第117話「カレー戦争」

 次郎はコンパスと地図を見比べている。そして、腰上まである雑草の中で立ち止ったあと、ため息をついた。

「ここらへんなんだけどなあ」

 目当ての場所はこのあたりなのだが、まわりには目印になりそうなものがまったくない錯雑地だ。

 ちゃんと目的地に着いたという保証もない。

 教官から渡されたコンパスと地図。

 三六〇分割の『度』ではなく、六四〇〇分割の『ミル』という単位がひかれているコンパス。

 同様に地図も、等高線やUTM――ユニバーサル横メルカトル図法――座標がひかれている軍用のもの。

 『米』『鶏肉』『じゃがいも』『人参』『たまねぎ』などのシンボルマークをじっと見る次郎。

 昨日の課目と同じ絵だ。

 無口な青年将校……こんなかわいい絵を描くとは思えない、隠れオタクのレンジャー林少尉が描いたシンボルマークである。

 次郎達学生の任務は、夕食にカレーをつくることだった。

 各中隊の学生達は十人一組のグループにわかれて、それぞれ役割を与えることになった。

 美味しいカレーを作るには、すべての具が必要だった。このため、次郎のグループは炊き出しする学生と具材を探す学生に分かれて、任務を分担していた。

 任務であるカレー作り。

 その夕食のカレーの食材を手に入れるため、次郎達一行は演習場の中を探索していた。

 ルールは単純だ。

 示された地点に『食材』チケットを持った教官達が隠れている。

 それを探しだしてチケットを貰う。

 宿営地に戻って貰ったチケットと食材を交換する。

 それだけだ。

 コンパスと地図を見て目的地にいけばいいのだ。

 これは実際やってみると難しい。

 一万分の一スケールの地図。

 食材のありかを示すポイント、宿営地からそのポイントまでは直線にすれば一キロメートルもない距離だが、その間に谷や山がある。

 それだけならいいが、地図上では平面に見える森林内も平らではなく、ところどころデコボコした地形がある。

 学生達は地図に分度器――もちろん六四〇〇分割のもの――を当て地図上の方向を計り、コンパスで現地で進む方向を決める。そして、歩数で距離を測り自分の位置を把握する。

 越えることができない地形障害――溝とかやぶこぎできないほどの植生など――があれば、迂回するしかない。

 六四〇〇分の一。

 一ミル間違えば、一キロメートル先で一メートルの誤差だが、一〇ミル間違えば一〇メートル、一〇〇ミル間違えば一〇〇メートルなのだ。

 円を六四分割したものが一〇〇単位、アナログ時計でも六〇分割であることを想像すれば、如何に繊細な作業かわかるだろう。

「スマフォがあればいっぱつなのに」

 そうぼやく大吉は登山用のアプリで、ナビができることを知っていた。

 もちろん、そんなことは教官も承知しているため、とっくの昔にスマフォ類は取り上げられている。

 大吉に次郎それに京と俊介。

 このチームで『食材』探索をしていた。

 料理チームは自称腕に覚えがあるサーシャなど、料理経験者を基準に残していた。

「ま、時間もあるしぼちぼちと」

 大吉があくびをしながらそう言う。

 次郎が必死に地図とコンパスを見ているのに、大吉は俊介を質問攻めにしてずっとしゃべっていた。

「で、どうなんだよ」

「え?」

 大吉がエロ話をする時のあの男子特有のキラキラしていた。

 質問の内容は俊介の彼女である小牧楓。

「これくらいかな」

 手のひらを広げ、お椀のような形にする俊介。

 ずっと嫌がっていたがしつこい大吉に根負けしてしまった。

「え、そんなに」

「すごいのかな、着やせするタイプかも」

「がっでーーーーむ!」

 大吉が草むらに膝をつく。

「……おい、次郎……こいつ、神だ、神」

「な、なに」

「着やせって、あれだろ、見たんだろ、中身、触れたんだろ、中身、え、なあ」

「……」

「え、まじ、なんで黙るの? その先もいったの? 触ったの? 揉んだ! つまんだあっ!」

 大吉は興奮のあまり絶叫していた。

 立派な男の子である。

 げしっと言う音とともに前につんのめる大吉。

 その後ろには冷たい目をした京がいた。

 後ろからその背中を蹴り倒したらしい。

「エロ吉、お前歩数測っているのか?」

 顔面を地面にこすりつけたせいで顔に枯れ葉がくっついている。葉っぱについていたのだろう、ダンゴムシが大吉の坊主頭の上を走っていた。

「お、おう」

 目を背ける大吉。

「で、今は、さっきの地点からここは何メートルだよ」

「俊介が測っている」

「え?」

 ビクッとする俊介。

「ぼ、僕は大吉くんが数えるって」

「いったけ? あれ?」

 白々しい大吉に対し、ジト目で京が睨む。

 そんな会話を聞きながら次郎は大きなため息をついた。

「……俊介、大吉」

 地図とコンパスで方向を測りながら「三七〇〇ミル方向へ三〇メートル」とか指示するのが次郎。先頭を歩いて、まっすぐいける場所かどうかを確認するのが京。距離を歩測で確認するのが大吉と俊介という役割分担だった。

 歩測を大吉と俊介にしたのは、一歩一歩の間隔で正確に測れるものではないので二人の平均を出して誤差を補正する目的があったのだが。

「ご、ごめんなさい宮城くん」

 そう言って京に謝る俊介。

「俊介は悪くない、大吉、お前が小牧の胸がどうとか」

 大吉を見下ろす京の目は冷たい。

 クイッと細い眼鏡を上げて「どうせあてにならないだろうと思ってたから、歩数は俺が測っている」と言った。

 京は大吉に向けて言ったつもりだったが、俊介の肩がガックリと垂れている。

 自分が責められているような気になってしまったのだ。

 いっぽう大吉はまったく気にしていない。

 会話を元に戻している。

「気になるじゃねーか、で、も、もうやったのか、ねえ、おいい」

 京の嫌味など意にかえさず、ただひたすら男の子の本能に走る大吉。

 だってそういうお年頃だもの。

「……」

 大吉のしつこさに無言のまま一歩後ろにさがる俊介。

「か、彼氏と彼女だから」

「ど、どこでやったんだ! え、学校のなか」

「そ、そんなところではしてないし」

「し、したのか」

「……体育祭の後、秋の連休シルバーウィークで」

「がっでーーーーむ!」

 坊主頭を掻きむしる大吉。

「お師匠!」

 男子たるもの、すぐれた師を持つことは大切である。

「す、すごいの?」

 次郎もくいついてきた。

 彼もやっぱり男の子。いや、むしろムッツリスケベである。

「柔らかい」

「「柔らかいっ!」」

 大声で復唱してしまう大吉と次郎。

 しょうがない。

 そんなふたりにため息をついてしまう京。

「きょ、京は興味ないのかよっ」

「……興味があっても、そうやっていちいちバカみたいに騒ぐのが嫌なだけだ」

「うわ、ひとりだけ大人ぶりやがって」

 口を尖らせて抗議する大吉。

「ガキには興味が、ない」

 次郎が京の口真似をする。

「俺だって、あきらみたいな大人って感じが」

 なぜか張り合う大吉。

 日之出中尉を晶よばわりする少年。

 本人に聞かれたらあの冷たい目で蔑まれ、コンクリート詰めにされ海没処分になるのは間違いない。

「お前、この前は真田中尉って」

 バカにした目のままの京。

 お姉さん的な日之出中尉ではなく、おねえちゃん的な真田中尉も人気がある。

「す、鈴ちゃんもいいけど、なんつうか、子供っぽいというか」

 真田中尉は『鈴ちゃん』という感じに親しみを込めてよばれ、若干なめられていた。

「けっこう、年上が好きなんだな」

「「「けっこう?」」」

 はてなマークを頭の上に浮かべる、京以外の三人。

「ああ見えてふたりとも三十路みそじ手前だぞ」

「まじでっ!」

 大きな声を出したのは次郎だ。

「だって、鈴ちゃんなんて、どうみたって二〇手前の童顔」

「考えてみろ、あのひとたちの階級……一番早くても二十四で少尉、その二年後に中尉だろう、役職的に中尉でも上の方だから年数もあるだろうし」

「そうだったのか……俺の倍は生きてるんだ」

 大吉がなぜか愕然としている。

「かあちゃんが三十四だから……えっと」

 大吉母は十八で彼を出産している。

「日之出中尉も鈴ちゃんもかあちゃんといっしょ……」

 立ち上がった大吉は悟り顔でそう呟いた。

「なんてこった」

 次郎がショックのあまり地図を落とす。

「……そこがいいのに」

 京がふっと目を細め空を見た。

「上級者だ」

 まぶしそうに見つめる大吉。

「すげえ」

 男の中の男を見る様に感動した次郎。

年増としま、熟女こそ男子の本懐」

 京の眼鏡がキラリ輝いた瞬間だった。

「誰が年増? 熟女?」

 ガサリ草むらの中から動く草の塊。

 頭から体に生い茂る草を体につけ、顔にドウラン――迷彩の化粧――を塗った人間だった。

 よくみると、迷彩服に女性の輪郭が浮き出ている。

 笑顔のドウラン。

「三〇過ぎてませんが、何か」

 真田中尉本人だ。

「ひいいっ」

 いつも冷静な顔を崩すことがない京だが、さすがに目をまるくして後ずさる。

 地面の根っこに足を引っかけそのまま尻餅をついてしまった。

「おかあさん? だれが? ねえ」

 優しい声で問いかけるが彼女の目だけは笑っていない。

「あわわわわ」

 次郎は口をパクパクさせている。

「けっしてけっして」

 なんていえばいいかわからない大吉は心臓をバクバクさせながら硬直した。

 一方俊介は真田中尉に自分と楓の事を聞かれてしまったんじゃないかと、そのことばかり心配している。

 中隊長は部内恋愛禁止と声高に言っていたからだ。

 もし、自分達の事がばれたらどうなるのか、怖った。

 慌ててひれ伏す男子達。

 こうして、彼らはなぜか平謝りしながら『鶏肉』チケットを手に入れることができた。

 そのカードを配る役だった真田中尉。

 失言は多かったが、うまくできていたグループであった。

 夕食のチキンカレーに一歩前進である。それでも、これが一個目の食材。

 ひどく疲労してしまったが、彼らはさらなる食材を求めて歩き回らなければならなかった。



 昼過ぎまでには食材チケットを手にいれることができた学生達は次々にぶつぶつ交換をしていた。

 ――コケッコケッ。

 鶏の鳴き声。

「学生は今から鶏の解体のやり方を教えるのでよく覚えておくように」

 林少尉がそう言いながら木から鶏を吊るした。

「これで生き物の命をいただいているとか、そういう高尚な事を教えるわけじゃない……戦場に行けば、現地であるもので食べなければならないときがある」

 慣れた手つきで大型のナイフで首を落とした。

 もう一羽は綾部軍曹が一瞬で首を落とす。

 ぼたぼたと落ちる血。

 その後、大きな釜に鶏を入れ毛を毟り、そして肉をそいでいった。

 学生、ドン引きである。

 こういうのは女子の方が平気な顔をしているから不思議なものだと、林は学生を見ながら思った。

 まあ、喜んで見れるものではない。

 林自身、この作業は苦手であるが、教官に指名されたため仕方なくやっていたというのもある。

「じゃあ、学生もやってみるか? 真田中尉から事前に希望者を聞いていたので」

 そう言って胸のポケットからメモを取り出す。

「宮城、それから松岡」

 ビクッとする京と大吉。

 希望なんかしていない。

 あの後、鈴が笑顔のまま『お肉の切り方の実技したい?』と言われ、勢いで二〇回ぐらい頷いただけである。

 お肉イコール鶏とは思っていなかった。

 ナイフを手にした京。

 ケコ、ケコと鳴く鶏。

 震える手。

「ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー」

 なんとなくお経の様なものを唱え、暴れる鶏の首を必死に切り落としていった。

 あんなに細い首であっても、生き物の首というのを切るのは大変なことであった。

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