶんぶんふった。

 それにしても、と彼女は思う。

 小山先生の授業中にちょっかい出すとはいい度胸だと。

 もちろん、小山の授業で居眠りこく彼女の方がいい度胸だ、と教室の学生から思われているのだが。

「……っ」

 今度は予想をしていた。

 彼女は声が出る前に右手の教科書で口を押さえる。そして、左手は背中をマサグる不届き者の手を捕まえた。

 三度も四度も同じ手にやられる風子さんではない。

「あ……」

 右手を捕まれた状態で舌をぺロッと出しているのはサーシャ=ゲイデンだった。

 サーシャは陸軍少年学校女子制服であるセーラー服を着ていた。

 留学生達の制服は自国のもの――サーシャはロシア帝国の陸軍幼年学校は深緑のブレザー――を基本的には着用するようになっているが、陸軍少年学校の制服を着てもいいことになっている。

 そんな訳でサーシャはセーラー服を着ていた。

 パッと風子が手を離すと、左斜め後ろの席のサーシャが小声で話しかけてきた。

「(ごめんなさい、あまりに退屈、暇で、もう死にそうだったの)」

 平気な顔をですごく理不尽な言い訳をする。

「(スカートめくろうとすると、後ろの上田君がそわそわするのが面白くて)」

 風子はどんな表情をしていいかわからず、とりあえず首をがっくり落としてしまった。

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