第18話「でれでれ女子を見るな!」

 ――だるっ。

 声に出さず、そう思った。

「中村! 遅れるな、前につけ!」

 列から遅れだした風子に対して教官の頭山トウヤマ少尉――二中所属の小隊長で男性の教官――が叱咤する。

 彼女は必死に息継ぎをしながら「はいっ」と答えた。

 いつのまにか前の人と五メートルぐらい離れていた。

 だから慌てて前に近づこうと速度を上げて距離を詰めようとする。

「バカ! お前が妥協をするから距離が開くんだ! お前がサボったせいでお前の後ろの奴はもっときつい思いをしているんだ!」

 彼女は後ろを振り向く。

 酸素が足りなくて、ぼーっとなった頭で考える。

 ――ああ、そうか。あたしが遅れて詰めた分、後ろの人たちはもっと長い距離を頑張って詰めないといけないんだ。

 アコーデオンの蛇腹のように広がって、縮んでいく。

 一番後ろの人は彼女の数倍の距離がいきなり開くような感覚になる。しかも彼女よりも長い距離を一気に詰めなければならない。

「す……すみません!」

 彼女は叫ぶように言った。

「すみませんで済むか、バカ! 妥協するな!」

 頭山少尉はそう言うと、今度は後ろの方に行って「前から離れるな、前につけ」と一人一人に言ってまわっている。

 彼は、息を乱すことなく走り、そしてずっと叫んでいた。

 そういう当番なのである。

 この『駆け足』の時間は、頭山少尉が叱咤しながら顔色を伺い、一番後ろにいる女性の教官や助教――下士官の教官のこと――が遅れた者、生理とか体調不良の者などの面倒を見るような役割分担になっている。

 もちろん学生にとっては、誰もが怖い教官である。

 一方、教官たちはこの課目の時間は誰が叱り役で誰がフォロー役というのあらかじめ決めた上で教育をしていた。

 だから、若手の少尉クラスが叱り役になり、中尉クラスがフォローにまわることが多くなる。

 それで、二十四歳の若くて元気な彼がハッスルしているのだ。

 学生には迷惑なことではあるが。

 彼女たちにとってみれば、自分が体力あるから好き勝手言っているとしか思えない。

 頭山少尉はこれだけゴツイ男達がいる中でも優男の部類に入るような顔つきなのである。

 逆にそういう顔をした人が口汚く――軍隊では優しい口調の方――言うと、悪い意味で効果が高い。

 ――あんだけ体力あれば、妥協も何もないんだろうけど。

 風子はそう思う。

 だいたい女の子と大人の男の人の体力を比べる方がおかしい。

 おかしい。

 だんだん彼女は頭がぼーっとしてきて、何度も同じ事を繰り返し考えるようになってきた。

 きつい。

 止まりたい。

 走りたくない。

 家に帰りたい。

 彼女は列から抜けようと思った。

 もうどうでもいい。

 とにかく、この列から抜ければすべてから開放される気がした。

 その時だった。

「スミマセンで済むよね」

 後ろから少し発音が変な声が聞こえた。

「日本人ってこじつけすぎ、なんか、ただ走るだけで熱くなって、変」

 風子は声の方に視線を向けた。

 太陽に当たってキラキラしている金髪。青色の瞳、一六〇㎝後半で女子にしては背が高い。

 そして白く透き通った長い手と足が目に入り、同性の風子でもドキッとしてしまった。

「うん」

 結局風子はそう応えることしかできなかった。

 しゃべる余裕がないのだ。

 サーシャは教官と同様に息は一切乱れていない。

 だからさらっとした口調で続けた。

「根性根性言うよりも、もっとフォームとか、走り方とか教えればいいのに、馬鹿みたい」

 風子はとても綺麗な顔にに似合わない「馬鹿」という言葉が気になった。そしてとりあえず彼女は頷いて、反応した。

「ふーこちゃんは、せっかく走るにはいい体型しているんだから、息が苦しくても顎を引いて、肩の力抜いて、腕を軽やかに振って、足は足先を前に出すんじゃんくて膝を前に出すようにすれば、もっと楽に走れるよ」

 すごくやさしい口調のサーシャ。

 風子はこのロシアからの留学生の彼女とは、最近話すようになっていた。

 当初は彼女自身があまり人を寄せるような雰囲気を持っていないため、とっつきにくいところがあった。

 ただ風子も同じような人間だったため、とっつきにくい者同士、話をするようになったのかもしれない。

 ――肩の力を抜き、膝を前に出すように……。

 風子には珍しく、素直にサーシャの言葉通りのことを実行しようとした。それだけ余裕がない証拠でもある。

 息苦しさは変わらない。

 相変わらず彼女の呼吸は苦しそうなままだ。

 今日の駆け足は四十分間走。

 つまり四十分走るだけ。ペースは一定を保って、そんなに速くはしない。

 課目の冒頭に頭山少尉が説明した。

 速くない。

 基準にしては速くない。

 学年女子の平均的な速さ、それに比べて速くないだけであり、彼女のように走るのが遅い人間には常に速いレベルになる。

 だから毎日が必死。毎日がいっぱいいっぱいなのだ。

 サーシャは風子の体型が「走るにはいい」と言う。

 ――確かに、邪魔になるおっぱいもないし、背も低すぎるということはないのだけど……。

 そう思う彼女に比べ、サーシャは足が長い。

 ベリーショートのランニングパンツから、その白く長い足がスラッと伸びている。そして、体のラインはっきりするランニングシャツは、おっぱいがオッパイという感じで主張している。

 ――男だったら「たまらん」という体なんだろうなあ、私でもじろじろ見たり触りたくなるけど。

 サーシャはいつも余裕で走っている。

 そう考えると、走るのにおっぱいは関係ないのかもしれないと彼女は考えた。

 ならせめて立派なものを欲しいと思う。

 ――まあ、あったらあったらで邪魔そうだし、なくてもいいような気がするけど。

 どうでもいい。

 彼女はそんなことをいろいろ考えていると、なんとなく息が楽になっていることに気づいた。

 顎を引き、肩の力を抜き、膝を前に出すように走る。

 それだけで、なんかいつもと違う感覚。

 そして、駆け足の時間は終わった。

 数人がゴールの瞬間立ち止まって、膝に手をついたり、地面に座り込むと、頭山少尉がいつもの言葉を叫ぶ。

「立ち止まるな! 座るな! になるぞ!」

 慣れは怖い。

 最初、彼女達はその言葉にドン引きし、あの教官はイケメンだけど最低だ、女子に気を使えと口々に言い合っていた。

 だが一月近く時間が経過すると、もうどうでもよくなり、それが普通の言葉と認識してしまっている。

「歩け! 歩け!」

 羊飼いのように彼女達を芝生のグランドに追いやった。

 そして、また列をつくり整理運動――体操とストレッチ――を始める。

「いっち、にー、さん、しー」

 男性以上の背の高さと、ベリーショートの黒髪でボーイッシュに見える若い女性の教官――頭山と同じ二中隊所属の将校である伊原イハラ少尉――が前に出てきて号令をかけ体操を始める。

 まるで、国営放送の『朝のてれび体操』のような、滑らかな動きだった。

 伊原は色が黒であること以外は学生と揃いのウェアーを着ているが、一般の女性比べると健康的な小麦色の肌色と引き締まった筋肉質な体のラインが見える。

 ――私もこうなるのかな……。

 風子は伊原のそういう姿を見ると不安になっていた。

 でも、同部屋の先輩達は無駄な脂肪は少ない――二年生のユキには無駄な肉が胸についていると三年生の純子は主張――が筋肉はないので、それを思い出しては安心させる。

 そうやって、疲れて動きたくない体を無理やり動かしながら体操をしていると、グランドの向こう側から「だー」とか「わー」とか叫んでる声が聞こえてきた。

 体操をしながらそっちに視線を送った。

 二列になって、馬跳びをしている。

 一人が屈んで、それをも一人が飛び越える運動。それで列をつくってどっちが速くゴールできるかを競い合っていた。

 そんな姿を見て、多くの女子が「男子って馬鹿」と思っていた。

 だいたい、あんなことで勝負してなんの意味があるのだろうか、と。

 体をほぐす様に動かしたあと、ストレッチを始めた。

 芝生がちくちくと太ももに当たって気持ちが悪いと風子は思った。

「ふーこちゃん大丈夫?」

 緑が、声をかけてきた。彼女も風子と同様汗をびっしょりかいているが、そこまで疲れた顔はしていない。

 走るのは得意な方なのだ。

「うん、だいぶ落ち着いた、でも、もう走りたくない」

 と風子が応えると、彼女は「ふふ」と笑って、前屈を始める。ここ一月で風子と緑は互いに「風子ちゃん」「緑ちゃん」から「ふーこちゃん」「リョクちゃん」と呼び合う仲になっていた。

 足を伸ばしてぺタリ。

 ぺタリ。

 足を伸ばして座って、緑の膝と顔がくっつくぐらいにぺたりと体が折りたたまれたことに風子はびっくりする。

「うぐぐぐ」

 彼女は気合を入れて、緑と同様にしようとするが、やっとつま先に中指が触れるぐらいしか体が曲がらない。

「げ、げんかい」

 そうやって、筋肉を伸ばしていく。

 ストレッチを始めたばかりの頃は、これに何の意味があるかわからなかったが、ここ最近は疲れが取れやすくなる効果が実感できてきたので、まじめにやっている。

「あ」

 風子はその時、ひとつのことに気づいた。なんかさっきから、向こうの馬鹿な男子達からちらっちらっと視線を感じるのだ。

 自分ではない。

 そう、その答えが目の前にあった。

「リョクちゃん、下着」

「え?」

 黄色いランニングシャツに透ける紫色のブラ、しかもひらひらがついている。

 ――体育の時はできるだけスポーツタイプのものにするか、色の目立たないものにしなさい。

 確かに、女性教官から入学当初の注意事項で言われていた。

「変?」

 緑は不思議そうな顔で風子を見る。

「ん、変じゃないけど、たぶん、男子が気にすると思う」

「男子?」

 緑も状況がわかったらしく、少し慌てた様子だ。

「今日、これしかなかったから……どうしよう」

「あ、そうだよね。洗濯しても追いつかないもんね……」

 そう言って、どうしようと顔を上げた時だった。遠くの男子に向かって、伊原が顔と体に似合わない甲高い可愛らしい声で怒鳴っていた。

「でれでれ女子を見るな! 課目に集中しろっ!!」

 そそくさと、数人の男子が目を伏せた。

「うわ、最低」

 ジト目で男子を風子が睨みつける。そして、男子の視線から緑を庇う様に体の位置を変えた。

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