第5話「三島緑は赤面する」

 バスケのポジション争いのように体と体でぶつかりながら次郎をブロック。

「天橋立とか、そういうのが近くにある海軍の町……ですよね」

「そうそう、京都って聞いてがっかりするぐらいの田舎町だけど、海が綺麗な……」

 ぐぐっ。

 風子が一瞬だけ気を抜いた隙に、今度は次郎が右後方から肩を入れ込むようにしてふたりの間に入ってきた。

 そうは言っても右手で例の看板を持っているものだから左手だけで彼女と対峙することになる。

 比較的不利な態勢だった。

「静岡? どのあたり? 俺、親戚が御殿場にいるんだよね」

「あ、その、沼津……」

 風子もむきになって、右半身を彼に密着させるとともに、右手を彼の脇の下からもぐりこませ彼の胸、首にかけて制した。

「あのね、上田君とか言ったっけ、私が話してるんだけど」

 笑顔を崩さず力んだ声で彼女は言った。

「お、俺も三島さんと話がしたいんだよ」

 お前じゃ会話にならないから、と次郎の顔には書かれているのを風子は読み取った。

 負けじと彼女の右手を押し戻そうと次郎は力を入れる。そうすると風子は手だけでなく腰まで彼に押し付けて踏ん張っていた。

 そうやって、オロオロする緑を目の前にして一進一退の攻防を繰り広げる。

 ムキになったふたりは、ともに足をガニマタにして踏ん張った。

 一方緑はふたりの迫力に気負されて、一歩また一歩と下がっていった。

 ドン引きと言ってもいい。

「だいたい、なに? 電車の中では無視するわ、人の顔見て不機嫌になるわ、話の邪魔はするわ」

 声がどんどん荒くなる。

「それはそっちだろう、俺は無視してないって、勝手に怒って、だいたい最初に三島さんに声をかけたのは俺が先」

「うるさい! こんなところに来て、早々にかわいい女の子をナンパするような奴なんでしょ? 危険、汚らわしい、私が三島さんを守る」

「な、ナンパなんかじゃない、俺は……う」

 風子が次郎の首元に肘をあてがってぐいぐい押すのだ。立ちギロチンチョークを自然にやっている。

 彼もむきになって、押し戻そうとするからどんどん苦しくなる。

 そして風子がとどめの一撃。

 右足で引っ掛けるようにして、お尻で突き飛ばそうとした。

 彼はまさか女子がそんなことをするわけがないと油断していたため、簡単にバランスを崩し後ろに倒れそうになる。

 次郎は必死に倒れまいと抵抗。

 もがくように後ろから左手を伸ばし彼女の体にしがみ付いた。

「ちょっ」

「うわっ」

 ふたりは素っ頓狂な声をあげ、ジタバタしながら仰向けに倒れた。看板が派手に床にぶつかり、その勢いで釘で打ち込んでいた棒の部分と板の部分が弾け飛ぶ。

 次郎は両手が不自由なまま頭を打たないようにうまく受身を取ったつもりだった。だが、上に重なる風子の全体重が乗ってきたため、頭は守れたが胸を思いっきり圧迫され、げほげほとむせることになった。

 風子は風子で次郎の体の上でじたばたしていた。彼の左手ががっしりと体を掴んだまま離れないからだ。

 しばらくして天井を見た。その格子状の白い蛍光灯が目に入ったとき、すうっと冷たい気持ちになる。私何してるんだろう……と。

 なんだか悲しくなってきて、そして脱力してしまった。

 ――もう、失敗しないって決めていたのに……ああ、たぶん三島さんは、私のこと見てドン引きなんだろうなあ。

 と思った。

 残念なことに、彼女は実際ドン引きしている。

 瞬間的に沸騰してしまう性格を直さなければいけないと思っていた矢先だった。

 ついついやってしまった。

 そんな事で彼女は頭がいっぱいだったから下敷きになって唸っている次郎のことなどまったく眼中にない。

「お、重い」

 潰れた蛙のような声が聞こえた。潰れてしまった蛙はそもそもしゃべれるはずかないんだけど、彼女はそう思って我に返った。

 視線を左右に振る。

 赤面する三島。

 怒った顔をした例の女性将校。

 それからニヤニヤ笑っている綾部軍曹が目に入った。そして、首を起こすと胸の上にゴツゴツした手が乗っていることを確認する。

「む、胸、ど、どこ触ってるのよっ」

 かああっと顔が熱くなる。慌てて自分の胸に置かれているその手を掴み取る。そして体を捻らせて顔を近づけたと同時に思いっきりそれに噛み付いた。

 駅に次郎の痛切な悲鳴が鳴り響びき、周りの通行人も一斉に彼女の方を向いた。

「いいかげんにしなさい!」

 日之出の一喝。

 もみ合う二人が固まる。風子に限っては口をぽかんと開けて声のする方を向いた。その口元にある赤く歯型がついた次郎の手が痛々しい。

「はいはい」

 手を叩く音。そして風子が自分の上にすうっと大きな影がかかったと思った瞬間、次郎よりも大きくて硬い皮膚の感触のある手で風子の右手が引っ張られた。

「お嬢ちゃん、やるねえ」

 風子が立ち上がって、前を向くとヘラヘラした綾部が立っていた。

「坊主、お前は自分で立てよ、痛くねえ、男の子男の子」

 そう言いながら次郎のわき腹をつま先で小突く。

 はははと楽しそうに笑った綾部。

 次の瞬間彼の顔が凍ったのを風子は見てしまった。

 音も立てずに綾部の間合いに入る影。その顔は顎を上げ完全に据わった目で綾部を見下ろすように見えた。

 綾部の方が背が高いはずだが、小さく見える。

「まずは、綾部軍曹、この騒ぎについて説明」

 明らかに怒気を含んだ声で彼女は言った。

 数分後、彼女はしょぼんとなった綾部を放置して、子供たちの前に立った。

 目と眉が釣り上がっている。

「駅のど真ん中で喧嘩、説明」

 二人は彼女の低くて迫力のある声に気負されて言葉に詰まってしまった。

 さっきまで綾部軍曹が彼女から「監督責任」とか「なんで止めない」とか散々厳しい口調で説教していたのを聞いていたからだ。

 何せ、彼が一つ言い訳しようものなら、三つ以上の言葉と内容で罵られるのだ。だから適当な言い訳も思いつかない。

 綾部が「いやー、見てて楽しかったので」なんて口をすべらした時は、彼女の黒髪が静電気を帯びたように逆立ちしたように見えた。

 目の錯覚と思えないほどの怒りのオーラに彼女は身を包み、そして鬼の形相で睨みつけた。

 整った顔がそうなるものだから、なおさら迫力がある。あんな状況を見れば誰だって怖気づくというものだ。

 この子たちも人の振り見て態度をちゃんと変えれるくらいの頭は持っていた。

「原因」

 単語を投げかける日之出。

 次郎はゴクリと息を飲み込み、意を決した面持ちので口を開いた。

「あ、挨拶をしようとして」

 訝しげな表情で見られる。

「ちょっと、じゃれあっていたら」

 と、風子が繋げる。

「むきになりまして」

 と、もう一度次郎が被せる。

「すみませんでした」

 と、深々と頭を下げながら緑が言った。

 当事者ではない、むしろ巻き込まれたと言ってもいい緑が頭を下げた。それを見て脱力してしまったのだろうか。日之出は呆れた顔になった。

 そもそも、綾部を問い詰めた時にエネルギーを使い過ぎてしまったせいでもある。叱ることもエネルギーが要るのだ。

 逆に彼女にとって綾部を叱ることはとても相性のいいガス抜きだったりする。

 趣味と言ってもいい。

 やった夜は寝つきがよくなるし、シャワーを浴びていると肌の艶もよくなった気がする。

 わざわざ子供たちを叱って、抜けたガスを再び溜めたくはない。

 彼女は咳払いをして三人を見た。

「まだ、県外組がそろっていないから、しばらく大人しく待っていなさい」

 大人しく、を強調して彼女は言った。

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