第14話「先輩、早く済ませてくださいね」
次の日、次郎は朝の点呼の腕立て伏せも終わり、一年生の朝の仕事である掃除をしていた。
すれ違う上級生に気を付けながら掃き掃除。
こういう掃除をしている時でも、上級生には敬礼――挨拶――をしなければいけないのだ。
彼らが着ているジャージのストライプの色を見れば上級生と分る。だからそこを注意深く気にしながら掃き掃除をする。
ただ、中には意地悪な上級生もいて、十メートル以上離れたところを通った時に敬礼をしなかったとか言って言いがかりをつけるような輩もいる。
そして、慣れない次郎と大吉はそういう上級生に因縁をつけられてしまった。
「おい、一年。俺に
廊下の大分向こう側からいきなり怒鳴り声をあげる、どっかの先輩。
一応びっくりした二人は声の方を振り向いた。
「あ、えっと、欠礼ですか」
欠礼とは、上級者に対して敬礼をするべきときにしなかったことを言う。
次郎はあっけに取られた顔をしていた。
二人とは間逆の方向、掃除をしている二人の後ろ、十メートルほど離れた場所を通った上級生がそう言ってきたのだ。
「すみません、後ろ向きでしたし、遠くだったので気づきませんでした」
と、大吉が言った瞬間、上級生の平手うちが彼に飛んだ。
パチィン。
音だけが派手な打ち方をされた。
一瞬にして場が凍る。
歩いていた一年は固まり、そしてこの二年生のことを知っている上級生は「またいつものことを」とか「うぜえ」という顔をしたまま歩いている。
「先輩、ケツレイというのは、人を殴るほど失礼なことなんでしょうか?」
次郎が食ってかかった。
「やめろ、謝れって」
大吉が慌てて次郎を諌める。
「質問する前に、自分で考えろ! 生意気な!」
平手打ちが次郎の顔に飛んだ。
彼はにらみつけたままそれをまっすぐに顔で受け止めている。
インパクトの瞬間も微動たりともせず、ただ上級生を睨みつけながら。
「なんだ、てめえ先輩に対してその目は」
男がもう一度手を振り上げ平手打ちをしようとする。
――素人すぎる。振りも大きいし、みえみえの動き。
次郎はほんの少しだけ間合いを詰めた。
上級生は目標を見失うとともに、次郎がいきなり目の前に迫ったように見えた。
そのため怯んでしまい体勢を崩す。
次郎は自分の左手首を相手の平手打ちをしようとしている右手首に引っ掛けて、そのまま自分のお腹の方へ流した。
そして彼は上級生がつんのめるところに軽く足払いをする。
端から見てもまったく分らないぐらい、ちょんっと触れるような足払い。
上級生は面白いぐらいに地面に転がった。
次郎は、相手が頭を打たないように彼の手をぐっと掴み引っ張り上げる。
「先輩、大丈夫ですか?」
次郎は笑顔でそう言った。
明らかに挑発している。
上級生は真っ赤な顔をして立ち上がってしまった。
「貴様ー!」
そう叫びながらめちゃくちゃな殴り方をしてくる。
今度はグーパン。
「人を殴っちゃだめでしょう」
彼は諭すような言葉を上級生に言ってしまい後悔する。
――先輩と名前が付く人に『生意気』と言われる性質は、やっぱり変われないな。
彼は面に対する右パンチを、左手でちょっと軌道を流し、そのまま右の入り身で相手の背中に入り、襟首を掴んだ。
「反撃なら、文句言えませんよね」
彼は笑っていた。
襟首をそのまま引き落とし、地面に叩きつけるつもりだ。
だが、やめた。
「あーだめだめ、ジロー君、そこまでだって」
頭を掻きながら照れくさそうに潤がやってきたからだ。
「一応このアホも先輩なんだし、あんまりいじめちゃだめだって」
上級生の頭を、ぽんぽんっと叩く。
「あと、お前、ついこの間まで俺らといっしょに一年生やってたんだからさ、急に後輩できたからって、息巻くのやめたがいいよ。かっこ悪いたらーありゃしない」
また、ぽんぽんっと叩く。
「そうそう、あんた二中だよな、うちの一中の一年をいじめちゃったら、怒っちゃうよ」
そう言いながら、やっぱりぽんぽんっと叩く、いや、殴った。
鈍い音がした。
「もう、ジロー君も気をつけてよ、一応こんなんでも先輩だからさ、ちゃんと挨拶してやってよ」
絡んできた上級生は、ギャラリーに必死な目で威嚇していた。
「僕達も後輩が欠礼なんてしたら、ちゃんと指導してやるからさー」
なんて楽しげに潤がしゃべる。
「んー、精神的な反省の仕方と、肉体的な反省の仕方といろいろ準備してるしねえー」
ウヒヒと笑う潤。
「もちろん思い出作りになるように面白くやっちゃおうと思ってるんだけどさー」
次郎も大吉もひきつった顔で笑った。
表情を戻した彼は上級生に目を向けた。
一瞬目が合うが、すぐに目をそらされる。
「これからは欠礼しません! ご指導ありがとうございましたっ」
と、次郎は丁寧に頭を下げた。
明らかに喧嘩を売って。
まだまだガキである。
次郎は。
「次郎すげーなー『上級生の指導に対し反抗的な態度をとり、しかも投げとばした不良』って言われてるぞ、すげえ、不良だって不良」
目をまん丸にさせて興奮気味に話すのは大吉だ。
「ほんと、すげーな! 強えんだな、次郎は」
この狭いコミュニティー。
面白い話はあっちゅう間に広がる。
「ジロー君、聞いた? 今日のジロー君はこの学校に来るまでに、九州、中国、近畿地方の六校を締め上げたことになっていたよ」
潤がうれしそうに言いながらその茶髪をいじっている。
次郎は軍隊で茶髪なんて非常識だと思っていたが、初対面の時に「この髪の毛、天然だから、僕は不良さんじゃないからね、敬遠とかしないでね」と説明を受けていた。
――ほんとかなあ。よっぽど『不良』な感じがする人なんですけど。
と、今も思っていた。
「ひやかすのはやめてください、
「ひやかしてないよ、そういう噂が流れてるって言っただけだから」
といいつつ口の端が笑っている潤。
「示現流の使い手になってるって、ちぇすとーって」
ニヤニヤしながら言う大吉。
「違います……それは鹿児島の剣術ですから、僕の家は古流の柔術やっていただけです、名前も言ってもしょうがないようなマイナーな流派ですから」
「いやー、有名人が部屋っ子てのもいいなあ」
部屋っ子とは同部屋の後輩のことを指す言葉だ。
「枝葉つけてるのはジュンさんが言いふらしているだけのような気がしてきました」
「ひどいなあ、ジロー君がこの学校で生活し
「はあ……」
そういう会話が自由にできることはありがたいんじゃないだろうか。
次郎はそう思う。
いきなり平手打ちをするような、面倒くさい上級生と同じ部屋だった場合を考えるとため息が出てしまう。
たぶん、耐え切れないと彼は思っている。
すぐに、上級生だろうがなんだろうが投げ飛ばしてしまっているだろうと。
だから、面白い先輩方に囲まれた今は、自由はあまりないが悪い生活ではないと思っている。
そして別の日の夕方。
自由時間。
彼は一人で売店に行っていた。
自分用と落合と潤に頼まれた夜食用のパンを買って。
売店の出口を一歩でると、例の上級生が立っていた。
じっと睨んでいる。
次郎は面倒な事は巻き込まれたくなかったので、目を伏せ「お疲れ様です」とできるだけ大きな声で敬礼してそこを通ろうとした。
すると目の前に大きな影が現れたため、歩みを止めた。
――三人か……。
囲むようにしてイモジャーの男が立っている。
その識別色を見ると二年生だ。
「お前か、一中の生意気なガキは」
一番大柄な男がそう言った。
「ちょっと、話があるからついて来いよ」
次郎は大きくため息を吐きたくなった。
一対一でだめなら複数。
なんいて情けない先輩だ。
なにより正義ではない……そして、めんどくさい。
「すみません、部屋の先輩から急いで帰るように言われてて」
「なあ、別にいいけど」
笑うような感じに一人が言った。
「茶髪の坊主のガキが先に待ってるがな」
次郎はその言葉を聞いた瞬間、すうっと表情が消えた。
彼は大好きな祖母からの教えを一つ思い出していた。
――相手が卑怯なこと、汚いことをしてきても、お前は真っ直ぐ真っ向からぶつかりなさい。
真っ向勝負。
卑怯な奴は許すな。
「先輩、早く済ませて下さいね」
彼はにっこり笑顔のままその台詞を棒読みにする。
なにか外れた音がした。
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