第15話「上田次郎は気を使う」

 次郎は上級生三人に連れられ、売店のある建物から外に出た。

 屋根付きの野外通路を歩き、誰もいない薄暗い倉庫群の建物内に入る。

 まったく本当にいかにもな場所があるもんだ、と彼は嘆息した。

 体育館裏、屋上に上がる階段……そういったものはどこにでもあるらしい。

「で、先輩……松岡はどこですか?」

 感情があまり含まれていない声で次郎は尋ねた。

 預かっていると言われた松岡大吉マツオカダイキチの姿はない。

 ギギィ。

 頑丈な扉が油の切れた鉄の軋む音を立てながら閉まる。

 ドオンと重い音。

 扉が閉まった。

 オレンジ色の光がガラス窓越しに彼らを照らす。

 今日は真っ赤な夕日だった。

「松岡? 誰だそれ」

 一番最初にいちゃもんをつけてきた上級生が鼻で笑う。

「……」

 次郎はまわりを見渡した。

 面倒くさい。

 そう思った。

「あほ」

 背の高い上級生が口を開いた。

「茶髪なんか、ここにはいない」

 なんて単純なことに騙されたんだろう。

 次郎はすぐにカーッと熱くなってしまう自分を責める。

 だが、よく考えるとアホなのは目の前の上級生達だということに気づいて、すうっと冷静になった。

 人質がなければ存分に暴れることができる。

 こいつらがもし黙っていれば、嘘を付き通せば、何もできずにやられるだけになっていたかもしれない。

「ああ、友情ごっこのつもりだったのか、ばー……」

 次郎は跳んだ。

 上下運動のない跳び方。

 いちゃもん上級生の顎に右手を置く。そして後頭部の方向に撫でる様に手首をくねらしながら、上級生の顔を真上に上げる。

 上級生は抵抗できない角度に首を回されていた。

 その首の角度に必死についてくようにして、身体もぐるりと回る。

 次郎は上級生の体をそのまま抱えこむ様にして、背中に胸をぴったりとつける。それとと同時に、その首に自分の腕を巻き込んだ。

 まるで吸盤がついているような、そんな巻き込み方だった。

 次郎の作戦は一人をまず締め落として無力化し、それから残りの二人と戦うものだった。

 相手は素人。

 彼の道場は対複数の稽古を重視していた。

 他の道場と比べてもそういうことはしっかり鍛錬している。

 だから、その危険性も承知していた。

 複数を相手――いくら相手が素人でも――することはリスクが高すぎるのだ。

 ――殺せれば楽なんだけど。

 などと物騒なことを考えてしまう。

 道場では、武器を持っている場合、一人一人動けなくなるように、隙を付いて急所をつくような稽古をしていた。

 自分が素手の場合は、相手の足を止めるためにその膝を砕くような蹴りをしたり、関節技で動けなくするようなころをしていた。

 あとは受身の取れない投げ技をするとか。

 もちろん、道場では寸止めなのだが。

 ただこの場合、怪我をさせないことが前提だった。

 いくら相手が複数といっても素人だ。

 怪我をさせてはいけない。

 骨折なんかさせたら、学校の問題になることは間違いない。

 中学生の時、そんなリスクを散々思い知ったのだから。

 だから、締めることを選んだ。

 一瞬で落ちてくれればいい。あと二人だったら、なんとかなるかもしれない。

 そう思っていた。

 だが、うまくいかなかった。

 締めた相手から力が抜けるのを確認した瞬間、背中に固いものを打ち付けられる痛みが走った。

 次郎は落ちた上級生が頭を打たないように地面に転がしながら二発目を回避する。

 角材を持った上級生は袈裟斬りに二撃目を入れようとしいたからだ。

 上級生が振り回した角材は勢いあまって地面を打ちつける。

 次郎はその音がするかしないかのタイミングで角材を踏みこんだ。すると、たまらず男は角材を離してしまった。

 カラン、カラン。

 角材が地面で跳ねる。

 じりじりと間合いを確かめる次郎と二人の上級生。

 一人はホウキの柄のような棒を持っている。

 視界に入った、ふたり。

 やっぱり、三人でも二人でも複数相手は不利すぎる。

 ――しゃーない……。

 うまく腕を絡み取って、投げ飛ばして背中を地面に打ち付けるか、関節を極めて痛みで悶絶させるしかないと彼は考えた。

 だが、彼の期待は外れた。

 素手の奴が何かを叫んで、中途半端な中段回し蹴りをしてきたのだ。

 次郎は身体を少し引くようにして勢いを殺し、相手の足を掴み取る。

 ぐっと引っ張ると男はケンケンをするような形でバランスを崩す。

 次郎は足を振り上げ、そのつま先で無防備な股間を蹴り上げた。

 つぶれないような強さ。

 なんとも気持ち悪い感触が足に感じると同時に、男は声にならない悲鳴を上げた。

 その声があまりにも悲痛な叫びだったから油断してしまったのかもしれない。

 後頭部に鈍い痛みを感じた時に、彼は反省した。

 ――ったく、つめが甘いってお姉ちゃんにいつも怒られるもんな……。

 ぐらりと視界が揺れた。

 棒を投げ捨てた大柄な上級生。

 彼はがむしゃらに次郎に抱きついた。

 そしてそのまま押し倒す。

 息の荒い男が覆いかぶさる、次郎はなんとか抜け出そうともがきながら引き剥がそうとする。だが、体重の重さと馬鹿力のせいでうまくいかない。

 次に次郎は相手の腕の内側を思いっきり抓り上げ、その相手が痛みに反応する隙を付いて関節でも捕ろうとした。

 しかし、相手は痛みを我慢して隙を作らない。

 そうやっているうちに、影が二つ次郎を見下ろすことに気付く。

 やばい。

 そう感じて、慌てて脇の下の急所でもあるアバラ三本をかばうようにして後背筋を向けた。

 それでも低い声を漏らしてしまうような痛みが走る。

 素人は手加減を知らないから性質タチが悪い。

 次郎は痛感した。

 上級生の一人が、押さえ込んでいる男の体の隙間にある次郎の体を狙って、ゲームのような感覚で、ボコボコ蹴りだした。

 彼はまたぐらりと視界が揺れる。

 男の一人が頭を、こめかみあたりを蹴ったからだ。

 ちょっとした吐き気に次郎は襲われながら、素人の怖さを感じていた。

 ――こういう奴らが、間違って人を殺しちゃったりするんだろうな……。

 次郎はなぜか、ひとごとの様に考える。

 その時だった。

 扉とは別の方向から薄暗くなりつつある通路に響く「きゃっ」という女の子の悲鳴が聞こえたのは。

 通路の向こう側に、暮れる直前の夕日が逆光になり、一瞬だけ女の子のシルエットを映し出す。

「ちっ、邪魔が入った」

 もっとも捨て台詞的な言葉を吐く上級生。

 三人は逃げるように扉の方へ走っていく。

 男子だったら、脅しかけて黙らせることもできるが、さすがに女子にはそういうこともできないと思ったんだろう。

 事がばれれば一発退学になってしまう。

 それに彼らは十分目的を果たしたと思っていた。

 ただ、挙げた拳を下げるタイミングがなく、だらだら次郎をいたぶっていたのからだ。

 潮時というやつなのだろう。

「ふう」

 次郎は地面に寝転んだまま息を吐いた。

 そして体をさすり、痛めた場所を確認する。

 とりあえず、体は殴る蹴られるのは慣れているから、うまく骨の部分は避けた。だから全体的にはたいしたことはないということだ。

 だが、頭は少し痛かった。

 目を閉じる。

 ……。

 まただ。

 また、彼は油断していた。

 慎重にしないといけないと思っていたが、つい調子に乗ってしまう。

 今日、数回目の反省。

 彼は目を開いて日が暮れて薄暗くなった中に立っている少女を見たことに。

 黒い革靴、濃い緑のハイソックスにエメラルドグリーンのスカートとブレザー、白いシャツに黒のリボンタイプのネクタイ、そして薄暗い中でも目立つ金色のおかっぱ頭。

 この学校の制服ではない。

「つまんない」

 彼女は蔑むような眼差しを次郎に向けた。

「なんでらないのかな」

 ため息。

 次郎は彼女が何を言っているのか理解できない。

 目をぱちぱちさせて、言葉を理解しようと努力する。

 その瞬間だった。

 金髪おかっぱが揺れたと同時に、その彼女の足が短くステップを踏んだのは。

 見上げた天井が隠れて、視界が瞬間的に暗くなったような感覚を覚える次郎。

 彼女が次郎の顔を踏み込もうとしたからだ。

 目の前に革靴の裏底が目一杯広がる恐怖を味わう。

 寝返りをうつようにして体を素早く回転させ、それを何とか避けた。

 反撃とばかりに、そのまま背中を中心にコマのように体を回転させ、金髪おかっぱの足を払おうとしたが、空を切ってしまった。

 彼女は素早く避けていた。

 金髪のおかっぱとスカートをふわりとさせて、簡単に彼の足がらみを避けていた。

 逆に、そのまま短いステップを踏んで、まだ攻撃しようとしている。

 彼は腕を十字させて、なんとかその蹴りをガードした。

 彼女はぐっとその腕を踏みつけるような体勢で彼を見下す。

 次郎は、踏み込まれる腕の痛みを我慢しながら、その革靴からハイソックス、そしてその先にある白い太ももとその付け根を見上げた。

 

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